東海大学紀要(文学部)第103号(2015年10月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである)
南フランス・ロゼール県北部の中世ロマネスク聖堂(1) Les églises romanes dans le nord de la Lozère, la région Languedoc-Roussillon. 中川 久嗣 南フランスのロゼール県(Le Département de la Lozère)は、いわゆるラングドック地方の最北部に位置する。ラングドックは、行政的には最近まで「ラングドック=ルシヨン地域圏」(la région de Languedoc-Rousillon)であったが、2014年からは「ミディ=ピレネー・ラングドック=ルシヨン地域圏」 (la région de Midi-Pyrénées et Languedoc-Roussillon)」に再編されることとなった。しかし依然としてその最も北にあることには変わりがない。ロゼールの西はミディ=ピレネーのアヴェロン県、北はオーヴェルニュのカンタル県とオート・ロワール県、東はローヌ=アルプのアルデッシュ県と接する。南側は同じラングドックのガール県である。 地形的には中央山塊(Massif Central)の最も南側を形作るセヴェンヌ(Cévennes)山脈を含み、タルヌ川(Tarn)やロー川(Lot)などいくつかの渓谷をはさみながらも、南から北へとオーヴェルニュに向けて、標高1000メートルを超えるなだらかな高原地帯が続く。しかし例えばアルプスのような山岳地形における大きな高低差が見られないので、南の地中海地方やローヌ川沿岸地方、そして北のオーヴェルニュ地方からの文化的交流・影響関係は、歴史的には比較的スムーズに見られたと言える。 ロゼール県のおおよその地域は、かつて(フランス革命まで)は「ジェヴォーダン」(Gévaudan)とも呼ばれ、政治的には中世以来、数多くの聖俗封建領主の支配下に置かれてきた。6世紀に西ゴートがピレネーの南に去ってからは、フランク王国の支配の後、10世紀にはジェヴォーダン伯が現れるが、ほどなく副伯領 (vicomté)に分裂、11世紀後半にはジルベール1世(Gilbert Ier de Gévaudan)が再びジェヴォーダン伯を名乗った。しかしその政治的内実は複雑で、伯権力の下に、8つのバロニー(男爵領/barronie※1)が存在した。すなわち、おおよそ北からメルクール(Mercœur)、アプシェ(Apchier)、ペイル(Peyre※2)、ランドン(Randon)、トゥルネル(Tournel)、セナレ(Cénaret)、カニヤック(Canilhac)、フロラック (Florac)である。ジルベールはその後プロヴァンス女伯との婚姻関係によってプロヴァンス伯を兼ねるが、その娘ドゥース(Douce)は、今度はバルセロナ伯レーモン・ベランジェ3世(Raymond Bérenger III, comte de Barcelone)と結婚したので、ジェヴォーダン伯位は、プロヴァンス伯位とともにバルセロナ伯家(アラゴン王家)が保持することとなった。 しかしその一方でジェヴォーダンにおいて実権を強めてきていたのが歴代のマンド司教であった。11世紀半ばのマンド司教アルドゥベール1世・ドゥ・ペイル(Aldebert Ier de Peyre)は、ペイル男爵家の出身で、シラクのサン=ソヴール修道院(Saint-Sauveur-de-Chirac、1060年。現在はLe Monastier-Pin-Moriès )やル・ロジエのサン=ソヴール修道院(Saint-Sauveur du Rozier、1075年)を創建している。11世紀末から12世紀前半には、やはりペイル家に連なるアルドゥベール2世・ドゥ・ペイル(Aldebert II de Peyre、1世の子)が、ジェヴォーダン各地の小修道院をシラクのサン=ソヴール修道院に付属させるなど、その勢力を拡大させ、さらにマンドのカテドラルの改築を行った。12世紀後半にはトゥルネル男爵家出身のアルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネル(Aldebert III de Tournel)がフランス国王ルイ7世から勅書(la Bulle d'or)によってジェヴォーダン司教区における司教の支配権をあらためて認められている。これはジェヴォーダン伯権力(アラゴン王家)や隣接する男爵領に対して司教権力を強化するものであったであろう。アルビジョア十字軍の後、1258年のコルベイユ条約によってアラゴン王がラングドックの支配権を放棄したあとは、1307年に至って、マンド司教ギヨーム6世・デュラン(Guillaume VI Durand)が国王フィリップ4世(le Bel)と協約を結び、ジェヴォーダンを国王との間で分割統治することとし(paréage)、自らは「ジェヴォーダン司教伯」 (comte-évêque)の地位を得た。司教ギヨーム・デュランの印璽(sceau)には、左手に司教杖、右手に剣(伯権力の象徴)を持つ彼の姿が刻印されている。かくしてマンド司教は、フランス革命までジェヴォーダン伯として君臨することとなったのである。 本稿(ならびに次稿以降)では、このような地理的・歴史的背景を持つロゼール県の中世ロマネスク期のキリスト教聖堂(教会堂)について歴史的概略と実地調査に基づく説明・考察を加えた。ただし取り扱う聖堂 は、「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11~12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク」期を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれている。 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、大まかな地域、自治体(Commune)の順で番号を付した。同一の自治体に複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した。本稿では「48.1」にあたるロゼール県北部ル・マルジュー=ヴィルからサン=シェリー=ダプシェ、そしてフルネルにかけての地域のコミューンにある聖堂を扱った。 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」を用いた。さらに聖堂の分類上の呼称、とりわけ「教会」(église)と「礼拝堂」(chapelle)の区別は、同一の聖堂であっても文献・資料によってまちまちである。ここでは個別の聖堂の名称としては、やはり基本的に「教会」(église)を用いるが、あくまでも現地の慣用的呼称が「礼拝堂」(chapelle)の場合は、それを用いた。また個々の地名や聖堂の名称についても、現地の慣用のものを採用した。 採り上げる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし、地形的な理由でアクセスできなかったり、私有地内にあったり聖堂自体が私有(privé)であったり、あるいは単純にその所在場所が最終的に不明であったりして、訪問・調査できなかったものもある。それらには▲を記した。 ※1 « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。 ※2 « Peyre »の日本語表記は、通常は「ペル」または「ペール」となろうが、ロゼールの現地住民などの多くはオック語の伝統もあって現在でも「ペイル」と発音することが多い。したがって本稿では標準フランス語の発音に合わせるのではなく、さしあたってそのまま「ペイル」としてい る) |
48.1 Le Malzieu-Ville、Saint-Chély-d'Apcher、Fournelsとその周辺 48.1.1 ポーラック=アン=マルジュリッド/サン=ジャン教会 (Église Saint-Jean, Paulhac-en-Margeride) ロゼール県の最北端部に位置する。この教会は、かつてはイエルサレムの聖ヨハネ病院修道会に属する修道院のものであったことからこの名前がついた。村の中心にあり、鐘楼を戴く高い尖塔が目を引くが、それ自体は最近のものである。そもそも聖堂全体が17世紀以降に修復・再建されたものであるが、かつての古い聖堂の様式を保っている。塔の下のファサードに扉口があり、左右にがっしりした太い2本の柱がある(これもまた古いものではない)。後陣は五角形で、半円形頭部を持ち内部に向けて扇形に広がる開口部が3つあり、中央のものは左右のものよりも少し小さくて、現在は壁で埋められている。きれいに修復されている内部は、3つのベイを持つ身廊の上に半円筒形のヴォールトが載り、身廊の両側には尖塔アーチの壁をはさんで交差リブ・ヴォールトのついた祭室(後から付け加えられたもの)がある。身廊につけられた横断アーチを支える円柱の柱頭(東側の2つ)が、かつてのロマネスク様式を思わせる植物文様の彫刻である。南側がアカンサスの葉と枝、北側がV字形に広がってツルを巻く植物である。 Trémolet de Villers(1998)pp.147-148; RIP. 48.1.2 ジュリアンジュ/サン=フレザル教会(Église Saint-Frézal, Julianges) ジュリアンジュの村はル・マルジュー=ヴィル(Le Malzieu-Ville)の北およそ10キロに位置し、オーヴェルニュのカンタル県との県境に近い。周辺でガロ・ローマ時代のヴィラの遺構がいくつか見つかっており、この村の名前もそれらとの関連がある。サン=フレザル(聖フレザル)は、9世紀にジェヴォーダンで殉教した(あるいは甥に殺されたとも伝えられる)マンドの司教で、ラ・カヌルグ(La Canourgue)に葬られた。 聖堂は大幅に改築されているが(16世紀以降)、身廊と五角形の内陣は古い聖堂のプランを保持している。身廊は3つのベイからなり、半円筒形ヴォールトが載る(表面は現在は改修され白く塗装されている)。それぞれのベイの南北の壁には大きなアーチがつけられている。またヴォールトの横断アーチを支える円柱の柱頭部には、ロマネスク様式を思わせる植物文様の彫刻が残る。単純な図柄であるが摩耗が進んでいる。内陣のヴォールトは7本のリブ(オジーヴ)で支えられており、その壁には開口部はない。内陣の壁は不揃いな石が荒積みされている。また身廊西端には木製の2階席が設けられている。2階席の左右両側ではそれぞれ素朴な植物の葉の彫刻のつけられた柱頭を間近に見ることができる。内陣北側に沿って置かれた信者席には、十字架などが彫刻された古い石棺らしいパネルの一部が利用されているのが分かる。 それぞれの角に細長い支え壁のついた五角形の後陣外部には、さらに後の時代に付け加えられた建物が付属する。15世紀の聖母子像が置かれた身廊南側の小さな礼拝室(リブ・ヴォールトがつく)も後の時代のものである。側壁と屋根の間の軒持ち送り彫刻の類は見られない。身廊の開口部は南側と西側の壁のみに開いていて半円形頭部(アーチ)の縦長のもの。聖堂の扉口は南壁にある。この扉口は大きめの石を重ねたもので半円形アーチを持つが、それ自体には古さは感じられない。背の高い西壁には丸窓(または牛眼、オキュリュス/オクルス)が上部に、下部には2つの細長い半円形頭部の開口部(隅切り窓)があるが、がっしりした石積みの壁で(それらの石には斜めの打ち出し痕が残る)、その上に2段構えで3つの鐘をつる鐘楼が載っている。教会外部の南壁に沿って石の十字架が立てられていて、そのうちの中央のものには、磔刑にされたキリストが彫られている。 Trémolet de Villers(1998)pp.149-150. 48.1.3 ショラック/ サン=フレザル教会(Église Saint-Frézal, Chaulhac) カンタル県との県境に近い。県道D8沿いの静かな村である。この村の聖堂は、かつてはサン・フレザル小修道院のもので、この修道院は、オーヴェルニュ地方オート・ロワール県のラ・ヴート・シアックにあったベネディクト会修道院に属していた。もとの聖堂は12世紀に建てられたが、宗教戦争時代に荒らされ、16世紀以降に修復が重ねられてきた。4つのアーケードが横に連なる鐘楼(16世紀)の高さはさほど高くなく、ともに斜めの屋根のついた身廊南側の祭室と後陣北側に付け加えられた建物などによって、特に東の後陣側から見ると、この聖堂全体は、南北の均整はとれていないものの、とても安定した印象を与える。鐘楼の北には、不揃いな石を乱積みしたような背の低い円形の塔が見える。半円形の後陣(シュベ)および身廊の外壁には細長い支え壁がつく。大きな石をがっちりと積んだ西側の壁の上には大きな丸窓が1つ開けられているだけである。扉口は聖堂南側の壁にあって、4段からなるヴシュール(扉口の上のアーチ)の一番外側の細いアーチが最も古く、そこには歳月によって摩耗していて分かりづらいが、花、星、月、人面、半円球体、羊(または山羊 か)、そして不思議な線的文様などが彫刻されている。 内部は南北両側に祭室があるが、もともとは単身廊であった。現在の身廊は3ベイからなり(もとは2ベ イ)、ヴォールトはわずかに尖頭形である。しかし後陣のヴォールトは半円形であり、「勝利アーチ」すなわち内陣と身廊を分ける3段構えの横断アーチ(arc triomphal、「凱旋アーチ」とも言う)にその対比が見て取れる。身廊を支える計6本の柱のロマネスク風の柱頭彫刻は、アカンサス風の大きな葉や渦を巻くパルメッ ト、角の突出部の人面である。後陣内部に並ぶ5つの半円形アーケードを支える小円柱の柱頭も同様である。身廊、後陣ともにヴォールトは最近になって塗り直されている。一番西側のベイには木製の2階席が設けられている。 なお、13世紀末にこの村で生まれたギー・ドゥ・ショラック(Guy de Chaulhac)は、トゥールーズ、モンペリエ、ボローニャなどで医学を学んだ後、教皇庁時代のアヴィニヨンで教皇侍医を務め(1342年にはラ=シェーズ=デューのベネディクト会修道士に手術を行ったが、その修道士が後の教皇クレメンス6世となる)、また1348年のアヴィニヨンでのペスト流行の際には熱心に患者の治療に当たった。1363年には『大外科学』(Chirurgia Magna, 1363)を著し、「近代外科学の父」とも言われる。 Trémolet de Villers(1998)pp.150-151; RIP. 48.1.4 サン=プリヴァ=デュ=フォー教会(Église de Saint-Privat-du-Fau) サン=プリヴァ=デュ=フォーは、ル・マルジュー=ヴィル(Le Malzieu-Ville)から県道D989を約8キロ北上し、西に折れて約2キロ。「フォー」とはブナの木を表す。聖堂は村の西端に位置する。もともとはペブラック(Pébrac)の修道士たちによって12世紀に建てられたが、その後大きく再建・改修されている(とりわけ20世紀)。下から4つ、2つ、1つとアーケードが3段に重なった鐘楼は、特に古いものではないが、繊細かつ均整が取れていて非常に美しい。西側のファサード(19世紀)には、もとは南側の側壁にあったゴシック・フランボワイアン様式の扉口、および丸窓と尖塔アーチの窓がつく。控えめな付け柱(扶壁)のある後陣は半円形で、後の時代の建物(聖具室)が付属する。身廊と後陣に開いている開口部は、頭部が半円アーチのものと尖頭アーチのものが混在する。内部は大きさが少し違う2つのベイを持つ身廊(4分交差リブ・ヴォールト) と、ロマネスク様式の後陣(交差ヴォールト。ただし現在は白い塗装の下に埋められて見えない)からなり、後陣は小円柱に支えられた5つのアーチがアーケードをなす。身廊と後陣の間の横断アーチ(凱旋アーチ)はわずかに尖頭形で、それを支える円柱の柱頭彫刻は、パルメット装飾である。とりわけ北側のそれにはパルメットを束ねるようにして太い縛り紐がつけられている(タイヨワールすなわち冠板は、四角のチェック柄彫刻)。また後陣のアーケードの柱頭彫刻もパルメットで、中には組み紐文様も見られる。尖塔アーチを隔てて身廊の南北に付けられている祭室にはリブ・ヴォールトが架かる。 Trémolet de Villers(1998)pp.148-149: RIP. 48.1.5 サン=レジェ=デュ=マルジュー教会(Église de Saint-Léger-du-Malzieu) サン=レジェ=デュ=マルジューは、ル・マルジュー=ヴィルの北約4キロにあるトゥリュイエール川沿いの村である。聖堂は村の東南端にある。もともとはオーヴェルニュのラ=ジェーズ=デュー修道院(Abbaye de La Chaise-Dieu)に属していた。全体的に改築の手が加えられており、12世紀のロマネスク期の記憶を伝える部分は、聖堂の土台部分、扉口、ポーチである。身廊、3つの面を持つ台形の後陣はゴシック様式。西側の壁は、4つのアーケードの上に1つのアーケードが載る2段構えの鐘楼を戴く鐘楼壁(clocher-mur)である。その南側には、宗教戦争の時代に建てられた円形の大きな塔が付属する(四角い扉口の意匠が美しい)。その姿はRimeize[48.1.12]と似ている。 南壁にあるポーチは、大きなアーチのがっしりした量塊感のある付け柱(扶壁)風のもので、その中の扉口は大きめの石を組んだ尖頭形のアーキヴォルト(3段)と、それを支える左右の円柱からなる。円柱の柱頭彫刻は植物の大きな葉やパルメット文様などのロマネスク風装飾である(ただしかなり摩耗している)。 教会内部は、3ベイからなる身廊、5つの尖塔アーチのある(つまり後陣外部としては3つの面を持つが、内陣としての体裁は5つの面を持つ)後陣内部など、すべてゴシック様式で、天井は最近修復された新しい交差リブ・ヴォールトである。 Morel(2007)pp.104-105; Philip(1954)pp.18-19; Trémolet de Villers(1998)p.147. 48.1.6 ブラヴィニヤック/サン=ジュリアン教会(Église Saint-Julien de Blavignac) ブラヴィニヤック(標高936メートル)は、ル・マルジュー=ヴィルの北西およそ5キロにある。今日ではオートルート(高速道路)の出口「No.32/La Garde 」からのアクセスが便利である。サン=ジュリアン教会は村の南側に位置する。正確な建設年代は不明であるが、最初は小修道院(prieuré)で、中世の間はマルヴジョル(Marvejols)の教会参事会の管理下にあった。16世紀の宗教戦争期に被害を受け、その後再建・修復された。南側扉口はゴシック期のもので、それ以前の時代の人面彫刻がその上にはめ込まれている。聖堂はもともとは単身廊で、特に「勝利アーチ」(arc triomphal)すなわち内陣と身廊を分ける横断アーチを支える左右の柱の柱頭部から下にあたる部分が12世紀後半(または13世紀前半)のものである。その柱頭には素朴な形の樹木とその両側に人面が彫刻されている。内陣から続く身廊は3ベイで、最も西の幅の狭いベイには木製の2階席が作られている。内陣の横断アーチと内陣のヴォールトには、16世紀以降に彩色装飾画が描かれている。16世紀以降に身廊の南北それぞれに、トランセプトのような形で小さな祭室が付け加えられた(北側にはもう1つ交差リブのついた祭室が加えられている)。ブラヴィニヤックのサン=ジュリアン教会は、ロゼール北部の典型的なロマネスク聖堂のタイプを示している。南側に扉口のついた小ぶりな身廊に多角形(多くは五角形)の後陣、後陣と内陣の間に立つ横4連式の美しい鐘楼(最上部にはさらにアーチ1つの小さな鐘楼が重なる)。なおブラヴィニヤックのこの鐘楼は16世紀のものである。 Trémolet de Villers(1998)p.152; Verrot(1994)pp.107-111; RIP. 48.1.7 アルバレ=サント=マリー教会(Église d'Albaret-Sainte-Marie) ブラヴィニヤックから直線距離で西へおよそ2キロ、オートルート沿いのラ・ガルド(La Garde)から北東へ約2キロである。さらに1キロ北には、今では廃墟となっている封建時代のラ・ガルド城があり、かつてはアプシェ男爵領の軍事拠点の一つであった。アルバレ=サント=マリー教会は村の北西端にあり、そこから村の北に広がる丘陵のパノラマを見渡すことができる。ロマネスク様式であるが、14世紀以降に改修されている。全体として小ぶりで、比較的均一の花崗岩の石組によるバランスの取れた美しい建物である。身廊南側にある扉口はゴシック期以降のもので、左右に円柱がつき、その上に半円形の4重のアーキヴォルトが載る。南北の壁には扉口より西側に2つの付け柱があるが、北壁東側のそれは身廊北側に付属の祭室に埋め込まれている。身廊南側にも扉口より東側に祭室が付属する。後陣外壁は背の高さを感じさせる七角形で、開口部は3つ開いている。また後陣外部にのみ軒持ち送り彫刻が見られる。十字架、丸い玉、足を広げる人間、不思議な人相の人面、牛その他の動物の頭など。身廊と後陣の間には一番上に小さな鐘楼を1つ載せた美しい横3連式の鐘楼があり、後陣南側から階段を伝ってその鐘楼まで実際に登ることができる(これは実はなかなか他にはない)。聖堂西側の壁には上部に小さな窓が開いている以外にはなにもない。聖堂内部は3ベイからなる単身廊形式 で、天井はほんのわずかに尖頭形となった円筒ヴォールトである。身廊につけられた3つの横断アーチを支える円柱には、かなり摩耗しているけれども、ロマネスク風の柱頭彫刻がつけられている。交差する樹木の枝、左右に尾ひれを広げる二股の人魚、下から大きく吹き広がるアカンサスの葉など。半ドームの載る七角形の後陣内部は、内部に向けて広がる扇状の(隅切り)開口部が3つ開いている。最も西のベイには木製の2階席が作られているが、その水平柱には四角、菱形、円形などのさまざまな形の幾何学的な組紐文様や人面などの彫刻が施されていてなかなか興味深い。 Trémolet de Villers(1998)pp.152-153; Morel(2007)p.89. 48.1.8a ル・マルジュー=ヴィル/サン=イポリット教会 (Église Saint-Hippolyte, Le Malzieu-Ville) ロゼール県北部の小都市ル・マルジュー=ヴィルは、ル・ピュイからスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の中継地点の1つである。街の中心にあるサン=イポリット教会は、11世紀~12世紀頃にサン=ジル修道院の修道士たちによって建てられた。1573年にマチュー=メルル率いるプロテスタント (ユグノー)らによって破壊され、1582年にいったんゴシック様式で再建されるも、19世紀後半に解体さ れ、高い鐘塔も含めて現在の聖堂に再び建て替えられた。20世紀に入っても引き続き修復が進められている。1623年にはコレジアル(collégiale. 僧会教会/参事会聖堂)となっている。ロマネスク時代の名残りは、身廊中央やや南寄りの床の下にある小さなクリプトとそこに安置された2つの花崗岩の石棺のみである(鉄格子越しにのぞけるようになっている)。石棺は1つは楕円形、もう1つは方形で、ともに内側は頭部の形をつけた人型にくり抜いたものである。後陣のアーケードやトランセプト交差部を飾る柱頭彫刻(パルメット、組紐 文、ハート型など)や、東側袖廊外壁に埋め込まれた2つのホタテ貝の彫刻、西側袖廊外部の南側につけられたいくつかの軒持ち送り彫刻(横顔を見せる人物像と、目をむいた動物の顔)もロマネスク風である。東側のトランセプトの北側の内壁に、鉛と錫の合金で覆われた13世紀の木製の聖母子像(Vierge en Majesté d'Apchier)がある。この像は、もともとはアプシェ(プリュニエール)のサン=ジャン=バティスト教会 [48.1.11b]にあったものである。聖堂の南側に隣接する学校の入口には、ゴシック期にこの聖堂にあったと思われる2つのアーチ受け彫刻(自由と隷属を表す)が埋め込まれている。 なお、トリュイエール川をはさんでこの街の反対側の山の斜面には、19世紀の美しい礼拝堂であるノートル=ダム・ドゥ・ルルド(Chapelle Notre-Dame de Lourdes)が建っている。平面プランは小さい単身廊形式であるが、背が高く、すらりとして非常に端正である。壁面いっぱいに細長い付け柱(扶壁)と開口部が並んでいる。南側ファサードには扉口、丸窓、ホタテ貝の装飾がつく。内部はリブのない交差ヴォールトである。 Philip(1954)pp.22-25; Trémolet de Villers(1998)pp.141-142; RIP. 48.1.8b ル・マルジュー=ヴィル/ヴェルドゥザン教会 (Église de Verdezun, Le Malzieu-Ville)遺構 ヴェルドゥザンの集落および聖堂の遺構は、ル・マルジュー=ヴィルの北およそ1キロの牧草地の広がる丘の上にある(ル・マルジュー=ヴィルから県道D47を600メートルほど北に向かい、細い道を左折して丘を登 る。丘の頂には電波塔が立つ)。すぐ西にトリュイエール川が流れるこの地には、12世紀にジェヴォーダン副伯(vicomte de Gévaudan)の拠点となるカストルムがあったが、16世紀には破壊されてしまった。なだらかなマルジューの丘陵地帯を見下ろすように建っているこの聖堂も、中世にはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼が訪れたが、やはり16世紀になってプロテスタントにより被害を受けたあと、最終的にはフランス革命期に破壊され放棄された。 聖堂の遺構は、後陣全体ならびに身廊のヴォールトが失われ、今は南北の側壁と西側の壁が残るのみであ る。そのうち南の側壁の一番西のスパンに残る扉口とアーキヴォルトが石積みの量塊感あふれて見事である。アーキヴォルトのアーチは、角形と円形などを交互に組み合わせて都合5段からなる。冠板をはさんでアーチを支える基壇柱は、大きめの角形石積柱で3段組である。タンパンはない。西壁は、ヴォールトを支えていた尖頭形の横断アーチの部分まで残っていて、内部から見て左隅に小さめの四角い出入口があり(出入口は北壁にも開いている)、上部には内部に向けて大きく開いた半円形の迫り上がりアーチの隅切り窓がつけられている。同様の開口部(窓)は、さらに大きなものが南側壁の、西から2番目の(扉口の隣の)スパンの、低い位置に残されている。今はないヴォールトの横断アーチを支えていた円柱の柱頭彫刻は、アカンサスの葉とその上で交差する組紐様の植物茎と渦巻き、パルメット文様である。これらはマルジュー周辺のみならず、ロゼール県全体で非常によく見られる柱頭の装飾文様である。 Philip(1954)pp.18-21; Trémolet de Villers(1998)pp.142-144. 48.1.9 サン=ピエール=ル=ヴュー教会(Église de Saint-Pierre-le-Vieux) ル・マルジュー=ヴィルから県道D4を1.5キロほど西進し、北に折れて約400メートルの突き当たりの丘の上にある墓地教会である。その位置は、ヴェルドゥザンからトリュイエール川を渡ってすぐ西側にあたり、かつてはこの2つの教会を近隣の住民や巡礼などが、今よりは容易に行き来していたものと思われる。12~13世紀の間、この聖堂はラ=シェーズ=デュー修道院の所有であった。プリュニエールやサン=レジェ=デュ=マルジューの聖堂もその修道士たちが創建したものであった。 全体的にロマネスク的な印象を与えながらも、現在の聖堂の建物自体は13世紀あるいは14世紀以降に再建されたものである。鐘楼はない(大革命の際に破壊されてトリュイエール川に投げ捨てられたとも言われる)。上部に小さな開口部のある西壁には、現在は埋められている出入口があり(内部からはその扉が分かる)、かつてはこの聖堂の西側に小修道院の建物などがあったのではないかと推定される。後陣は七角形で、南側にのみゴシック風の開口部が開いている。後陣の石積みは、身廊外部のそれよりも積み目が密で精緻である。身廊部も南側の側壁にのみゴシック風の開口部がある。尖頭アーチの載る扉口は、南壁の扁平セグメンタル・アーチがつくポーチの一段奥にある。ポーチの右手には、階上部に登るための螺旋階段(今は使われていない)がついている。この扉口は、同じくロゼール県北部のテルム(Thermes[48.1.21])のものとよく似ており、ここサン=ピエール=ル=ヴューでも、かつてはテルムと同じような四角くて大きな鐘塔があったか、あるいは計画されていたと推測される。 聖堂内部は、身廊が2つのベイからなり、最初のベイには北側に、2つ目のベイには南北に尖塔アーチで区切られた狭い祭室がある。この平面プランもやはりテルムと同じであるし、ブラヴィニヤック(Blavignac [48.1.6])とよく似ている。身廊の天井は半円筒ヴォールトで、2つのベイを区切る横断アーチはキュ・ドゥ・ランプ(cul-de-Lampe)が受ける。後陣は現在は修復されて半円形の平面プランに塗り固められているけれども、注意して見るとわずかに外部のような七角形の面を見て取ることができる。聖堂内部の装飾は、身廊・後陣のヴォールトの下部に帯状に繊細な植物の図柄などが描かれているが、近年のものである。中世にさかのぼることのできる彫刻類は見当たらない。 聖堂西側にある墓地の壁には、人の形にくり抜かれた大きな石棺が2つ立てかけられている。正確な年代は不明であるが、この聖堂が創建された当時の修道士たちのものかも知れない。 Philip(1954)pp.20-21; Trémolet de Villers(1998)pp.144-146; Verrot(1994)pp.105-106. 48.1.10 サン=シェリー=ダプシェ/サン=ティレール教会 (Église Saint-Hilaire, Saint-Chély-d'Apcher) 聖シェリーは、メロヴィング時代(6世紀)のジェヴォーダン司教ヒラリウスと同一人物である。聖イレール(St-Hilaire)も同様である。フランス革命の頃には「サン=ティレール」が「サン=シェリー」と呼ばれるようになり、街の名前になった。ヒラリウス自身は、マンド地方やタルヌ川沿いなどにいくつもの修道院を設立した。この街は12世紀から17世紀までこの地域を支配したアプシェ男爵(baron d'Apcher)の支配下にあり、13世紀にはアプシェ男爵ゲラン3世(Guérin III)がこの街に施療院を作っている。百年戦争期には街の住民たちは領主(ゲラン6世および7世)とともにイギリス軍や街を略奪しようとする盗賊の群れと戦った。 サン=ティレール教会は、サン=シェリー=ダプシェの街のおよそ500メートル東にある大きな墓地の中に建っている。12世紀初めの史料(マンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルの遺言書)には《Sancti Ylari de Capoleg》の名前で見いだせる。1690年まではサン=シェリーの教区教会であったが、街の中心部に新たに大きな教区教会を建設するために、身廊を取り壊しその石材を利用した。したがって、ロマネスク期のものは内陣(後陣)部分のみであり、現在の身廊部分も切り詰められたように1ベイしかない。後陣は五角形で、小さく細長い開口部が中央に1つつけられている。後陣の両側にあるトランセプト様祭室は後からつけられたもので、南北で形が異なっている。聖堂外部は、北側袖廊西面に開けられた小さな入口の上に、人間の顔らしき断片が1つだけ埋め込まれているのを除けば、彫刻装飾の類はまったくない。内陣は半円ドームで、身廊部との間の横断アーチ(「勝利アーチ」)は、ライオンその他の獣たちの柱頭彫刻の施された円柱によって支えられている。 街の中心部には、テオフィル・ルーセル通り沿いに、16世紀前半に建設されたサン=シェリー=ダプシェ教会(Église de Saint-Chély-d'Apcher)がある。もとはサン=ジャック=ドゥ=ゼベデに捧げられた礼拝堂であったが、17世紀にこの街の教区教会となった。扉口には5重の尖頭アーチからなるゴシック様式のヴシェールがつき、木製の切り妻にはアプシェ男爵家の紋章が見られる。この教会に鐘塔はなく、それはフォワライユ広場近くのドンジョン通り(rue du Donjon)に建っている。もとは13世紀に街の監視塔として建設されたものである。 Trémolet de Villers(1998)pp.133-136; RIP. 48.1.11a プリュニエール/サン=カプレ教会(Église Saint-Caprais, Prunières) ル・マルジュー=ヴィルの南約4キロ。サン=カプレ教会はプリュニエールの村のほぼ中央にある。ロゼールでも最も美しいとされるロマネスク聖堂の1つである。大きさは中規模で、がっしりとした鐘楼壁と付け柱 (支え壁)の並ぶ身廊が目を引く。ベネディクト修道会士によって建てられたのは11世紀とも言われるが、12世紀にはラ=シェーズ=デュー修道院に属していた(プリュニエールの修道院自体は現在はない)。中世を通じてピレネーを越えてスペインへ向かう巡礼たちが多く立ち寄った。聖カプレは、神経症やリウマチなどを治癒したとされる聖人である。 西ファサードには、最上部には植物文の柱頭彫刻を持つ小円柱に支えられた2つのアーチとさらにその上に1つのアーチが加わる2段式鐘楼、その下には軒持ち送りがある(そこに並ぶ動物や人間の顔の彫刻はかなり摩耗している)。軒持ち送りの下は分厚い鐘壁となり、ほぼ中央の高さには半円形の3つのアーチからなるアーケードがある。中央のものは開口部で(2本の小円柱がつく)、その左右はニッチである。鐘壁一番下が、やはり左右に半円形アーチのニッチを配した扉口で、3段の半円形ヴシュールによるアーキヴォルト(アーキトレーヴ)では2段目のヴシェールの左右に小円柱がついている。この大きな鐘壁は、ロゼールに見られる数多くの聖堂鐘壁の中では最古のものと言われ、フランス全体においても最も古いものの1つである。 西ファサードの鐘壁の左右の端は、同時に身廊部西端を支える分厚い付け柱(支え壁)の役割も果たしている。身廊外部には内部のベイに対応する形で狭い間隔で背の高い付け柱が並んでおり(計6つ)、これが聖堂全体に堅固な印象を与えている。南側側壁では付け柱の間に半円形アーチの開口部が1つずつ開いている。北側側壁には開口部はない。西端の鐘壁南側と2番目の付け柱の間の上部には、小アーチの石組みが残ってい る。これは石落としのための突出した狭間(mâchi-coulis)の名残りとも思われ、大きくて分厚い鐘壁とともに、かつてこの聖堂には16世紀に強固な防御的工夫が施されていたことがうかがい知れる。小さな開口部のある後陣は五角形で、上部にはいわゆる「ロンバルディア帯」が付けられているが、そのアーチの大きさは均一ではない。五角形の後陣の最東端の面にも付け柱が付いていて、そこにも「ロンバルディア帯」のアーチが2つある。 扉口から聖堂内部に入るとそこは4つのベイ(大きさが多少異なる)からなる身廊で、尖頭ヴォールトがかかる。ピア柱の柱頭には簡素な彫刻が施されている。また後陣の横断アーチ壁と後陣の半円筒ヴォールトには17世紀の彩色画が描かれている(4人の福音史家に囲まれた神、天使たち)。五角形の後陣内部(内陣)に は、17世紀あるいは18世紀の大きな木製祭壇が置かれている。またこの祭壇の後ろの床には小さな井戸があ る。後陣北側と南側には小円柱に支えられた半円形アーチの頭部を持つ開口部がついている。それらの小円柱の柱頭には植物彫刻が施されている。 Philip(1954)pp.100-103; Trémolet de Villers(1998)pp.138-141; Verrot(1994)pp.23-26. 48.1.11b プリュニエール/アプシェのサン=ジャン=バティスト教会 (Église Saint-Jean-Baptiste d'Apcher, Prunières) サン=シェリー=ダプシェ(Saint-Chély-d'Apcher)から県道D989をル・マルジュー=ヴィルへ約3キロ進み、右に折れ1.5キロ入った突き当たり。聖堂は、村の北端にあり、かつての領主の城塞(Castrum de baron d'Apcher)の遺構と隣り合って建っており、城塞礼拝堂としての役割も果たしていた。残存する城塞の塔は方形で背が高く、その東側は2014年現在も居館などの発掘調査が行われている。 現在の私たちが目にする聖堂は、13世紀にアプシェの領主ゲラン3世(Guérin III d'Apcher)が、聖王ルイ9世の起こした第7回十字軍遠征から帰還した際に、古い聖堂の上に建設されたものと伝えられる。横幅が狭い割に高さがあり、それだけにいっそう端正で美しい印象を見る者に与える。古い聖堂は、この地域の多くの聖堂と同じく、12世紀半ばにはラ=シェーズ=デュー修道院に属するものとして史料にその名前が見いだせる。その旧聖堂の遺構(半円形の後陣)は、近年の発掘により、現在の背の高い後陣の下に見つかっている。現在の聖堂の後陣は五角形で、その上部には一番北の端の面を除いて小円柱に支えられたアーチが1面に1つずつ付けられている。これらのアーチはニッチ(盲アーチ)であるが、南から1面目と3面目には細長くで狭い開口部(半円の頭部を持つ)が、まるで銃眼のように開けられている。アーチを支える4本の小円柱の柱頭には大きな葉のアカンサス彫刻が彫られている。西壁(鐘壁)には上部に上下2段になった2つの半円アーチの開口部があく。鐘楼は横2連式である。また聖堂の北側に回ってみると、北壁が大きな岩の上に建っていることが分かる。 聖堂の身廊内部には、南壁につけられた石段を登って入る(南壁の軒持ち送りには、球状の装飾の一部が残る)。石段を登る手前に1階部分に相当する小部屋とその入口(大きな石を組んだアーチがかかる)がある。その小部屋には現在は何もない。北壁に食い込んだ岩盤がこの小部屋の中にまで入り込んでいる。2階部分の身廊部には扁平アーチ装飾のついた入口から入る(入口のすぐ左側には不思議な人面が埋め込まれている)。身廊は、大きさの異なる3つのベイからなり、西側の横断アーチは扁平アーチで、東側のそれは半円形アーチである。したがってヴォールトも扁平ヴォールトから半円形ヴォールトに連続して変形しているのである。身廊と後陣を区切る「勝利アーチ(凱旋アーチ)」はわずかに尖頭形である。内部は側壁もヴォールトも、ともに最近の修復によって白く塗り替えられている。身廊の横断アーチを支える円柱の柱頭部に は、大きな葉のアカンサス装飾(Feuille lisse/Feuille d'eau)がつけられている。柱と柱の間の帯状フリーズには菱形連続文様が描かれている(ただし近年のもの)。長くこの聖堂に置かれていた13世紀の木製の聖母子像(Vierge en Majesté d'Apchier)は、今はル・マルジュー=ヴィルのサン=イポリット教会[48.1.8a]に移されていて、そこで見ることができる。 Chastel(1981)pp.4-6; Philip(1954)p.21; Trémolet de Villers(1998)pp.136-137; Verrot(1994)p.104; RIP. 48.1.12 リメーズ教会(Église de Rimeize) リメーズの村は、サン=シェリー=ダプシェから南へ約4キロ、県道D987から南へ折れて、同名の川を渡ったところにある。中世の間、この川をはさんでアプシェ男爵領とペイル男爵領の境界に位置した(村の主要な部分は後者に属した)。村の中心に建つ聖堂は、12世紀初めにマンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルによって、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク(Saint-Sauveur-de-Chirac, Le Monastier)修道院の所有するところとなった。1791年1月15日のミサの際に天井が突然崩落するという事故があったが、幸いにも死者やけが人は出ず、これはこの聖堂の守護聖人である聖ファビアンの起こした奇跡であるとされた。 聖堂はロマネスク様式であるが、長年にわたる修復・改築が重ねられてきた。最初にわれわれの目を引くのは、花崗岩の切石を積んで作られた背の高い西ファサード(鐘壁)である。横4連式の鐘楼(その上には小鐘楼)が載る。左右両側の角に強固な付け柱(支え壁)が見られるが、向かって右側にはそれに加えて不規則な石積みによる大きな円形の塔がつく。その中の螺旋階段を伝って鐘楼に登るためのものである。この西ファサードに、半円形頭部のアーケード列とその中にさらに半円アーチを持つ縦長の入口が開く。聖堂内部は近年の修復によって古さをまったく感じさせない。単身廊形式で、その両側には尖頭アーチのアーケードによって隔てられる小さな祭室の張り出し(側室)を持つ。それらの天井は交差リブ・ヴォールトである。聖堂内部の壁およびその天井は、横断アーチを支える円柱の柱頭彫刻(ロマネスク風の素朴な植物装飾)をも含めて、上塗りでオレンジと白に彩色されている。最も西側のベイには木製の2階席が設けられている。身廊北側の壁に は、非常に古い線刻文字の碑文の断片が埋め込まれている。聖堂の後陣外部は五角形で、そのうち中央の面以外には、頭部が半円形の装飾アーケードがつけられている。後陣の南東側に後の時代に背の低い建造物が建てられたため、全体的なバランスは失われてしまっている。 Trémolet de Villers(1998)p.213; RIP. 48.1.13 サン=タルバン=シュル=リマニョル教会(Église de Saint-Alban-sur-Limagnole) サン=シェリー=ダプシェから東へ約13キロ、標高はおよそ960メートルである。ロゼール県マルジュリッド地方の懐深く、古くからリヨンやル・ピュイからコンクなどをへてサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼たちの中継地のひ1つであった。4世紀初めにイギリスで最初に殉教した聖アルバンの弟子たちが、この地に布教に来て僧院を建てたという。聖堂は11世紀(または12世紀)のもので、もとは巡礼たちのための救護所でもあった僧院に付属していた(その僧院は、ラ・シェーズ=デュー修道院に所属していたという)。14世紀初め(1312年)にはマンド司教の所有となる。15世紀におよそ30名いた修道士は、大革命が始まる頃には8名まで減っていた。 聖堂は、街のほぼ中心にあって、この街を南北に貫く県道(D4/D987)沿いに建っている。この地方の花崗岩の端正な石積みで、ところどころに赤い石が混じる。後陣と身廊の間にトランセプトがつき、その交差部の上に19世紀の横3連式の鐘楼が(その上には小鐘楼が1つ)立つ。後陣は、その構成と意匠の点で、12世紀的なロマネスクの均整の取れた美しさを表している。すなわち大きな付け柱から西側に、彫刻の施された柱頭を持つ円柱に支えられた半円形のアーケードが5面あり、それぞれの中にさらに半円頭部の開口部が開く。円柱の柱頭彫刻は、長い時の流れとともに摩耗が進んでいるが、アカンサスの葉飾り、頭部が1つで胴体が左右に分かれる動物(ライオンか)、絡まり合う植物のツルや積み重なる実、両手で馬の頭を引く(あるいは馬に両腕をかまれている?)ベールをかぶった人物など。半円形平面プランの後陣上部には装飾彫刻なしのモディヨンが環状に並び、その上に笠をかぶるように円錐状の屋根が載る。聖堂入口は身廊南側の大きく張り出した比較的新しいポーチ(内側は5重のヴシェールからなる尖頭形のアーキヴォルト)にあり、そのポーチの向かって右側の壁にはやはり尖頭形アーケードがある。そのうち大きい方のアーケードは3重のヴシェールがかかり、尖頭形頭部の大きな窓が開く。これがかつての聖堂入口で、その入口開口部の土台部分を壁で塞いで窓としたものである。もう1つは盲アーケードであるが、大きな古い石棺が上下逆さまに立てかけてある。南側トランセプト外部にも同様の盲アーケードがある。聖堂の北側と南側はゴシック期以降のいたって簡素な外壁 で、南側の壁には石段の上に出入口、その上部に丸窓がある。 聖堂内部は単身廊で、南北に高さの異なるトランセプト(翼廊・祭室)は後に付け加えられたものである。天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトである。大きさが均等ではない5つのベイからなり、最も西のベイは、これも19世紀前半に増築されたものである。身廊にあってそれぞれのベイを区切る横断アーチはキュ・ドゥ・ランプ(cul-de-lampe)が受け止める。そこには、人魚(セイレーン)、アカンサスの葉、巻き上がる植物の茎や並べられた実といった彫刻が施されている。内陣(12世紀)は、土台部分は半円形の平面プランである が、中ほどから上は、頭部が半円アーチで下部が内部に隅切りで傾斜した窓が5つの面に並ぶ。窓のアーケードを支える小円柱の柱頭には、ケンタウロス(向かって右から2番目)、アカンサ ス、交差する植物の茎、松ぼっくりなどの彫刻がついている。 Chastel(1981)pp.24-26; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.298; Trémolet de Villers(1998)pp.201-204; RIP. 48.1.14 サント=ウラリー教会(Église de Sainte-Eulalie) サント=ウラリー(またはサン=トゥラリー)は、サン=タルバン=シュル=リマニョルの東およそ10キロ、標高は1250メートルで、人口およそ50名前後の高地の小村である。古代から中世にかけて、このあたりを往き来する間道が通っていた。13世紀にはこの聖堂とともに、近くのモンメルル城もマンド司教が所有してい た。聖ウラリーはスペインで殉教した聖女で、中世の巡礼たちは、この地方を行き来する際には聖ウラリーの歌を歌ったという。 聖堂は村の中心からやや東寄りの県道D7沿いにある。かなり修復されているが、全体的にロマネスク様式を保っている。後陣は半円形平面プランであるが、大きな聖具室が増築されていてバランスか失われている。 「勝利アーチ」の上に横2連式の鐘楼が立つ(その上には小鐘楼がつく)。現在の聖堂入口は西ファサードにあるけれども、もともとの扉口は聖堂南側のほぼ中央にあり、今は石壁で埋められている。アーチが残っており、その頂上の要石には人面とユリの花が彫刻されている(1820年の銘がある)。これは、この村から約10キロ東のル・シャイラ・ダンス(le chayla d'ance)にあった古い城を19世紀になって打ち壊した際の石材を再利用したものだとも言われる。聖堂内部は単身廊、半円筒形トンネル・ヴォールトである。不揃いな切石を荒く積んだ壁面で、南壁に3つ、後陣に2つ窓が開いているにもかかわらず、内部は薄暗い。身廊のベイを区切る3つの横断アーチは、彫刻などの装飾がまったくないキュ・ドゥ・ランプが受ける。後陣は、半円形平面で半円ドームが載る。内部に向けて隅切りで広がる半円頭部の開口部が低い位置に2つ開く。円柱や彫刻などの装飾類はない。身廊と内陣の間にある「勝利アーチ」にも装飾はないが、その大きさは内陣の量塊感をいや増している。 Trémolet de Villers(1998)p.216; RIP. 48.1.15a フォンタン/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Fontans) サン=シェリー=ダプシェからは南東へ約14キロ、オーモン=オブラックからは東へ約10キロに位置する小集落で、標高は約1000メートル。聖堂は12世紀初めにマンド司教アルドゥベール2世が、ラ=シェーズ=デュー修道院のものとした(Ecclesia del Foltronn)。13世紀後半にはマンド司教自身の所有であったとも言う。現在の聖堂の建築年代は正確には不詳であるが、およそ13世紀前半かその前後であろう(ただし大幅な改築が16世紀に加えられている)。 聖堂は集落の墓地に囲まれて建っている。外部は、聖具室の付属する五角形の後陣、最上部に小鐘楼の載る横4連式鐘楼(鐘の1つは16世紀のもの)、そこに登るために付けられた円塔、南北の大きなトランセプト、西南の角の大きな付け柱(支え壁)などが目につく。外観は、トランセプトの大きさを除けば、ブラヴィニヤックのサン=ジュリアン教会(Blavignac[48.1.6])とよく似ている。南壁にある扉口は、ゴシック様式の4重の大きな尖頭形ヴシェールの中に開いている。その向かって左には、用途不明の背の低い摩耗した円柱が大きな方形の柱頭をともなって置かれている。扉口のすぐ右側、南トランセプトの西壁にも同様の尖頭形アーケードがせり出しているが、こちらは盲アーチである。聖堂内部の装飾は、近年の修復によってすっかりきれいに整えられている。特に、内陣も含めて身廊のヴォールトは彩色され、装飾画が描かれている。もとは16~17世紀のものであるが、その後19世紀に大々的に描き直され、さらにそれも最近鮮やかに修復された。聖堂内部の形は単身廊で、身廊のベイは1つ(尖頭形トンネル・ヴォールト)、トランセプト交差部、内陣の順に並ぶ。南北のトランセプトはその位置が微妙に左右対称からずれている。横断アーチは尖頭形で、トランセプト交差部のベイの4面は、それぞれ両端を赤い花崗岩の円柱が支える。この円柱の柱頭彫刻が、聖堂内の唯一のロマネスク的要素であろう。かなり摩耗しているが、首の長い人面と司教杖(またはゼンマイの頭?)、単純な形のアカンサス、植物の茎、交差する組紐文など。これらは近世の改築以前の聖堂の、古い石材の再利用であ る。内陣は下部が木製の聖職者席となっている。南側に半円頭部の大きな窓が2つ開く。アーケードや円柱の類はなく、現在は聖人たちの彫像が置かれている。 Trémolet de Villers(1998)pp.200-201; Verrot(1994)pp.124-127; RIP. 48.1.15b フォンタン/レ・ゼストレのサン=ジャン=バティスト教会 (Église Saint-Jean-Baptiste des Estrets, Fontans) フォンタンにはレ・ゼストレの村にもう1つロマネスク様式の聖堂がある。ここには古くはイエルサレムの聖ヨハネ病院騎士修道会(騎士団)に属する小修道院があった。13世紀には騎士修道会のこの地の拠点についての言及が史料に出てくる。15世紀においてもこの修道会はこの地で勢力を維持し、この村の聖堂も所有していた。18世紀、フランス革命の際に騎士修道会の建物などは売却に付されたが、聖堂は騎士修道会による使用が続いた。その後1843年からは教区教会となり、修復も進められてきた。 現在の聖堂は、後の時代の改修・増築がかなり加えられている。後陣はなく、横2連式鐘楼の壁が東端をなす。南北に翼廊(トランセプト)がつくが、その交差部を含めると、内陣を含めて身廊は3ベイである。現在の内陣には祭壇が置かれており、天井は半円筒ヴォールトがかかり、この聖堂で最も古い部分にあたる。その内陣から壁を隔てて、その東側にもう1つ部屋があり(そこには立ち入れない)、その部屋の東側の壁が鐘楼壁にあたる。19世紀に建て直されたという身廊は、トランセプト交差部(4分交差リブ・ヴォールト)と、木製2階席のある最も西のベイ(半円筒ヴォールト)からなり、ともに天井は白く塗られている。交差部にかかるアーチはキュ・ドゥ・ランプが受ける。西壁の下部には大きな石組でできた尖頭アーチの出入口があるが現在は壁で塞がれている。かつては隣接する病院騎士修道会の建物との行き来のために使用されていた。 RIP. 48.1.16a レ・モン=ヴェール/アルコミのサント=マリー=マドレーヌ教会 (Église Sainte-Marie-Madeleine d'Arcomie, Les Mont-Verts) アルコミは、ラ・ガルドから南西に3キロのところに位置する。オートルートの出口「No.32/La Garde 」から県道D70で西へ約2キロである。1973年にル・バコン、ベルクと合併してコミューン「レ・モン= ベール」となった。聖堂はアルコミの村のほぼ中央にある。12世紀にはオーヴェルニュ(オート=ロワール)のラ・シェーズ=デュー修道院(Abbaye de La Chaise-dieu)に属した。中世の間、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼たちのための救護所としての役割も果たしたようである。現在の聖堂は、もともとのロマネスク時代の聖堂をかなり改築したものである。聖堂南側にある扉口はゴシック期以降のもので、半円形のアーチのがっしりしたポーチの中にあり、尖頭形アーチの細くて繊細なアーキヴォルトを持つ。五角形の後陣には各辺の角に支え柱が付く。後陣と身廊部分の間には南側に巨大な控え壁があり、四角い入口から聖堂内部および鐘楼に通じる。鐘楼は横3連式である(19世紀に修復)。内部は3ベイからなる単身廊で、天井は尖頭ヴォールトである。南北にそれぞれ交差リブ・ヴォールトのかかる祭室がつく。内陣の天井も交差リブ・ヴォールトで支えられている。この聖堂は、通常は内部見学不可である。 Trémolet de Villers(1998)p.156. 48.1.16b レ・モン=ヴェール/ル・バコンのサン=ピエール教会 (Église Saint-Pierre du Bacon, Les Mont-Verts) アルコミから西へ約3キロの小集落である。聖堂は村のほぼ中心にあるが、村を貫く県道D70から少しだけ南に入る。かつてはこのあたりを支配していたアプシェ男爵領の城に付属するものであったようで、城はこの村の西端にその塔が残っている(現在は個人住宅の一部)。聖堂の西ファサードは、下から上に向かうに従って石積みの大きさが小さくなる。ゴシック期以降の尖頭アーチの扉口があり(もとは南壁にあった)、一番上に横2連式の四角い鐘楼が載る。鐘楼はもとは後陣と身廊の間にあったと思われる。この鐘楼には向かって右側の石段から登ることができる(通常は立入禁止)。この聖堂が最も美しいのは後陣側からの姿であろう。背の低い後陣の左右に、屋根が傾斜した台形の祭室が後に増築されていて、オリジナルの姿ではないものの、全体的に非常に安定した印象を与える。向かって右側の礼拝室の方が少し大きめで前面に張り出している。したがって後陣は向かって右側の方が面が多くて合計で六角形である(内側は五角形)。窓は3つ開いている。内部は半円筒ヴォールトの載る単身廊で、左右両側に礼拝室がつく。横断アーチを受けるキュ・ドゥ・ランプには、簡素な植物の葉の彫刻が施されている。聖堂内部は近年になってからの修復により、横断アーチ以外の壁面はすべて白い漆喰で塗られている。聖堂の斜め前には、骸骨のような人面のついた太い石の十字架が立っている(作られた時期は不明)。 Trémolet de Villers(1998)p.156. 48.1.17 アルバレ=ル=コンタル/サン=バルテルミー=エ=サン=フルール教会 (Église Saint-Barthélemy-et-Saint-Flour, Albaret-le-Comtal) フルネルから北へおよそ7キロに位置する小村で、ロゼール県北部オブラック地方の最北端にあたる。聖バルテルミーはイエスの12使徒の1人バルトロマイで、聖フルール(フロルス)は5世紀にこの地方を含めてオーヴェルニュからラングドックにかけて布教活動を行った人物である(現在のカンタル県のサン=フルールの街は、彼の墓の上に修道院が建てられたことからその名がついている)。中世期、アルバレ=ル=コンタルには小修道院があり、マンド司教所有地(マンス)のもとにあった。 聖堂は村の中心にあり、住宅と連続して建っている。入口は聖堂南側にあって、ゴシック様式の大きなポーチの中に3重の尖頭形ヴシェールを持つアーキヴォルトが見られる。ポーチの右側には鐘楼に登るための方形の階段塔(ルネサンス期)がつき、その鐘楼(16世紀)は横2連式が縦に2つ重なる。後陣は五角形であるが、その左右両側には後の時代の建物が増築されており、しかも左右でその形が異なるために、後陣の外観は均整が失われている。後陣には軒持ち送り彫刻があり、その多くは摩耗しているが、動物の顔やこちらにお尻を向けるユニークな人間などが認められる。聖堂内部は、もともとは内陣と身廊のみであったが、「勝利アーチ」の東側、すなわち内陣部分に南北2つの祭室が加えられている(身廊には北側にもう1つ小祭室)。あたかも内陣にトランセプトがついているという仕様である。身廊は尖頭形のトンネル・ヴォールトで、近年の修復で壁が塗り直されている。西側には木製の2階席が作られている。内陣は左右のトランセプト様の祭室のアーチ面を入れると六角形で、半円ドームが載る。向かって右側の面に大きな窓が開くが、これは後の時代に開け直されたもので、もともとの開口部は向かって左側の面に残るが(内側に向けて隅切りされている)、小さくて細長いうえに外側が付属建物に面しているので、そこから外光を採り入れているわけではない。右側の面には古い開口部のアーチの名残りが見られる。内陣の左右のトランセプト様の祭室は近世以降のもので、それぞれ太い交差リブのついたヴォールトがかかる。「勝利アーチ」は方形のキュ・ドゥ・ランプが受ける。そこも含めて、聖堂内には彫刻装飾の類はまったく見られない。なお、扉口を囲むヴシェールの一番外側の下部に、リボンと三日月のような彫刻の断片が埋め込まれているが、それがどの年代のものかは不明である。扉口のすぐ外側の地面(鐘楼への登り口の床)および、扉口から延びる隣の敷地との間の敷居壁には、これもまた年代は不明であるが古い石棺の蓋がいくつも埋め込まれている。 Trémolet de Villers(1998)pp.156-157. 48.1.18 アルザンク・ダプシェ教会(Église d'Arzenc d'Apcher) フルネルから県道D12で北へ約4キロ、さらに西へ折れて約2キロにある小集落である。カンタル県との境であるル・ベ渓谷(Gorges du Bès)を見おろす丘の上にある。「アルザンク」という名前は「切り立った岩」から由来する。この村には中世の間この地方を支配していたアプシェ男爵(baron d'Apcher)による封建時代の城塞の遺構が残る。その昔、城主の息子に言い寄られた村の娘がそれを拒んで岩の上から飛び降りて死に、それ以来、月のない夜にはこの岩が娘のすすり泣く声に揺れるという言い伝えがある。 聖堂は、城塞のすぐそばに建っている。集落の奥(西)まで行き、さらに右(北)に小道を登ったところの村の墓地教会である。聖堂の南壁に南向き(通常は東向き)に横2連式の鐘楼がつく。南側翼廊の南面が鐘楼となっており、あたかもしばしば西ファサードに見られるような強固な鐘楼壁がそのまま聖堂南面に移動したかのような印象を受ける。鐘楼壁を南側にしたのは、聖堂の北側が傾斜した谷であるという地形的な理由からであろう。後陣は3面の台形で、角には付け柱(支え壁)がつく。北側の翼廊(祭室)は、鐘楼壁の載る南側のそれよりも大きい。扉口はやはり聖堂南側に開いていて、3重のヴシェールがついている。内側のヴシェールは尖頭アーチ、一番外側のものは半円形アーチで、キュ・ドゥ・ランプが受ける。聖堂内部は単身廊で天井は尖頭形トンネル・ヴォールト。3面からなる内陣は交差ヴォールトである。内陣の床にはアプシェ男爵の墓が埋め込まれている。聖堂内部は2ベイで、太い横断アーチは、より細くて繊細な円柱が受ける。内部の壁は彩色されていて、近年の修復によって良好な状態が保たれている。 Trémolet de Villers(1998)pp.157-158. 48.1.19 フルネル/サン=ピエール=エ=サン=ポール教会 (Église Saint-Pierre et Saint-Paul, Fournels) サン=シェリー=ダプシェから西へおよそ29キロ、カンタル県との県境までおよそ4キロにある小都市(あるいは少し大きめの村)である。フルネルという名前は、「パン焼き釜」あるいは「暴風雨からの避難場所」といった意味から由来するとも言われる。長い間アプシェ男爵領であったこともあり、13世紀頃に城塞が築かれていた。その城は16世紀になって改築され、19世紀初めにブリオン侯家の所有となったあと、今日に至るまでその子孫が所有している。この地にはもともと小修道院があり、オーヴェルニュのラ=シェーズ=デュー修道院に属し、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の救護に当たったという。 現在の聖堂は、その後陣が街の中心の広場を見下ろすように建っている。もとは12世紀に建設されたロマネスク様式の聖堂であるが、その後改修を重ねて今日に至る。扉口は、もとは南壁にあったが、現在は広場とは反対側の西ファサードにあり、4重のゴシック式尖頭形アーキヴォルトがつく。西ファサードは、中ほどに2つの細長い開口部と、上部中央に聖母子像を収めた盲アーケードがあり、その上に横3連式の鐘楼が載る鐘楼壁となっている。後陣は、聖堂内部の内陣側から見ると7面あるが、外部では北側に付属の建物(それは身廊北側にまで延びる)が増築されているために六角形である。一番南西の面から1、2、4、6面に半円頭部の開口部が開く。後陣上部には軒持ち送り彫刻が並び、それらは摩耗しているが、棒形、俵形、球体、X形、十字形、葉形など、さまざまな形をしている。聖堂内部は、石積みががっしりとしたロマネスク様式の雰囲気をよく伝える。南北両側に後の時代の尖頭ヴォールトの祭室が並ぶ単身廊形式で、「勝利アーチ」から西の身廊側が3ベイ、東の内陣側が2ベイである。「勝利アーチ」を支える円柱の柱頭には彫刻はないが、内陣に1本と身廊に2本かかる横断アーチを受ける円柱の柱頭彫刻には、アカンサス(中には単純な線刻のようなものも ある)、巻き上がる植物の葉、そして3頭身ほどのかわいらしい天使たちの姿が見られる。 Morel(2007)p.96; Trémolet de Villers(1998)pp.163-165. 48.1.20 ノアラック/サン=ティレール教会(Église Saint-Hilaire, Noalhac) フルネルの南西1キロに位置する小集落で、聖堂は集落の東の端にある墓地教会である。もとはマンド司教の所有地にある小修道院教会であった。西ファサードは横2連式の鐘楼の載る縦長の方形鐘楼壁で、向かって右側に、鐘楼に登るための比較的大きめの方形塔がつく。扉口は手前にせり出た大きなポーチ(屋根は木製)の中にあり、わずかに尖頭形となったゴシック様式のアーキヴォルトの中に収まっている。扉口はもとは南壁にあって、今はその壁に埋め込まれたアーチがその名残りであろう。この聖堂は、何よりも後陣側から見た姿が、端正な石積みによるロマネスク様式の美しい印象を与える。半円形後陣で半円頭部のアーチの中にさらに細長い開口部が、西と南北の3カ所に開いている。内陣を形成するベイが後陣から西へと続いており、上部には軒持ち送り彫刻が並ぶ。かなり摩耗しているが、植物、交差する組紐文、俵積み、金槌形、短い棒、動物や人間の顔など、ロマネスクにおなじみのモチーフが認められる。身廊部の南北両側に祭室が付け加えられている。内部は、筆者が訪れた時には見学不可で見ることが出来なかった。文献によれば、2ベイからなる単身廊で、半円形トンネル・ヴォールトがかかる。横断アーチを支える柱には、アカンサス彫刻の施された柱頭彫刻がつく。内陣は2ベイからなり、半円ドームが載る。後陣内側は3面で、つけ柱が支える横断アーチによって内陣の2つのベイが分けられているという。こうした構造は、この地方の典型的な小修道院教会建築の一例であると言える。 Trémolet de Villers(1998)pp.159-160. 48.1.21 テルム教会(Église de Termes) フルネルから県道D989で東へ約5キロ、サン=シェリー=ダプシェからは西へ約10キロである。村は県道から少し北に入ったところの丘のふもとに広がり、標高はおよそ1150メートルである。交通の要所でもあり、古くはカエサルが軍団とともにこの地を通ったとも言われる。中世期にアプシェ男爵が築いた城塞がこの村の南西約2キロの丘の上に残っている(現在は塔の遺構のみ)。聖堂は周辺の丘陵地帯をぐるりと見渡すことのできるテルムの丘の上に建っており、村の墓地に囲まれている。 聖堂の正確な建築年代は不明である。ロマネスク様式の面影を残してはいるが、後代の改築の手がかなり加えられている。まず目につくのは、聖堂南側に立つ強固な方形の鐘塔(上部の4面にそれぞれ1つ鐘楼アーチがつき、下部には大きな付けアーケードの中に尖頭形頭部の細長い開口部が開く)、そして身廊南壁とほとんど一体となった大きなポーチと、そのアーチの中にある比較的新しい3重の尖頭形アーキヴォルト(一番外側のヴシェールはキュ・ドゥ・ランプが受ける)に収まった扉口である。鐘塔の東側にはそこに登るための細長い階段塔がつく。後陣は五角形で、平面的な小ささの割に背の高さを感じる。後陣の最東面には大きな方形の建物が増築されていて、聖堂よりももう一段低い墓地の地面までその建物の下部が下りている。後陣にはその南側のみに長さの異なる半円頭部の窓がついている。聖堂北側は、後の時代に付け加えられた祭室にごく小さな開口部が2つあるのみで、そのほとんどが壁面で覆われており、石積みの量塊感を見るものに与える。しかしこれは、この聖堂が北からの強風吹きすさぶ丘の上にあるということにその理由があるのであろう。聖堂内部は、外部同様にやはり近年になっての修復が重ねられ、壁も白く塗り重ねられている。2ベイからなる単身廊で、北側に2つ、南側に1つ祭室が加えられている。内陣は五角形である。そのうち南側の2つの面に大きさの異なる窓が開く。身廊・内陣ともに天井は交差リブ・ヴォールトがかかる(内陣の交差リブは彩色されてい る)。聖堂内部には彫刻の類いはないが、南北の祭室と身廊部の間のアーチと、内陣の壁の一部に、植物の唐草文や花束、花瓶などの装飾画が描かれている。 Trémolet de Villers(1998)pp.161-162; Verrot(1994)pp.112-115. 48.1.22 ラ・ファージュ=サン=ジュリアン教会(Église de La Fage-Saint-Julien) サン=シェリー=ダプシェから西へ約6キロである。県道D989から南に少し入る。聖堂は村の中心から少しだけ東寄りのところに建っている。聖ジュリアンは4世紀初めの殉教者ユリアヌスで、オーヴェルニュのブリウドにある有名なバジリカ聖堂がこの聖人に捧げられているが、ラ・ファージュはこのブリウドへの巡礼とのかかわりが深い。またこのラ・ファージュの聖堂は、ユリアヌスの妻の聖バジリス(Sainte-Basilisse)にも捧げられている。この二人に対する崇敬は、11世紀終わりの第1回十字軍の際に、この地方に波及したとも言われる。ここにはもともと小修道院があり、オーヴェルニュのラ=シェーズ=デュー修道院に属した。 聖堂の建築自体は、ロマネスク様式ではあるが、ゴシック期以降にかなり改修が施されている。入口は南側にせり出した大きなポーチの中にある。ゴシック式の尖頭アーチである。その手前の地面には左右に19世紀のものと思われる墓石が埋め込まれている。聖堂内部は単身廊で2ベイからなり、天井は尖頭トンネル・ヴォールトである。内陣は、半円ドームの後陣部分と南北に小さな礼拝スペースの張り出しを持つベイ(4分交差リブ・ヴォールト)からなり、後陣の壁には頭部が半円形の縦長の窓が2つと、縦長の方形の窓が2つ開いてい る。「勝利アーチ」はキュ・ドゥ・ランプで受け止められ、そこにはゴシック期以降のものと思われる人間の顔の彫刻が見られる。西側のベイには木製の2階席が作られている。外部は後陣と身廊部の間に、横3連式の鐘楼が立つ。鐘楼の南側には、そこに登るためのがっちりした角形の塔が付随する。後陣外部は七角形で、北側には大きめの聖具室が増築されており、後陣の北側と南側とではその光景がかなり異なる印象を与える。 Trémolet de Villers(1998)pp.162-163; RIP. 48.1.23 サン=ローラン=ドゥ=ヴェイレス教会(Église de Saint-Laurent-de-Veyrès) フルネルから県道D53で南へ約7キロ、丘陵地帯の間にある静かな小集落であるが、村は西のサン=ローラン地区と東のヴェイレス地区の2つからなり、聖堂はヴェイレス地区の墓地の緩やかな斜面に建っている。13世紀後半の史料にはその名が見え、マンド司教領に属していた。聖堂はロマネスク様式ではあるが、他の多くのところと同様に後の時代の改修が加えられている。 横2連式の鐘楼は聖堂の西壁に立つが、西壁自体は隣の住宅と合体していて見ることが出来ない。ゴシック様式の尖頭形アーキヴォルトに収まった扉口は聖堂南側にある。アーキヴォルトの一番外側は、小さな球の列が彫刻された細長いアーチである。南側にのみ付け柱(支え壁)のある身廊は、大きさの異なるベイ2つからなる。後陣は半円形で、外側に扇状に隅切りされた半円頭部の窓が南側に1つだけ開いている。背の低い四角い聖具室が後陣北側に付けられている。身廊北壁にも後の時代の祭室が付くが、付け柱や開口部はない。聖堂外部には彫刻装飾の類は見られない。筆者の訪問時には内部の見学は不可であった。 聖堂のすぐ南には古くからあるパン焼き小屋がある。「小屋」といっても石造りで、方形の「身廊」と半円形の「後陣」という形をしていて、見た目はまるでミニチア聖堂のごとくである。内部は半円形の「後陣」部分が焼き釜となっている。ロゼール県(ジェヴォーダン地方)の高地の村でしばしば見かけるもので、炭焼き小屋である場合も多い。さらにその南隣りには、これもまた古い石の十字架が立つ。その十字架には磔刑のキリストが彫刻されている。 Trémolet de Villers(1998)p.160. 48.1.24 ラ・ファージュ=モンティヴェルヌー/サン=ジャン=バティスト教会 (Église de Saint-Jean-Baptiste, La Fage-Montivernoux) 県道D53をさらに南へ約4キロ。標高およそ1200メートルの見晴らしのいい高原の村である。中世の間、この地の小修道院はオブラック(Aubrac)修道院に所属し、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を受け入れた。村の紋章にはサラマンドル(火を吹く大トカゲ)がいるが、これはその昔、この村の前身となる集落がこの村の少し北にあった頃、その集落の泉に恐ろしいサラマンドルが水を飲みに来たことに由来する。しかしその泉はサラマンドルの毒に汚され、それを飲んだ集落の住民は死んでしまったという。 聖堂は村の北端にある墓地教会で、かなり改築の手が加えられている。まず目につくのは、比較的新しい横4連式の巨大な鐘楼で、左右(南北)を支える柱壁は太く強固である。特に南側のそれは、鐘楼に登るための方形の階段塔でもある。つるされている鐘の1つは1736年のもの。鐘楼は聖堂の西壁となっているが、そこには現在は民宿となっている大きな建物が連続して建つ。かつての小修道院を改築したものであり、聖堂の西壁にはその建物との間を行き来するための通路が残る。聖堂の扉口は墓地に面した聖堂南面の扁円セグメンタル・アーチの大きなポーチの中にある。ゴシック様式の尖頭アーチのアーキヴォルトを冠しており、テルム教会[48.1.21]やラ・ファージュ=サン=ジュリアン教会[48.1.22]の扉口と同じ形である。ヴシェールは5重であり、一番外側のアーチは大きなキュ・ドゥ・ランプが受ける。身廊には祭室が北側に 1つ、南側に2つ付く。後陣は方形で、さらにその外側(東側)に四角い聖具室兼倉庫が増築されている。聖堂内部は筆者が訪れた時には見学不可であった。文献によれば、身廊は4ベイからなる大きなもので、横断アーチに区切られた天井は、半円形のトンネル・ヴォールトである。半円形平面の後陣内部には半円ドーム(cul- de-four)がかかり、内陣の天井は尖頭ヴォールトである。 Trémolet de Villers(1998)p.161; RIP. 参考文献と略記号 Balmelle, Marius(1945):Répertoire archéologique du département de la Lozère. Périodes Wisigothique, Carolingienne et Romane. Fédération Historique du Languedoc Méditerranéen et du Roussillon. Chastel, Rémy(1981):Églises de Lozère, Art et Tourisme. Clément, Pierre A(1993):Églises Romanes oubliées du bas Languedoc, Les Presses du Languedoc. Delon, J.-B(1941):Histoire de Gévaudan-Lozère, Imprimerie Saint-Privat, Mende. Durliat, Marcel(1908, 1978):Haut-Languedoc Roman, Zodiaque. Morel, Jacques(2007):Guide des Abbayes et Prieurés, Languedoc-Roussillon. Autre Vue. Nougaret, Jean et Saint-Jean, Robert(1991):Vivarais Gévaudan Romans, Zodiaque. Pérouse de Montclos, Jean-Marie(1996):Languedoc-Roussillon, Le Guide du patrimoine, Hachette. Philip, J.-B.(1954):Le Malzieu et ses environs, une description-une histoire, Gerbert. Trémolet de Villers, Anne(1998):Églises Romanes oubliées du Gévaudan, Les Presses du Languedoc. Verrot, Michel(1994):Églises rurales & Décors peints en Lozère, La Régordane. Wolff, Philippe(1967):Histoire du Languedoc, Privat. RIP : Renseignements ou Informations sur place. GV : Guides de Visite. |