東海大学紀要(文学部)第104号(2016年3月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである)

南フランス・ロゼール県北部の中世ロマネスク聖堂(2)
Les églises romanes dans le nord de la Lozère, la région Languedoc-Roussillon.

                   中川 久嗣

 本稿では、前稿(「南フランス・ロゼール県北部の中世ロマネスク聖堂(1)」)に引き続き、ロゼール県の北部から中部にかけて点在する中世ロマネスク聖堂を取り上げる。具体的には、ロゼール県北西部にあたるオブラック地方から、サン=タマン(Saint-Amans)などのマルジュリッド地方、そしてオート=ロワール県に接するロゼール県北東部のランゴーニュ(Langogne)とその周辺地域を扱う。これらの地方は、かつては「ジェヴォーダン」(Gévaudan)と呼ばれた現在のロゼール県のうち、中世期において「ペイル」
(Peyre※1)や「ランドン」(Randon)といったバロニー(男爵領/barronie※2)のあった場所におおよそ相当する。ここより南のロゼール県中部(西から東に向けてマルヴジョル、マンド、ヴィルフォールへと続く)がロー川(Lot)やアルティエ川(Altier)が穿つ渓谷によって地形の起伏が目立つのに比べて、ペイルからランドンに至る地域は、標高1000メートルから1200メートルのなだらかな高原地帯である。
 ペイル地方は、古代からオーヴェルニュ方面と地中海を結ぶ交通の盛んなところで、オーモン=オブラックの東にあるジャヴォル(Javols)には、このあたりとしては比較的規模の大きなローマ時代の都市もあった
(Anderitum)。ランドンは、中世にはオーヴェルニュ方面からスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路にもあたり、人の行き来は決して少なくはなかった。
 建築的には、この地方の聖堂は、ロゼール県の他の場所と同じく小規模~中規模のものが多く、単身廊
形式、南北に付けられた小さめの祭室、複数個の鐘が横に並ぶ鐘楼(鐘楼壁)、多角形の後陣、身廊や後陣の上部に並ぶモディヨン、ヴシゥールを伴って南側に開く扉口、などといった特徴が見られる。しかし大なり小なり、後の時代の改修・改築の手が加えられているものが多い。
 本稿で取り扱う聖堂は、前稿と同じく「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11~12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク」期を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれている。
 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、大まかな地
域、自治体(Commune)の順で番号を付した。同一のコミューンに複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した(コミューンは2016年時点のものである。その後、合併などによって変わっているものもある)
 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」を用いた。個々の地名や聖堂の名称については、現地の慣用のものを採用した。
 採り上げる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし、地形的な理由でアクセスできなかったり、私有地内にあったり聖堂自体が私有(privé)であったり、あるいは単純にその所在場所が最終的に不明であったりして、訪問・調査できなかったものもある。それらには▲を記した。

※1 « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。
※2 « Peyre »の日本語表記は、通常は「ペル」または「ペール」となろうが、ロゼールの現地住民などの多くはオック語の伝統もあって現在でも「ペイル」と発音することが多い。したがって本稿では標準フランス語の発音に合わせるのではなく、さしあたってそのまま「ペイル」としてい
る)


48.2 Aumont-Aubrac、Nasbinals、Saint-Amansとその周辺

48.2.1 オーモン=オブラック/サン=テティエンヌ教会(Église Saint-Étienne, Aumont-Aubrac)
 オブラックは、アヴェロン(Aveyron)県の東端、ロゼール県との県境に位置する村の名前であるが、オーヴェルニュ、ラングドック、ミディ=ピレネーの3県にまたがる高地地方の名称でもある。ロゼール県ではその北西部にあって、北はトゥリュイエール川、南はロー川とコラーニュ川に囲まれた地域がオブラック高地にあたり、オーモン=オブラックはその中央部の東端に位置する小都市である。サン=シェリー=ダプシェからは南へ約9キロである。古代都市ジャヴォル(Javols)も近く(南東約7キロ)、古くから交通の要所でもあった。中世にはアル=モン(Al-Mon)と呼ばれ、ペイル男爵領(baronnie de Peyre)に属していた。
 1109年、リメーズ[48.1.12]と同様に、マンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルがこの地のベネディクト派小修道院を、ル・モナスティエ(現在のLe Monastier-Pin-Moriès)のサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に付属せしめた。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は言うに及ばず、マンドやサン=ギレーム=ル=デゼールへと向かう巡礼たちもこの地を通り、アル=モンの修道院はそうした巡礼たちの世話と救護に携わった。
 聖堂は、街の中心であるポルタイユ広場から北東に100メートルほど歩いたところにある。後陣側は街の北のゆるやかな斜面になっている。宗教戦争の際にプロテスタントに略奪・破壊され、後陣部分を除いた大部分が17世紀以降に再建され
た。また最近では1994年に大幅な修復作業が行われている。西ファサードは上部が三角形の切妻屋根で、左右の角には斜め方向に向けて太いピラスター(付け柱)がつく。扉口は、横に3つ並んだ半円形の窓を持つアーケードの中央にあり、その上には半円形の大きな開口部、さらにその上に小さな丸窓が開く。扉口のすぐ上にはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼のシンボルの大きなホタテ貝の彫刻が付けられている。身廊の南西の角には後陣と並ぶように鐘塔が立つ。宗教戦争期に破壊され、その後17世紀に再建されるも、フランス革命期に最上部が再び破壊された。4面それぞれが2段構えで上段が鐘楼である。聖堂北壁にはやはり大きなピラスターが付くが、南壁には側室と側室の間に大きなポーチがあり、その中にはゴシック様式の尖頭形アーキヴォルト(頭頂部には人間の頭の彫刻がある)に囲まれた半円扇状の窓と半円頭部の縦長の窓が組み合わせて開けられている。そのポーチのすぐ右側には小さなくぼみ(穴)の中に、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の古い十字架(Croix de l'Oustalet)が置かれている。最上部には十字架に架けられたキリスト、その裏面には聖母マリア、そして柱身の下部には、摩耗しているが聖母マリアと幼子イエスが彫られている。一番下には聖水器が置かれていた窪みがつく。
 後陣は、この聖堂の最も古いロマネスク期のものである。聖堂自体が斜面に建っていることから、後陣部分は高さのある縦長で、とりわけ下半分の土台部分は大きな石がきっちりと積まれている。上に行くに従って積み石が小さくなり荒積みとなる。後陣外壁は一見して半円形に見えるが、よく見ると七角形である。細長い開口部が中ほどの両脇に2つ、そして半円頭部の大きめの窓が最上部の中央に1つ開いている。後陣の北側に付けられた翼廊も高さがあり、方形の窓が北・東・西にそれぞれ開いている。
 聖堂内部は、3ベイからなる単身廊形式である(17世紀)。身廊のベイにはそれぞれ4分交差リブ・ヴォールトが架かり、リブは植物の葉(菱形や楕円)と人面が彫刻されたキュ・ドゥ・ランプが受ける。身廊の北側に1つ、南側に2つ付けられた祭室には交差リブ・ヴォールトが架かる。17世紀のものであるが、南側の祭室のうち、東側の内陣部分にあるものは、他よりも少し古くて16世紀のものである。最も西のベイは、西ファサードとともに、19世紀になって再建されたものである。現在は木製の2階席が作られている。2重になった半円形の勝利アーチ(葉の先端が丸くなったアカンサス風の柱頭彫刻が左右で受ける)から西の内陣部分には、半円筒形トンネル・ヴォールトのベイの東に半円ドームの後陣が続く。後陣には北側と南側にそれぞれ半円頭部の窓が開く。後陣中央部には窓はない。この半円形後陣も含めて内陣にはアーケードや彫刻装飾の類はな
く、いたってシンプルである。しかしこの内陣部分が最も古く、ロマネスク期にまでさかのぼることができるものである。
Trémolet de Villers(1998)pp.181-182; RIP.




48.2.2 フォー・ドゥ・ペイル(ペル)/サン=マルタン教会
                        (Église Saint-Martin, Fau-de-Peyre)

 オーモン=オブラックから北西へ約8キロ。「フォー」は「ブナの木」の意味で、標高1000メートルを越えるペイル地方の高地の小村である。聖堂は村の中央にある墓地教会である。ロマネスク様式であるが、外部・内部ともに改築改修の手が加えられている。聖堂の外部ではまずその大きな西壁が目につく。上部に丸窓が1つ開いている。鐘楼は身廊と後陣の間に立ち、現在は横3連式であるが、もともとはアーケードは4つあり、一番北側のものが埋められている。鐘楼の南側にはそこに登るための長い石段が、まるで巨大な支え壁のように付けられている。後陣は五角形で南面と西面に、それぞれ半円頭部のアーチの中にさらに小さめの窓が開
く。北面の開口部は細長い。聖堂入口は南側の大きなポーチ(南側祭室と、西壁の角に追加された支壁の上に屋根を架けたもの)の中にあって、墓地からは石段を何段か下りる。扉口自体は尖頭アーチを持つゴシック様式で、2段のアーキヴォルトがそれを囲む。扉口の外と中にそれぞれ泉水盤が置かれている(外のものの方が古い)。聖堂内部は、古さを感じさせる石積みの単身廊で、横断アーチによって3ベイ(うち1つは内陣部)に分かれ、天井は半円筒ヴォールトである。身廊の北側に1つ、南側に2つの祭室がつく。北側の祭室は3本のリブによる交差ヴォールトが架かる。南側のものは、1つは勝利アーチ(凱旋アーチ)の西の内陣部にあって、狭いが交差ヴォールトが架かり、もう1つは身廊部にあって半円筒ヴォールトである。後陣は五角形で、円柱アーケードの類はない。南面と西面に開けられた半円頭部の窓は、内側に向けて隅切りされている。天井は半円ドーム(cul-de-four)である。西端のベイには木造の2階席が作られている。後陣から2階席部分まで、堂内はすべてヴォールトの始まる起点部分をコーニスが巡り囲んでいる。堂内には彫刻装飾は見られない。
 なおこの聖堂の北およそ50メートルの場所に、かつてペイルの領主によって17世紀に建てられた城館(Château de Peyre)があったが、荒廃が進んで倒壊の危険もあったため、1963年に村によってすべて取り壊されてしまった。現在は何も残っておらず、村の駐車場広場になっている。その城館の様子は、例えばロゼール県南部のラヴァル=デュ=タルンにあるグランラックの城館(Château de Grandlac, Laval-du-Tarn)に似ている。
 またこの村から南に約3キロ南のボールガールの地には、19世紀の端正で美しい聖堂(Église de Beauregard)がある。外壁は漆喰で塗り固められているが、一部にかつての石積みが露出している。建物の背は高く、後陣は七角形で、ゴシック様式の尖頭頭部の細長い窓が開いている。後陣内部は8本の放射状のリブのついたヴォールトが架かる。
RIP.




48.2.3 ラ・シャーズ=ドゥ=ペイル(ペル)教会(Église de La Chaze-de-Peyre)
 オーモン=オブラックから南西へ約5キロ。県道D987から南に少し入る。この地には最初ベネディクト派の小修道院があったが、12世紀初めにマンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルがル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に付属せしめた。
 聖堂は集落の中央にあって墓地に隣接している。全体的に後の時代の改修が大幅に加えられており、あまり時代的な古さは感じさせない。聖堂の西側には一般の住宅が接続している。花崗岩でできた特徴的な形の塔は18世紀に再建されたもので、下部は四角形でその上に八角形の中間部分、そしてその上はやはり8面のアーケードである。このアーケードは円柱の上に尖頭アーチが載るもので、そのうち南に面したアーケードの柱頭部分には、一見大きな目を開いた人間の顔のようにも見える彫刻が付けられている。後陣は半円形で、南北に1つずつ大きな窓、そして東側に細くて小さい開口部が開く。後陣の上部には、軒持ち送り彫刻が並んでい
る。人面、球体、松ぼっくり(?)、動物の頭など。聖堂の入口は南側にあり、近代になって以降に作られたポーチが付いている。内部はスパンの異なる3つのベイからなる身廊と、半円ドームの載る半円形平面プランの後陣(12世紀)からなる。勝利アーチは最も東側のベイ(半円筒ヴォールト)と2番目のベイ(交差ヴォールト)の間に架かり、植物装飾の柱頭装飾を持つ円柱が受ける。北側は吹き上がるアカンサスの葉飾り彫刻で色は茶色、南側は線刻による葉文様である。東から2番目のベイの南北両側にはそれぞれ交差リブ・ヴォールトの架かる祭室が付く。西端のベイ(扉口はここの南側にある)には木製の2階席が作られている。西端のベイとその東のベイの間には横断アーチはなく、交差ヴォールトが、方形の平たい板が重なったような柱頭彫刻を持つ円柱に直接下りてゆく。
 ラ・シャーズ=ドゥ=ペイルには、村から北西へ向かう道を約1キロ進んで県道D987と交わるところに、ラ・ピネード礼拝堂(Chapelle de La Pignède)がある。1525年に建設された小聖堂で、ル・ピュイからサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼たちが立ち寄った。現在でも聖堂の前には「サンティアゴ・デ・コンポステーラまで1455キロ」という案内表示が立てられており、ここに立ち寄る巡礼の姿を見ることができる。全長およそ7メートルの小さな聖堂で、西ファサードは三角形の切妻の下に大きめのアーチが壁面に埋め込まれ、その下に丸窓と扉口が開く。アーチの上には赤いホタテ貝の彫刻が飾られている。また聖堂の西側の壁と北側の壁には、それぞれ碑文を刻んだ古い石版が埋め込まれている。内部は美しく彩色された半円筒ヴォールトが載る単一身廊・単一ベイというシンプルな作りで、奥の祭壇には白い「ラ・サレットの聖母」
(Notre-Dame de la Salette)の彫像が安置されている。
RIP.




48.2.4a サント=コロンブ=ドゥ=ペイル(ペル)教会(Église de Sainte-Colombe-de-Peyre)
 サント=コロンブ=ドゥ=ペイルは、ラ・シャーズ=ドゥ=ペイルの南およそ2キロの集落。聖堂は、県道D69から脇道に折れて村に少し入ったところにある村の墓地教会である。この地域の多くの聖堂と同様に、最初はベネディクト派の小修道院が建てられ、その後はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼がこの地に立ち寄った。そして12世紀初め(1109年)にマンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルがル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に付属せしめた。
 聖堂は修復の手が加えられており、端正な姿を今に伝えている。後陣と内陣の間の勝利アーチの上に建つ鐘楼は横3連式で(鐘は中央のみ)、その東側の後陣の平面プランは半円形である。窓が南北と東側中央の3カ所に開いている(ただし後陣東側中央の開口部は塞がれてしまっている)。量塊感のあるこの後陣の南側には、後代の方形の側室(翼廊ではない)が加わる。一方、聖堂北側には鐘楼に登るための大きな石段が、ほぼ45度の角度で付けられている(通常は登れない)。聖堂南側には尖頭形の大きなポーチの中に3重のヴシュールを伴って扉があるが、現在使用されている入口は、西壁の中央からやや左寄りに開いている。西壁上部には大きな丸窓も開いている。聖堂外部には、軒持ち送りや扉口なども含めて、彫刻装飾の類はまったく見られない。聖堂内部は、わずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトの載る単身廊形式である。後陣内部は半円形のドームで、外部から見て取れる細長い開口部は完全に埋められていて、内部からは確認できない。聖堂内部は白い漆喰で塗り替えられていて、アーチ部分にのみ、かつての石組みが残る。勝利アーチは半円形であるが、それ以外に2つある横断アーチは尖頭アーチで、「キュ・ドゥ・ランプ」(cul-de-lampe)が受けるが、それは簡単な植物彫刻の付いた柱頭と、縦の線刻文様の付いた下に向けてすぼまる石が組み合わされたものである。一番西のベイには、新しい木製の2階席が設けられている。
Trémolet de Villers(1998)pp.197-198.




48.2.4b サント=コロンブ=ドゥ=ペイル(ペル)/ル・シェール教会
                   (Église du Cher, Sainte-Colombe-de-Peyre)

 サント=コロンブ=ドゥ=ペイルから県道D69を南へおよそ2キロ行き、さらに東へ1キロ。ル・シェール
(Le Cher)の集落の北の背の低い小丘の中腹にある。かつてはペイル男爵領の主要な城塞の1つがここにあり(現在は残っていない)、この聖堂はその城塞に付属するものであった。聖堂自体も放棄されて廃墟化していたが、今日ではその壁などが修復されて、十字架の立つ岩場の下に寄り添うように建っている。西壁は修復の際に設けられたもので、方形の窓と入口が開けられている。南側の壁は、きっちりと整えられた石積みで、東側の後陣にかけての半円形のカーブが岩場に組み込まれている。半円形頭部の縦長の隅切りされた開口部(大きめのものと小さめのもの)が2つ開いている。内部は東端部がごつごつした岩場のままであり、それはあたかも洞窟のような光景である。天井はわずかにゆがんだ半円形トンネル・ヴォールトである。南壁に開いた2つの開口部は、外側に向けてよりも内部に向けてより大きく広がるようにして隅切りされて開いている。西壁の内側に、形の崩れた聖水盤が残っている。この聖堂は13世紀以降の建築であると推定される。この聖堂のすぐ下に、例によってまるで教会建築であるかのような形をした石造りの炭焼き小屋が建っている。少し大きめなので、ここを訪れた者は、最初はこの炭焼き小屋がル・シェール教会なのではないかと思ってしまうほどである。




48.2.5 ブリオン/サン=ジャック教会(Église Saint-Jacques, Brion)
 ブリオンは、ロゼール県とカンタル県の県境のオブラック地方に位置する小集落。オーモン=オブラックからは、県道D987を西へ約15キロ、マルブゾンからさらに県道D73を北西へ約9キロである。標高は1000メートルを超える。聖堂は、集落のほぼ中央にある墓地教会である。その名前の通り、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼との関わりが深かった。12世紀にはラ・シェーズ=デュー修道院に属する小修道院であった。現在は聖堂のみが残り、この小修道院は存在しない。聖堂は宗教戦争のあと再建された。
 聖堂の西側は集落の大きな広場(その広場には、例によってミニ教会建築風の小さな炭焼き小屋がある)に面した鐘楼壁であり、横2連式の方形の鐘楼が載り、その下には小さめの長方形の開口部が開く中間部分をはさんで、下部はまったく開口部のないの石積みの壁である。一方、東端の後陣部は、本来は五角形だったのであろうが、北側に、身廊部にかけて続く大きな側室が増築されたために四角形となっている。各面の角には付け柱が地上から中ほどの高さまでつく。またわずかに尖頭形となった頭部を持つ細長い窓が、南面とその次の面に2つ開いている。扉口は身廊部南側につけられた大きなポーチのセグメンタル・アーチの中(右寄り)にあり、これもまたわずかに尖頭形アーチになっているヴシュール(弧帯)で装飾されている。このポーチに
は、古いロマネスク時代を思い起こさせる彫刻がわずかに残っている。まず軒持ち送りの部分に、摩耗が進んでいるが、牛の頭部、そして判然とはしないが球のような彫刻が2つ。そして冠をかぶった2人の人物が手をつないでいるように見える彫刻がある。この2人は手をつないでダンスを踊っているようにも見える。一説によると、王冠をかぶっているのは左側の人物で、これはガリシア(スペイン)の王妃ルーヴルであるという。サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼との関わりが深いこの地であるなら、あり得ない話ではない。同じように手をつないでダンスをしているかのような、よく似たポーズを取る2人の人物の彫刻が、アルプ=ドゥ=オート=プロヴァンス県にあるサン=ポン教会南壁扉口にある側柱上部にも見られる。しかしサン=ポンで踊っているのは男性2人である。このほかブリオンでは、ポーチのセグメンタル・アーチの向かって右上の壁に、司教杖を持った人物の古い彫刻が埋め込まれている(これもまた摩耗が進んでいる)。
 聖堂内部は、尖頭形のトンネル・ヴォールトが架かる単身廊形式で、ただ1つある尖頭形横断アーチから東側の内陣部の天井は、ゴシック様式の放射状交差リブ・ヴォールトである。北側の側室のヴォールトも太くて丸い4分交差リブで支えられている。西端部には木製の2階席が設けられている。聖堂内部には、特に注目すべき彫刻装飾の類は見られない。
Morel(2007)pp.91-92; Trémolet de Villers(1998)pp.168-169.
 



48.2.6 グランヴァル教会(Église de Grandvals)
 ナスビナルから北へ約10キロ、オーヴェルニュのカンタル県との県境の村である。村は県道D12沿いで、聖堂は村の中心からやや北寄りにある。聖堂の北側は村の墓地である。史料には13世紀初めにその名が見られ
る。その世紀には司教のマンスに属していた。
 現在のグランヴァル教会は、身廊と塔が近年(20世紀)になって新しく建設されたもので、さらにその西側に民家の建物が付属している。ロマネスク期を思い起こさせるのは後陣部分である。がっしりとして均整の取れた姿が見て取れる。その平面プランは五角形で、それぞれの面には、地面まで降り立つ大きく美しい壁面アーチが1つずつ付けられている。半円頭部で縦長の開口部は、最東端の面とその左右の2面に、合計3つ開いている。最も南の面には、後の時代の付属室(聖具室)が加えられている。新しい身廊の壁は、やはりこの古い後陣部分の壁面アーチを意識して、大きさや形がそれに合うように、同じような壁面アーチを並べて建てられている。聖堂の北側からの眺めがそれをよく物語っている。聖堂の入口は身廊南面にある。
Trémolet de Villers(1998)p.169.




48.2.7 ルクール=ドブラック/サン=ジャン教会(Église Saint-Jean, Recoules-d'Aubrac)
 ナスビナルの北およそ4キロ。カンタル県との県境まで1.5キロに位置する。このあたりはカンタル、アヴェロン、そしてロゼールと3つの県の県境が交わるところである。ルクール=ドブラックの集落は、ロゼールの県道D112から南に300メートルだけ入ったところにあり、12世紀後半に建てられたサン=ジャン教会は、集落の東端に建っている。
 とりわけ西からアクセスした場合にそうなのであるが、最初に目に入ってくるのは、あたかも封建時代の城塞の塔のような印象を与える大きくてがっしりした長方形の鐘塔の姿である(聖堂の最も西端のベイの上にがっちりと「そびえる」ように建つ)。その上部には4面それぞれに鐘楼アーチがあり、鐘がつるされている。4面のうち長辺である西側の面の下部には、小さめの窓が2つ開いている。塔の2階に登るための石段がその南西側に付けられている。後陣は五角形であるが、後の時代の側室が後陣の南北それぞれにトランセプトのように増築されている。また東側にも同様の小建造物が付いている。そのため、後陣の形はやや分かりにくい。後陣南側の面および南側の側室と身廊部南側の壁に、合計4つ半円頭部の窓が内部に向けて大きく隅切りされる形で開いており、聖堂内部は比較的明るい。それに対して、身廊北側には側室に1つ開口部があるだけで、身廊部自体には窓がまったくない。扉口の上から身廊部、そして後陣にかけて一定間隔で付けられた赤い石の軒持ち送り彫刻(モディヨン)は、ロマネスク聖堂にしばしば見られるおなじみのモチーフが並ぶ。すなわち、目を見はる人面、ライオンあるいは猫のようにも見える動物たちの頭、縦や横に束ねたいろいろな形をした棒状の(幾何学的な)オブジェ、大きく広がる葉脈らしきオブジェなどである。扉口は聖堂南側の2本の付け柱(扶壁)の間にあって、半円形のアーキヴォルトは、やはり赤い火成岩でできており、一番外側のヴシュールには、一定間隔で小さな丸い花弁装飾が付く。ヴシュールを左右で受けるインポストは四角いチェック模様の彫刻である。ただし、その下には円柱はなく(かつては左右に1本ずつあった)、四角い石積み柱のみとなっている。
 聖堂内部は、外の大きな方形の塔を見たイメージを持ったまま中に入ると、実際の身廊の幅の狭さに少し意表をつかれるかも知れない。トランセプト様の側室を内陣の南北に持つ単身廊形式で、天井は半円筒トンネル・ヴォールトである。身廊部分は4つのベイからなり、一番西のベイには木製の2階席が作られている。各ベイは横断アーチで区切られ、それぞれのアーチは円柱(付け柱)が受け、その円柱には彫刻の施された赤い火成岩の柱頭がある。単純なアカンサス、先端が渦を巻くこぶし花、2頭のライオンが左右からやはりライオンらしき動物の頭に足をかけているもの、そして向かい合う2頭のグリフィン。このグリフィンからはオリエントの雰囲気を感じ取ることが出来る。内陣は南側に開口部が1つある以外は、すべて石壁で覆われている。
 この聖堂は、その名の通り中世期にはイェルサレムの聖ヨハネ病院騎士修道会に属する小修道院のもので、パレール(Palhers)にあったコマンドリーに管轄され、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の受け入れの任に当たっていた。毎日危険な山野を歩き続ける、何かと不安に満ちた心細い巡礼たちは、ルクール=ドブラックのがっしりした鐘塔を目にして、いかに心強い安心を得たことであろうかと推察されるのである。
Morel(2007)p.103; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.297;
Trémolet de Villers(1998)pp.169-171.




48.2.8 ナスビナル/聖母被昇天教会
        (Église Notre-Dame de l'Assomption ou Église Sainte-Marie, Nasbinals)

 オーモン=オブラックから県道D987で西へ約25キロ、マルヴジョルからは県道D900で北西へ約30キロ、カンタル県とアヴェロン県の2つの県境が近い。オブラックの高地に位置するこの大きな村は、古くからサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が立ち寄る中継地であり、現在でも巡礼路を歩く人々や、周辺地域を「ランドネ」する人々、そして一般の観光客などがここに立ち寄り、あるいは宿泊する。
 1074年に、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院のベネディクト派修道士たちが、ルエルグやコンク方面に向かう巡礼のための救護所も兼ねて、ここに小修道院を創建した。この小修道院がサン=ヴィクトール修道院に帰属するものであることを確認する1074年の史料が初出である(cella Sancte Marie de Nabilnas)。12世紀半ばには、救護院も兼ねていたオブラック修道院(Domerie d'Aubrac. 現カンタル県)の管轄下に移り、その後百年戦争期に被害を受けたものの、修復を重ねながらフランス革命にまで至った。
 聖堂は、この大きな村のほぼ中央、傾斜しながら通る県道D987のS字カーブの内側に建っている。平面プランはラテン十字形である。大きな翼廊(トランセプト)が後陣に負けないほどの大きさであるため、後陣側から見ると、ラテン十字ではなくあたかもギリシア十字形の聖堂ではないかと思ってしまうほどである。トランセプトの交差部の上には、これもまた端正で美しい八角形の鐘塔が載り、その上部には各面に半円頭部の鐘楼アーチが開く(最上部は近年の尖頭形のクーポールである)。後陣部は半円形の平面プランで、付け柱(扶壁)である4本の円柱の上に、5つの半円アーチからなるアーケードが載っている。そのうち最も南の柱の柱頭部には、冠板に帯状のギザギサ文様の付いた単純なアカンサスの彫刻が見られる。また軒持ち送りには、かなり摩耗が進んでいるが、人の顔や動物(猿?)、植物その他のモディヨンが並ぶ。主後陣には北、東、南の面に半円頭部の小さな窓が開く。主後陣の左右には、半円形の小後陣がトランセプトとの間に割り込むように付いている。この南北の小後陣にも1つずつ小さな窓が開いている。南側のトランセプトには、身廊の南壁に開く扉口との間に、鐘塔よりも背が低い円形の塔(15世紀)がついている。これは鐘塔に階段で登るためのものである。扉口は、身廊部南壁からせり出したがっしりしたポーチの中にある。何重にも重なるヴシュールのアーチは、ところどころ黒い石が混じり(特に一番外側のヴシュール)、それ自体は簡素で彫刻装飾の類はな
い。しかしヴシュールのアーチを受ける左右に2本ずつの側柱(円柱)の柱頭部には彫刻が施されている。向かって左側の2本は摩耗しているが、奥のものには植物の葉の丸い渦巻きが残っている。向かって右側の奥にはアカンサス様の葉と丸い渦巻き、そして手前の柱頭には、逆三角形様の組紐文と、戦う2人の戦士である。戦士の1人は弓を構え、騎士らしきもう1人は盾と槍を持って相対峙している。この2人の間にも、円環に植物のツルがからまる組紐文が認められる。冠板には連続する星形装飾の帯と、上下逆向きのユリ様装飾がつけられている。なおよく似た戦士の戦うイメージは、オーヴェルニュ地方で時おり見かけるものであるが(サン=ネクテール他)、ロゼールでは、ラ・カヌルグのコレジアル・サン=マルタン教会[48.1.13.4a. Collégiale Saint-Martin, La Canourgue]の後陣に見いだすことができる。
 ロマネスク独特の量塊感を感じさせる聖堂内部は、単身廊形式でトランセプトならびに交差部の上のクーポール、そしてその西側に後陣と小後陣が続く。こうしたプランは、いわばロマネスク聖堂の古典的とも言える形で、オーヴェルニュやルエルグなどではよく見かけるものであるが、しかし意外にもジェヴォーダンには多くない。ここ以外には、例えばマンド南東のラヌエジョル(Lanuéjols)のサン=ピエール教会がこれにあた
る。ナスビナルの身廊部には北側に2ベイからなる側室がある(天井の交差ヴォールトは人面のキュ・ドゥ・ランプが受ける)。身廊自体は3ベイで、天井はそれぞれ交差リブ・ヴォールトで支えられる。リブは彫刻の施された柱頭が受け、円柱がそれを支える。ただしこの身廊部のヴォールトは、もとは半円筒ヴォールトであったが、百年戦争の時代に破壊されその後再建されたものである。交差部の上は、身廊とトランセプトを分けるアーチ、そして身廊・内陣部分をそれぞれ分ける横断アーチによってほぼ正方形に区切られていて、4隅に人面彫刻ならびに小アーチが配され、その上に八角形の枠組みを介して円蓋(クーポール)が載る。南北のトランセプトは半円筒ヴォールトで、大きな窓が開く。後陣内部は七角形で、小円柱に支えられた7つの小アーチが並ぶ。その小円柱には簡素な植物の柱頭彫刻が施されている(ただしロマネスク期のものではない)。後陣の窓は3カ所であり、したがって残りの4つのアーチは盲アーチ(ニッチ)である。内陣にはがっしりとした石の祭壇が置かれていて、その前面には古さを感じさせるクリスム(XとP、すなわちギリシア語のカイとローを組み合わせてキリストを表す)が刻まれている。主後陣の両側には小後陣があり、それぞれ南北のトランセプトの東側に開いているが、南側のそれは15世紀以来塞がれており、現在は最近作られたルターブル(装飾衝立)が置かれている。内陣側に作られた扉も普段は閉じられているので、一般には見ることができない(聖具室となっている)。北側の小後陣は、簡素な植物の柱頭彫刻が載る円柱とそれに支えられたアーチの奥にある。やはり最近作られた新しいルターブルが置かれている。
 聖堂の一番西のベイには、新しい木製の2階席と3階席が作られている。この地方のロマネスク期の聖堂で、階上席が3階まであるものは他にほとんど見ない。この木製階上席の下には小さな出入口があって、この聖堂に付属して建てられている隣の居館と行き来するためのものである。かつては修道士たちがこれを利用していた。一般の信者たちは、南壁の扉口から出入りしていたのであった。
 ナスビナルの聖母被昇天教会は、建物全体がきれいに切り整えられた切石が端正に積まれていて、鐘塔や後陣も含めて全体的に均整の取れたその姿は、12世紀当時の面影をよく保存していて誠に美しいものであると言えよう。
Chastel(1981)p.23; Morel(2007)pp.100-101; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.342-357; Ribéra-Pervillé(2013)p.106; Trémolet de Villers(1998)pp.171-175; Verrot(1994)pp.12-22; RIP.
 



48.2.9 マルブゾン教会(Église de Malbouzon)
 オーモン=オブラックとナスビナルの間に位置し、前者からは西へ14キロ、後者からは東へ9キロである。村は県道D987沿いにあり、聖堂は村の東寄りに墓地に囲まれて建っている。標高は1180メートルである。この地の小修道院は、もとはマンド司教の庇護のもとにあったが、ペイルの領主が13世紀にコンクのサント=フォワ修道院に与えた。この地方の多くの修道院と同じく、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の受け入れと救護の任に当たった。
 ほとんど方形であるとも言える西ファサードの壁の上部は、横3連式の鐘楼となっており、中央部の小さめの丸窓をはさんで、下部には扶壁と扁平アーチからなる一種のポーチの中に、扉口が開いている。これもまた扁平アーチとなったヴシュールは2本の側柱に支えられている。側柱の柱頭彫刻は、左右とも渦を巻く植物の葉である(摩耗が進んでいる)。ロマネスク様式の面影をよく残しているのは、高さがあって量塊感のある後陣部分である。五角形のそれぞれの面には半円頭部の付けアーチがあって、3面のみ細長い開口部が開き、2面はニッチである。壁面最上部のせり出したコーニスを支えるように、軒持ち送り彫刻が並ぶ(いくつかは赤茶色い色の石)。棒状のもの、アコーディオンのような形のもの、幾何学的な形状のオブジェ、交差する菱形の組紐文などである。身廊の北側には大きな側室、南側には小さな側室がつけられている。南北で大きさが異なるため、後陣側から見るとややバランスを欠く印象である。もとは勝利アーチの上にあった鐘楼は、フランス革命の際に破壊された。
 聖堂内部は単身廊形式で南北に側室がつく。この身廊は古いものではなく、20世紀に入って拡張されてい
る。南北の壁には半円頭部の窓が並ぶ。半円筒トンネル・ヴォールトは白く塗り固められている。古さを感じさせる後陣内部(内陣)は七角形である。そのうち3面に、半円頭部で内側に向けて隅切りされた窓が開く(内陣南側の壁にも大きな窓が開く)。その上には半円ドームが載り、6本のリブが付いている。内陣と身廊を分ける勝利アーチは、太い角柱とそれにつけられた円柱に支えられ、円柱の柱頭部には簡素な植物の葉が彫刻されている。身廊の西端には木製の2階席が設けられている。また扉口から入って左側には彫刻装飾の施された洗礼盤があり、1776年の銘がある。
Morel(2007)pp.98-99; Trémolet de Villers(1998)pp.178-181; RIP.




48.2.10 プランスエジョル/サン=ピエール=エ=サン=ポール教会
                   (Église Saint-Pierre et Saint-Paul, Prinsuéjols)

 マルブゾンから県道D73で南東に5キロの小集落である。1109年の史料に、マンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルが、この聖堂をコンクのサント=フォワ修道院に与えたと記載がある。県道D73をマルブゾン方面からアクセスすると、幅広でがっしりとした量塊感のある見事な鐘壁の姿が目に飛び込んでくる。上部に横4連式の鐘楼アーチが並んでいる。ただしこの鐘壁はフランス革命以後に再建されたものである。鐘壁の裏側(東側)にはそこに登るための長い階段がついている(普段はアクセス不可)。聖堂全体は、もともとは12世紀に遡るものではあるが、現在の建物はロマネスク期のものではない。身廊の南北にはトランセプトがつき、後陣東側にも後の時代の付属建物が加えられている。扉口は、身廊南側の扁平形頭部の付けアーチの中に開いている。聖堂内部は、文献によれば尖頭ヴォールトで、北側についたトランセプト(側室)の天井は交差リブ・ヴォールトである。聖堂の西隣には、巡礼のための宿泊所(gite d'étape)が建てられている。
Trémolet de Villers(1998)p.178.




48.2.11 セルヴレット/サン=ジャン教会(Église Saint-Jean, Serverette)
 セルヴレットは、サン=シェリー=ダブシェとマンドを結ぶ県道D806の中継地で、前者からは約15キロ、後者からは約29キロである。ただし、ロマネスク期のサン=ジャン教会は、セルヴレットからこの県道をおよそ1.5キロ南へ行った道路沿いの墓地に建っている。1109年にマンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイルが、この聖堂をル・モナスティエ(Le monastier)のサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に与えている。その後は司教のマンスに属し、宗教戦争期に被害を受けた。またフランス革命期には鐘楼が取り壊され(1794
年)、それは二度と再建されることはなかった。
 鐘楼がないために、聖堂は全体として低く平たく見える(特に北側から見た場合)。扉口の開く印象的な西ファサードは、左右の角に太くて強固な付け柱(扶壁)がつき、背の低めな三角形の切妻屋根とも相まって、よりいっそう安定感が感じられるものとなっている。かつての鐘楼はこの西壁に建っていて、ル・モナスティエ(ロゼール)の西ファサードと似ていたと思われる。四角い扉口は3重のヴシュールの美しいアーチに囲まれている。その上には、やはり半円頭部のアーチの中に、細長い開口部がついている。五角形の後陣の各面にはやはり半円アーチが1つずつ付いており、一番南側の面と一番北側のアーチに、半円頭部の細長い開口部が開いている。他の3面のアーチはニッチである。身廊の南北には奥行きの小さい側室が付属している。
 聖堂内部は、構造的には4つのベイからなる単身廊形式で、東側3つのベイには南北にそれぞれ側室が付く。天井は、よく見るとわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトで、南北の側室も同様である。五角形の後陣内部には半円頭部のアーチが5つ並び、その上に半円ドームが架かる。中央には白い石で作られた祭壇が置かれている。身廊部の西端のベイには南側に、西ファサードとは別に四角い出入口が開いている。身廊部に架かる4本の横断アーチは尖頭形で、それを受ける円柱の柱頭部には簡素な植物文様が彫刻されているが、一番西の南側の柱頭だけは、細かい葉が上下から広がる精緻な装飾が彫刻されている。
 聖堂内部の様子は、先に触れた西ファサードの姿とともに、訪れる者に強い印象を与える。独特なのはその保存状態で、壁面やヴォールト部分に緑色のコケが広がっており、それはいかにもこの聖堂が長年使用されずに放置されたかのような光景である。しかも単に歴史をへて古いというだけでなく、そのコケのおかげで、誠に不気味とも言える一種独特の雰囲気が醸し出されているのである。
Chastel(1981)pp.29-31; Trémolet de Villers(1998)pp.211-212.




48.2.12 レ・ロビー/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Les Laubies)
 セルヴレットからさらに県道D806を南におよそ3キロ、トリュイエール川のすぐ手前(北)で県道D58を東へ左折して約800メートルである。サン=プリヴァ教会は集落のほぼ中央の斜面に建っている。もともとここにはマルセイユのサン=ヴィクトール修道院所属の小修道院があったが、1155年、ギィヨーム修道院長からマンド司教アルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネル(Aldebert III de Tournel)に譲られた。その後はマンド司教のマンスに属した。
 現存の聖堂は、比較的小ぶりなもので、内陣部と身廊部の間の勝利アーチの上に建つ17世紀あるいは18世紀の横3連式(その上に小さな鐘楼が1つ加わる)の繊細な鐘楼が目を引く。ただしその鐘楼の土台部分には、身廊南側からそこに登るために作られた幅の広い量塊感のある階段が付いている。聖堂身廊は3ベイからな
り、そのうち内陣部側の2ベイにわたって、南側に側室が付けられている。一番西側のベイの外側(南側)
は、5段の石段を登ったところに扉口が開く大きなポーチになっている。扉口の上には平たい扁平アーチが架かる。ポーチの左右には円形と多角形の聖水石盤が置いてある。聖堂西面は屋根が三角形の壁面で、中央上部に半円頭部の開口部か1つ開くだけである。聖堂北側は一番東のベイにトランセプト様の側室が付く。その西側の壁面には付け柱(扶壁)が並ぶ。開口部はない。鐘楼の西側には半円形平面の後陣が続くけれども、後の時代の聖具室が増築されているうえに、聖堂の隣に建つ民家の建物の壁と接していて、その後陣部を明確に見渡すことは難しい(聖堂の北西側からは多少見ることができる)。聖堂内部は3ベイからなる単身廊形式で、南北に大きさの異なる側室がつく(北側の側室の天井は半円ヴォールト、南側の側室の天井は、わずかに尖頭形となったヴォールトである)。身廊部の天井もわずかに尖頭形のトンネル・ヴォールトである。そこに架かる横断アーチは明らかな尖頭アーチである。横断アーチを受けるのは四角い付け柱である。後陣内部は半円形平面でその上に半円ドームが載っている。開口部は南北に1つずつ開けられている。
 聖プリヴァ(Saint-Privat)は、ジェヴォーダンの司教で、この地方に最初にキリスト教を広めた人物である。3世紀後半、ローマ皇帝ウァレリアヌスの治世下で殉教した。息子はローマの高官であったという。時はゲルマン民族がガリアにも侵入していた時代で、ヴァンダル人によってグレーズ(マンドの西15キロ)が包囲された際には、聖プリヴァはマンドの南にあるミラ山の洞窟で祈りを捧げ断食したが、捕らえられ拷問の末に殺された。しかしヴァンダル人はその直後にグレーズ包囲を解き、住民たちはこの聖人を丁重に葬ったとい
う。12世紀にはこの聖人の墓がマンド大聖堂の地下クリプトに作られた(1170年)。ロゼール県には、マンド大聖堂をはじめ、この聖プリヴァを守護聖人とする聖堂は多い。
Trémolet de Villers(1998)p.210; RIP.




48.2.13 サン=ガル教会(Église de Saint-Gal)
 サン=タマン(Saint-Amans)から県道D3で約1.5キロ西進し、右折後さらに北へ800メートル。聖堂は集落の中央にあり墓地に囲まれている。聖ガルはメロヴィング時代のクレルモンの司教で、かつては彼を守護聖人とする小修道院がこの村にあった。
 2ベイからなる身廊に後陣が付いた小ぶりな聖堂である。西側には住宅が接している。後陣は外から見る
と、北側に側室(聖具室)が付属するため、内陣部の壁を含めて六角形である(内側は七角形。内陣部の壁を除くと五角形)。最東面ならびに南側の2つの面に開口部がある。また軒持ち送りには、後陣南側の部分に、筒状、棒状、組紐状のモディヨンが並んでいる。勝利アーチの上に鐘(1639年)が1つだけの小さな鐘楼が立つ。側室(祭室)は身廊南側の2つ目のベイにも付いていて、後陣側から見ると、斜め屋根の側室が聖堂の南北にあるため、全体的に背が低くて非常に安定した印象を受ける。後陣の積み石は大きさが均等ではないが、後陣上部に大きめの積み石がきれいに並んでいて、これもまた安定感を与えるのに一役買っている。
 半円アーチのシンプルな扉口が聖堂南壁の最初の(西端の)ベイに開く。天井はリブのない交差ヴォールトである(このヴォールトは、16世紀にプロテスタントによって破壊されたあと修復された)。同様に交差ヴォールトの架かる南側の祭室のアーチは大きな半円形である。身廊の2つのベイを分ける横断アーチはない。しかし交差ヴォールトの基壇は、円柱に支えられており、その灰色の柱頭部には、摩耗の進んだ彫刻が見られ
る。特に北側のそれは、中央の面に渦を巻く葉飾りとその間からこちらをまなざす丸い人面であり、左側の面には牛の頭部が見て取れる。聖堂内部の柱頭彫刻などに牛の頭部が見られるのは珍しいと言える。五角形の後陣には半円ドームが載る。堂内全体は、近年の修復で白く上塗りされている。太い角柱(ピラスター)と隣り合わせになった勝利アーチと内陣の壁には、黄色がかったオレンジ色の彩色装飾画(花飾り、樹木、光を放つハトや心臓など)が繊細に描かれていて美しい。内陣の壁に描かれているのは角柱やその間に吊された楽器類である。これらの彩色画は18世紀のものである。西端のベイには木製の2階席が作られている。もとは聖堂の西隣にあった司祭館と行き来する出入口があったが、現在は埋められていて見ることができない。
Trémolet de Villers(1998)pp.209-210; Verrot(1994)pp.121-123.




48.2.14 サン=タマン教会(Église de Saint-Amans)
 サン=タマンはマンドから県道D806で北へ23キロ。標高は1100メートルを超える。聖堂は村の北端にあ
り、墓地に囲まれている。聖アマンは、メロヴィング朝下(5世紀)のロデズ(Rodez)の初代司教と言われる。もとはベネディクト派の小修道院がこの地に作られたのが始まりである。マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に属していた。しかしこの聖堂自体の正確な建築年代は分かっていない。宗教戦争期に被害を受けたあと修復や増築が重ねられてきた。
 3ベイからなる身廊と、南北に付けられたトランセプト様側室、五角形の後陣、そして勝利アーチの上に鐘楼が立つ。後陣上部にはコーニスがめぐる。モディヨンなどの彫刻装飾はない(ただし聖堂南壁の一番西のベイには動物の頭や人面などのモディヨンがいくつか見られる)。鐘楼は、鐘を吊すベイが2つしかないのに
(横2連式)、それよりもはるかに大きくて、あたかも鐘壁であるかのように横幅があるのが印象的である。一番上に小さな鐘楼アーチが1つ立っている。この鐘楼には聖堂南側から新しい鉄製の階段および屋根の南側に続く石段で登るようになっている(普段はアクセス不可)。わずかに尖頭形アーチとなっているヴシュール2つ(地面まで続く)に縁取りされたゴシック様式の扉口は、聖堂南側の、トランセプトから引き続く木製の屋根の下に開く。この木製の屋根は、向かって左端が八角形の太い角柱で支えられている。扉口の向かって左側には、彫刻が施されているが摩耗の進んだ聖水石盤が置かれている。
 聖堂内部は、近年の修復によって壁面およびヴォールトが白塗りされている。身廊は3ベイで、そこに架かるヴォールトは半円形トンネル・ヴォールトであるが、横断アーチはごくわずかに尖頭形であるようにも見える。トランセプト様の側室(ゴシック様式)が東端のベイの南北に付く(17世紀以降)。これもまたごくわずかに尖頭ヴォールトであるように見える。幅の広い勝利アーチと後陣の内側の壁には、サン=ガル[48.2.
13]と同じように、花飾りやカーテンなどの繊細な彩色画が描かれている(18世紀のものだが近年の修復を経ている)。後陣は五角形で、半円アーチのアーケードが並ぶ。それらのアーチを受ける小円柱の柱頭には、摩耗が進んでいて形が判然とはしないが、カーヴを描く幾何学的な模様(植物か)が彫刻されている。また身廊の横断アーチを受ける円柱の柱頭彫刻も同様で、さまざまな形の植物文様が見て取れる。勝利アーチの北側の円柱の柱頭には、大きく手を広げる「祈る人」(オラント)が見える。また扉口内部のすぐ右側の円柱の柱頭には、3頭身ほどのずんぐりとした人物が正面と側面に認められる(冠板はギザギサ文様)。側面のそれは2人並んで立っている。さらに西から2番目の横断アーチを支える円柱の柱頭は、北側は不思議な形をした幾何学的な植物文様、南側は大きな方形の石の正面と側面にやはり3頭身ほどの人物が2人並んでいる。正面の2人は、司教杖を間にはさんで立っている(写真)。これらの人物の顔は、丸い頭に大きな鼻と2つの目だけが彫られたものである。身廊西端のベイには木製の2階席が設けられ(欄干は鉄製)、また西壁には上部に大きな丸窓が開き、その下にはかつての扉口が残っているが、現在は使用されていない。
Trémolet de Villers(1998)pp.208-209; Verrot(1994)pp.118-120.




48.2.15 リベンヌ教会(Église de Ribennes)
 サン=タマンから県道D999で南西へおよそ6.5キロ。聖堂は、その道がこの村で交わる県道D50沿いにあ
る。教区教会であり、全体的外観と内部の様子はロマネスク風であるが、実際は19世紀に建て替えられたものである(1842年の銘が南側室の外壁に埋め込まれている)。したがってロマネスク期のものではなく、ロマネスク様式を保って再建された聖堂ということになる。珍しいことに、半円形平面で高さのある後陣(正面から見ると開口部がまったく見えない)は西向きで、聖堂東端には横2連式でその上に小鐘楼が1つ載る鐘壁が立つ。上部に丸窓が開けられている。聖堂南側の12段の石段を登ると、扶壁の役割も果たしているがっしりしたポーチが張り出していて、その中にゴシック様式の尖頭アーチを持つ扉口が開いている。ポーチの向かって左側には、彫刻の施された多角形の古い泉水石版が置いてある。身廊は4ベイで尖頭形のトンネル・ヴォール
ト、横断アーチも尖頭形で、壁に埋め込まれた半円の円柱がそれを受けるが、柱頭彫刻はない。半円形平面の後陣には、水平に付けられたコーニスの上に半円ドームが載る。左右で大きさの異なる隅切りされた半円頭部の窓が開いている。身廊西端のベイには南北に側室(祭室)が付き、そのアーチは大きめの石を組んだ半円形である(天井は交差ヴォールト)。聖堂の東南角の外壁に、円や三角形を組み合わせた幾何学的な図柄に線刻文字を彫刻した石版が埋め込まれている。再建される前のかつての古い聖堂のものであろうか。
Trémolet de Villers(1998)pp.287-288.




48.2.16 サン=ドニ=アン=マルジュリッド教会(Église de Saint-Denis-en-Margeride)
 サン=タルバン=シュル=リマニョルから県道D4とD58で南東へ約11キロ、グランリューからは県道D5でおよそ17キロ。かつてはランドン男爵領(バロニー)の城塞の1つがこの地にあった。聖堂は村のほぼ中ほど、県道D58沿いにある。全体的に後年の改築を経た新しいものであるが(19世紀)、後陣(内陣)部分にロマネスク期の名残が見て取れる。扶壁の並ぶ身廊の東には、横4連式の大きな鐘楼が立ち(一番上に小鐘楼が載
る)、さらに半円形平面のがっしりした後陣が続く。この後陣は、珍しいことに土台より上部がわずかに小さい末広がりの「台形」となっていて、周囲に扶壁(付け柱)が付けられている。後陣北側には鐘楼に登るための斜めの長い階段がある。扉口は身廊南側に開き、2重の半円アーチを伴っている(それ自体は新しい)。身廊は5ベイで、一番東のベイの南北にトランセプト様の側室(交差ヴォールト)が付く。天井は半円形のトンネル・ヴォールトで(白く上塗りされている)、そこに架かる尖頭形の横断アーチは、ピラスター(壁に付けられた角柱)が受ける。身廊と内陣を分ける勝利アーチは3重で、太くてがっしとした角柱の上に載ってい
る。内陣の東側にはさらにもう1本横断アーチがあり、そこから東側が後陣部となり、半円形平面で半円ドームが載る。大きさの異なる3つの半円頭部の開口部のうち、北側のそれは壁で埋められていて採光の機能は果たしていない。
 サン=ドニ(聖ドニ)は、言わずと知れた3世紀のパリの司教で、モンマルトルの丘で殉教した後、打ち落とされた自分の首を持って歩き、最後に倒れた場所に、後のサン=ドニ修道院が建てられた。
Trémolet de Villers(1998)pp.216-217.




48.2.17 ラ・ヴィルデュー教会(Église de La Villedieu)
 サン=ドニ=アン=マルジュリッドから間道を南東へ約5キロ、サン=タマンからは県道D34を走って約10キロ。聖堂は県道沿いに建っていて、村の墓地に囲まれている。この地にあった小修道院は、中世からフランス革命に至るまでの間、ラ・シェーズ=デュー修道院に属していた。改築・増築の手がかなり加えられていて、ロマネスク期の面影を残すところは少ない。身廊外壁には半円頭部の窓が3つ開く以外には扶壁もなにもな
い。さらに切妻屋根の大きな側室の東には後陣が続くが、南北の側室に加えてもう1つ付属建物(聖具室)が東側に付くために、外からは後陣の形がよく見えない(半円頭部の窓が見えるだけである)。扉口は、身廊南側に作られた最近の新しい鐘塔の下に開いている。内部は、文献によると、身廊は2ベイからなる。天井には尖頭形トンネル・ヴォールトが架かり、横断アーチがそれを支えている。半円形の勝利アーチは四角いピラスター(壁付け柱)が受ける。半円形平面の後陣の上には半ドームが載る。
Trémolet de Villers(1998)p.217.




48.3 Grandrieu、Langogneとその周辺

48.3.1 サン=サンフォリアン教会(Église de Saint-Symphorien)
 グランリュー(Grandrieu)から県道D585で北へ8キロ、オート=ロワール県との県境に近い標高およそ1200メートルの村である(D585からは約1キロ北東に入る)。聖堂は、村の中心にあり墓地が隣接する。そこに立つとロゼールからオート=ロワールへと続く広々とした高原を見渡すことができる。聖サンフォリアン(Symphorianus)は、2世紀後半にブルゴーニュのオータンで殉教した聖人である。聖堂は、11世紀にはラ・シェーズ=デュー修道院に付属していた。
 聖堂にはかなりの改築の手が加えられている。外観でまず目を引くのが東端部に立つ方形の鐘塔である。3層からなり、上部には南北東面に鐘楼アーチが1つずつ、そして西面に2つ開く。下部には東と南の面の高さの違う位置に小さな四角い開口部が開く。また中段の4隅にはガーグイユが付けられている。この鐘塔は後陣部の上に立つために、通常見られるような半円形プランの後陣の外観を見ることはできない。鐘塔と身廊部の間には、扶壁の様にも見える方形の小塔が斜め向きに付けられている(この小塔にも西側にごく小さな開口部が見られる)。身廊の南北には太い扶壁(付け柱)が付いている。扉口は、聖堂南側の大きくてがっしりとした(扶壁のような)ポーチの中にある。扉口の上にはわずかに尖頭形となった4重のアーキヴォルトが載る
が、そのうち外側の3つのヴシュールは、白い石と黒い石が市松模様のように交互に組み合わされたものである。それらのヴシュールは四角い側柱が受ける。彫刻装飾はない。この扉口の形は、ヴェルドゥザン教会
[48.1.8b]に似ている。聖堂内部は、筆者訪問時は見学は不可であったが、身廊が3ベイ、横断アーチは無装飾の柱頭を持つ円柱が受ける。後陣は五角形で、放射状のリブが架かる。後陣北側には祭室が付いている。
Morel(2007)p.107; Trémolet de Villers(1998)pp.219-221.




48.3.2 サン=ボネ=ドゥ=モントルー教会(Église de Saint-Bonnet-de-Montauroux)
 グランリューから県道D5とD988で東へ約11キロ。オート=ロワール県との県境まで約5キロ、標高はおよそ800メートルである。聖ボネ(ボニトゥス)は、7世紀にアウストラシアのシギベルト3世に仕え、その後プロヴァンスの代官、そしてクレルモンの司教となった人物である。晩年にはオーヴェルニュのマンリュー修道院に引きこもったと伝えられる。聖堂は村の中央からやや西寄りの斜面に建っている。大きさは小ぶりで、太い扶壁が付いた身廊に五角形の後陣が続く(内陣部の壁も含めると七角形)。後陣のコーニスおよびモディヨン(軒持ち送り)には、ロマネスク期のものと思われるさまざまな彫刻が残されている。コーニスには丸い玉飾り、モディヨンには人間や動物の顔、巻き上がる植物(あるいはユリか)、花、星、筒、棒、十字架、金槌など。後陣には最東面にのみ半円頭部の大きな窓が開いているが、現在はそこに第1次世界大戦時の戦死者名を刻んだパネルがはめ込まれているので、採光の機能は果たしていない。身廊と後陣の間には横2連式の鐘楼が立つ。聖堂北側には身廊部の全面に付属の建物(そこには鐘楼に登るための石段がある)、そして後陣の部分に側室が付く。聖堂南側には半円頭部の窓と四角い窓が開き、一番西のベイには、側室と太い扶壁の間に3重のヴシュールのアーチに囲まれて扉口が開いている。そこには彫刻装飾の類いは見られない。聖堂内部は3ベイからなる単身廊で、コーニスの上に半円形のトンネル・ヴォールトが架かり、半円形の横断アーチは五角形の角柱が受ける。2重になった半円形の勝利アーチは、やはり2重のピラスターが受ける。その柱頭部には単純な葉模様が線刻されている。後陣内部は半円形プランであるが、現在は大きな祭壇が置かれていて直接目視することはできない。北側には尖頭アーチをはさんで祭室(交差リブ・ヴォールト)が加わる。身廊部の北ならびに南にも天井(交差ヴォールト)の低い祭室が付く。最も西のベイには木製の2階席が作られている。西壁には、かつてそこに開けられていた出入口のアーチの痕跡が認められる。
※追記:サン=ボネ=ドゥ=モントルーは、2017年にラヴァル=アトジェ(アジェ)と合併して新たにサン・ボネ=ラヴァル(Saint Bonnet-
Laval)というコミューンになっている。

Trémolet de Villers(1998)p.223; RIP.




48.3.3 ラヴァル=アトジェ(アジェ)/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Laval-Atger)
 グランリューから県道D5とD988で東へ約8キロ。聖堂は、県道D988との交差点から約700メートル手前(西)に戻ったところにある障害者職業技能研修センターの敷地の中に建っており、聖堂南側は墓地となっている。正確な建築年代は不詳で、後年の改築改修の手が大きく加えられているが、扉口やモディヨンなどに12世紀ロマネスク期の面影を残している。聖堂外部は身廊の南北の壁に付けられた扶壁などを除いて、白く上塗りされている。2ベイからなる身廊部の北側の壁に2カ所(つまり各ベイに)、半円頭部の大きめのアーチが付
き、その中にやはり半円頭部の細長い開口部が開く。さらに東側に五角形の後陣が続くが、その北側の面にも開口部がある。このように聖堂北側に開口部がいくつも開く例は、ジェヴォーダンではそれほど多くはない。後陣には聖具室(19世紀)が付け加えられている。西正面ファサードは、扉口とアーキヴォルトを収める大きなアーチ(ごくわずかに尖頭形)が左右の扶壁の間にあり、大変に力強く安定していて印象的である。ファサード上部、すなわち横3連式(中央のベイが大きい)の鐘楼部分は、19世紀の再建である。ファサードの中段には半円頭部の窓が開いている。扉口の上のアーキヴォルトは、方形と円形が交互に重なる6重のアーチ(ヴシュール)からなり、左右に延びる水平のインポストをへて、四角い側柱が受ける。ただし、左右の一番外側にはそれぞれ細身の小円柱が、インポストと基壇の石の間に壁から独立して立っており(もともとは左右にそれぞれ2本ずつ円柱並んでいた)、その赤い石を用いた柱頭には左右に広がる渦巻き文様が彫られている。向かって右側のそれには渦巻きの下にアカンサス様の葉飾りも付いている。この扉口の姿は、ナスビナル[48.
2.8]、サン=サンフォリアン[48.3.1]、シラク[48.6.6]、ル・モナスティエ[48.6.9a]、そしてヴェルドゥザン[48.1.8b]のそれによく似ている。身廊から後陣にかけてはモディヨンが並ぶ。摩耗が進んでいるが、球形、花弁、人の立ち姿、人間や動物の頭、棒、俵などである。
 内部は2ベイからなる身廊に尖頭ヴォールトが架かる。身廊の南北の壁には大きな付けアーチの中に半円頭部の窓が開く。横断アーチは、人間や動物の彫刻の施された柱頭彫刻を持つ円柱が受ける。勝利アーチを支える四角い柱の柱頭部には植物文様の彫刻がある。半円形の後陣には、内部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の窓が3つ開き(ただし中央のものは塞がれている)、コーニスの上に半円ドームが載る。内陣の祭壇に
は、かつては聖堂外部にあった石の十字架が置かれている。
※追記:ラヴァル=アトジェ(アジェ)は、2017年にサン=ボネ=ドゥ=モントルーと合併して新たにサン・ボネ=ラヴァル(Saint Bonnet-
Laval)というコミューンになっている。

Chastel(1981)pp.15-18; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.288;
Trémolet de Villers(1998)pp.221-223; Verrot(1994)pp.128-129.




48.3.4a グランリュー/サン=マルタン教会(Église Saint-Martin, Grandrieu)
 グランリューは、サン=シェリー=ダプシェから東へおよそ40キロ、ランゴーニュからは直線距離で西へおよそ25キロ、ロゼール県北東部の規模の大きな村(あるいは小さな街)である。村の東側が斜面になった小高い丘の上にあり、県道D985が村の中心を貫いている。サン=マルタン教会は村の北寄りの斜面の上に建っている(県道D985が直角に曲がる角にあたるところ)。もともとはメロヴィング時代にこの地に修道院が創建されたのが始まりで、その後この地方ではかなりの勢力を誇ったようであるが、14世紀初頭には修道院は廃さ
れ、聖堂はマンド司教のマンスに所属した。司教はグランリューの城塞も所有したという。以前は墓地に囲まれていたが、20世紀に入って聖堂の前は広場に変わった。墓地は少し離れた所(西)に新たに作られた。
 まず目を引くのは、聖堂西端に建てられた、高さは低いが力強い方形(長方形平面)の鐘塔である(19世紀に改修)。この塔の南側には、円形の塔が付属する(下部に四角い入口が開く)。中世期にこの聖堂が要塞化されていた名残りである。塔は上部に半円頭部の大きな鐘楼アーチが付く。その上にさらに三角屋根を支えるモディヨンが並び、そこには人間の顔がいくつか彫刻されている。聖堂南側にはがっしりとしたポーチとその大きな扁平(下心)アーチの中に扉口がある。この扉口自体も、太い半円形アーチに囲まれている。扉口とその周囲には彫刻装飾の類は見られない。扉口から東は扶壁もなく、大きさの異なる半円頭部の細長い窓が2つ開いている。身廊と屋根の間に彫刻の施されたロマネスク期のモディヨン(軒持ち送り)が並んでいる。人間や動物らしき生き物の顔、カップ(聖杯)、十字架の付いた杖、棒、司教杖を握る手、角形の組紐文など。これは後陣部にまで続いていて、そこには人間や動物の顔が2つ並ぶもの、花弁、角形や円形の組紐文、植物の葉などが見られる。グランリューのモディヨンの彫刻は、他のところではあまり見られないモチーフが多い(特に杖を握る手や聖杯など)。後陣は六角形で、上部に丸窓が開く。
 全体的に15世紀に改築された聖堂内部は、4ベイからなる単身廊で、西側の2つのベイは12世紀にまでさかのぼれ、残りの部分は13ないし14世紀であるとされる。身廊には尖頭形のトンネル・ヴォールトが架かる。尖頭形の横断アーチは彫刻の施されたキュ・ドゥ・ランプが受ける。西から3番目と4番目のベイには南北に祭室(側室)が加えられている。3番目のベイに付けられた祭室の天井は交差リブ・ヴォールトで(人間の頭が彫刻されたキュ・ドゥ・ランプがそのリブを受ける)、身廊に対して開くアーチは尖頭形であるが、そのすぐ上に、かつての古い半円アーチが残されている。4番目のベイの南北にトランセプトのように付けられた祭室の天井は尖頭ヴォールトである。高さを感じさせる後陣は六角形で、丸窓は中央ではなく向かって右寄り(すなわち右から3番目の面)に開けられている。最も右の面には内部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の窓が開いている。後陣の天井はコーニスの上に、やはり六角形のヴォールトが架かる。後陣にアーケード(アーチ列)の類はない。
 特筆すべきは、西から4番目のベイの南側の側室に描かれた彩色画(フレスコ画)である。14世紀後半または15世紀前半、百年戦争でこの地方がイギリスに占領されていた頃のものとされ、1923年に発見された。側室の東西および南側の壁、ヴォールト、窓の隅切り部分に描かれている。ロマネスク期のものではないが、鮮やかな色使いが見る者に強い印象を与える。まずヴォールトの頭頂部に、左手に地球儀、右手で世界に祝福を与える荘厳のキリストがいる(majestas domini)。そこからキリストの左右に、葉飾りの帯を伴いヴォールトを下りる形で4人の福音書記者を表すシンボルが描かれている。すなわち、キリストの右手側には天使(マタイ)とライオン(マルコ)、左手側にはワシ(ヨハネ)と牛(ルカ)である。ただしワシについては傷みが激しくて判然としない。ライオンの下(東側の壁)には四角い枠の中に、磔刑に処せられたキリストとその両脇に立つ聖母マリアとヨハネが描かれている。また南側の壁には、聖バルテルミー(バルトロマイ)の生涯が描かれている。聖バルテルミーは、ジェヴォーダンではポピュラーな聖人であった。窓の向かって左側には、5世紀のエジプトで隠棲生活を送った聖オヌフリウスの姿も認められる。
 次で取り上げるサン=メアン礼拝堂[48.3.4b]にかつて置かれていた聖水盤が、この聖堂の西から2番目のベイの壁のニッチの中に置かれている。直径90センチで、側面にマルタ十字が彫刻されている。
Chastel(1981)pp.8-10; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.287;
Trémolet de Villers(1998)pp.226-229; Verrot(1994)pp.130-132.
 



48.3.4b グランリュー/サン=メアン礼拝堂(Chapelle Saint-Méen, Grandrieu)
 グランリューから県道D5で東へ約2キロ、村と同じ名前の「グランリュー川」沿いに建つ小さなシャペルである。1871年に再建され、1935年に改修されている。身廊はおよそ5メートル四方の箱形で、半円形プランの後陣が付く。西に扉口、北と南に半円アーチの窓、そして小さな丸窓が東の後陣に開く。内部は装飾などは見られない簡素なもので、後陣の上に半円ドームが載る。グランリュー川のこの場所は「聖メアンの泉」とも呼ばれ、古くからその水には皮膚病に効能があると言われてきた。伝説によると、その昔このあたりに棲み、通りかかる羊飼いを食い殺したという恐ろしい怪物を、聖メアンが退治したが、その際の彼の足跡がこの泉となったと言う。病人たちは、聖メアンに祈りを捧げながら、この泉に身を浸した。聖メアンは、6~7世紀の人物で、ブリタニアから北フランスに渡り、ブルターニュで修道院を創建した。サン=メアン礼拝堂のあるこの「聖メアンの泉」には、現在でも多くの人が病気治癒を願って訪れ、その水に浸り、体を洗ってゆく。そしてその際に体をふいた布や着ていた衣類を、この泉の岸に張られたロープに巻き付けて帰るのである。礼拝堂のすぐ隣の岩場には、石造りの古い「聖メアンの十字架」が立っている。十字架の頭の部分ではキリストが磔にされ、下の土台部分には細い柱に挟まれた丸い顔をした人物(子供)が立っている。また、かつてこの礼拝堂に置かれていた聖水盤は、現在はグランリューのサン=マルタン教会[48.3.4a]の中に移されている。
Trémolet de Villers(1998)p.225; RIP.




48.3.4c グランリュー/サント=コロンブ=ドゥ=モントルー教会
              (Église de Sainte-Colombe-de-Montauroux, Grandrieu )
 グランリューから東へ向かう間道(GR、自然遊歩道)を、フロランサックをへておよそ5キロのところにある集落。古いコミューンであったが、1965年に現在のグランリューに合併された。聖堂は県道D226から少し北に入ったところの墓地に建っている。聖堂全体に後の時代に改修の手が加えられていて、様式的にはゴシックである。勝利アーチとその上に載る横2連式の鐘楼から西の身廊部分と、四角い後陣部分の大きさ(高さ)が異なり、後陣の方が大きい。扉口は聖堂南側にあって、手前にせり出したポーチの中に開き、装飾のないアーキヴォルトと側柱が付いている。身廊内部は、3ベイからなり、最も西側のベイは非常に小さい(しかしその南壁には窓が開く)。身廊の天井は、ごくわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールト(白く上塗りされている)で、横断アーチは多角形のピラスター(付け柱)が受ける。後陣(内陣)は身廊部よりも高さがあ
り、交差リブ・ヴォールトが架かっている。南側の壁にゴシック様式の細長い窓が2本開いている(身廊にも半円頭部の大きな窓が開いているので堂内は明るい)。北側の壁には半円筒ヴォールトの祭室が付き、ここにも窓が開いている。なお、聖コロンブは、3世紀アウレリアヌス帝の時代に現在のサンスで殉教した聖人である。
Trémolet de Villers(1998)p.224.




48.3.5 ラ・パヌーズ/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame de La Panouse)
 グランリューから県道D985で南に約5.5キロ、さらに西へ折れて約3キロ。南向きの斜面に村が広がり、聖堂はその村の中ほどからやや東寄りのところに建つ。聖堂は斜面にあり、北側の道路から見ると、大きくていかめしい鐘壁(clocher-mur)だけが地面からいきなりそびえ立っているように見えてしまう。鐘壁(1822年に改修)は聖堂の西壁となっており、横幅が広い割に、小さめの鐘楼アーチが中央に身を寄せるように横に2つ並ぶ(現在は大きさの異なる鐘がそこに吊されている)。その上にはもう1つ小さな鐘楼が立っている。この鐘壁は、東西方向にそれぞれ飛び出た高さの異なる扶壁によって強化されている(東北の角にはない)。中央下部には丸窓が開く。鐘壁の東側には鐘楼に登るための石段とそれに寄り添うようにして斜めの扶壁が付いている。聖堂東側のきっちりと石積みされた後陣は五角形で(ロゼール北部には他にもよく見られる)、東面と南面に、半円頭部の大きな付けアーチとその中に小さめの窓が開いている(最東面の窓の頭部はゴシック様式)。後陣の軒持ち送りには彫刻の施されたロマネスク期のモディヨンが並んでいる。摩耗していて分かりづらいが、人間や動物の頭、交差する棒、渦を巻く植物の茎、花弁、扁平文、球体、ギザギサ模様など。後陣から西は、南側に半円頭部の窓が1つ付いた側室が続き、さらにその西側のベイに、ゴシック様式の尖頭アーチと細長くて繊細な柱で縁取られた扉口が開く。
 聖堂内部は、2ベイからなる単身廊形式で、コーニスの上に半円形のトンネル・ヴォールト(白く上塗りされている)が載る。西から2つめのベイの南北にそれぞれ祭室(17世紀頃)が付き、トランセプト様の形を取る。尖頭アーチをはさんで付けられた北側のそれには交差ヴォールトが架かる。南側の祭室は、扁平アーチのヴォールトである。身廊に架かる横断アーチは半円形で、壁付きの円柱が支える。その円柱および勝利アーチを受ける円柱の柱頭彫刻は、線刻風の植物の葉飾りである。円筒ヴォールトの内陣は、身廊よりも一段狭くなっており、南側に半円頭部の窓、北側に聖具室への四角い入口が開く。その内陣部よりもさらに狭くなった後陣は半円形平面で、内部に向けて広く隅切りされた半円頭部の窓が開く。コーニスの上に半円ドームが載る。内陣の中央には細くて背の高い石の十字架が置かれている。この内陣と後陣が、かつてのロマネスク期の雰囲気をよく伝える部分となっている。
 この聖堂は、11世紀のサン=ヴィクトール修道院(マルセイユ)の文書には「Panoso」と記載されてい
る。12世紀にはオーヴェルニュのラ・シェーズ=デュー修道院の所有であった。
Nougaret et Saint-Jean(1991)p.294; Trémolet de Villers(1998)pp.218-219.




48.3.6 ランゴーニュ/サン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ教会
                  (Église Saint-Gervais-et-Saint-Protais, Langogne)
 ロゼール県北東部の中核都市である。ロゼール県、そしてアルデッシュ県とオート=ロワール県の3つの県境が交わるところで、古くから交通・交易の要所として栄えた。ランゴーニュは中世初期にはミラ法管区
(viguerie de Milat)に属していた。998年にジェヴォーダン副伯のエティエンヌとその妻によってこの地に聖ペテロの名を冠した僧院が建てられ、その聖堂は聖ジェルヴェと聖プロテに捧げられた。この二人は双子の兄弟で、1世紀のネロ帝の時にミラノで殉教した聖人である。エティエンヌ夫妻とローマで面会した、時の教皇シルウェストル2世は、彼らにこの2人の聖人の聖遺物(骨)と、聖十字架の一部を与えたという。ランゴーニュのこの僧院は、その後すぐにヴレィ地方のル・モナスティエにあったサン=シャフル修道院(Abbaye Saint-Chaffre du Monastier)に属することとなった。中世期を通じて、ランゴーニュの街はこの僧院と共に活発な交易によって発展を続けた。12世紀には、僧院は円形の城壁で囲まれ、聖堂も改築された。現在ランゴーニュの旧市街に見られる環状道路と塔の遺構は、その城壁の名残である。僧院はその後、宗教戦争期に破壊されフランス革命の時に消滅した。聖堂も16世紀(特に1568年)に、プロテスタントの攻撃によってかなりの被害を受けたが、その後17~19世紀にかけて修復・改修が進められて今日に至る。
 12世紀の部分を中心にして、西ファサードをはじめ、身廊部の南北および後陣にあたる東側に、15世紀から19世紀にかけて増築・改築の手が加えられている。身廊の外部は、上部に12世紀の荒い石積みの壁面が残るが、下部には19世紀の側廊と祭室が増築されている。12世紀の壁面には南北ともに扶壁が付けられ、モディヨンが並ぶ。モディヨンの彫刻は、摩耗が進んでいてその形が判然としないものもあるが、人間、動物(らしきもの)の頭、日本の鬼瓦のように歯をむいてこちらを睨みつける恐ろしい顔、樽、球、ヒトデのような形のもの、球と棒をいろいろな形に組み合わせた不思議な文様など。南側に付けられたトランセプト様の側室はかなり大きなものである。また身廊南側の最も西のベイのそれも横に大きく張り出しており、南側壁面には大きなアーチの中に公共の水道口が引かれている。この側室部分は15~16世紀のもので、中には交差リブ・ヴォールトの架かる祭室があり、きれいに修復・上塗りされている(後述)。後陣部分は、内部は半円形の主後陣とその左右に小後陣が並んでいたのであるが、19世紀の改築によって、背の高い平面の壁が立つのみであ
り、外からは一見して聖堂の後陣部だとは分からない。開口部は主後陣のものが3つ(中央のものが大きくて縦に長い)、そして南側小後陣のものが1つ開く。すべて半円頭部の細長い窓である。北側の小後陣の上に、19世紀前半に再建された鐘塔が載る。下3分の1は四角形であるが(下部に丸窓か開く)、上部は四隅が斜めに切り取られた八角形である。東西南北の各面には小円柱に左右をはさまれた半円アーチの鐘楼が開く。鐘塔の上には一部に彫刻のあるモディヨンが並んでいる。
 西ファサードは、16世紀のものである。切り妻屋根の中央部分は、上部には大きな2重の尖頭アーチがあ
り、フランボワイアン様式のランプラージュ(remplage)で装飾された縦長の窓が並ぶ。下部は3重の扁平付けアーチの中に、ゴシック様式の扉口が開いている。3重のヴシュールと細かい装飾の施されたアコラード・アーチが扉口を囲み、その外側にはクロケット装飾付きの小尖塔(ピナクル)が付く。扉口の左右両側の壁には、背が低くて太い円柱(摩耗した柱頭付き。向かって左側のそれはライオン)が埋め込まれている。これは16世紀に改修された際に、身廊から移されたものである。さらにその外側には、増築された壁が続く。そこには左右で高さの違う厳めしいアーチが付くが、向かって右側のアーチの頭部は、もとはさらに高い位置にあった(その名残が見て取れる)。
 内部は、背の高い3廊式身廊(3ベイ)で、南北に祭室が並ぶ。西南の角の祭室の床面は、身廊部よりも低
い。かつて僧院のクロワトルとの行き来のためスペースであったとも言われる。現在その祭室(Chapelle Notre-Dame-de-Tout-Pouvoir)には、19世紀初め以来、木製の聖母子像が置かれている。また扉口を入ってすぐ右手には、ロマネスク期のものと思われる彫刻の施された泉水盤がある。身廊およびそれより低い側廊の天井には半円形のトンネル・ヴォールトが架かる。トランセプトと勝利アーチをへて東側は、方形の後陣が3つ並び、中央の主後陣には交差リブ・ヴォールト(白と黒の石が交互に組まれている)が架かり、縦長の開口部が3つ開く。その左右の小後陣は、主後陣よりも高さが低く、南側のそれの天井は交差リブ・ヴォールトである。西端のベイの上には、現在はパイプオルガンが置かれている。身廊の一番東のベイには、南側に聖堂への出入口がもう1つ開いている。
 身廊と側廊に架かる横断アーチは半円形で、それを受ける円柱の柱頭にはロマネスク期のさまざまな彫刻が施されていて、これがロゼール(ジェヴォーダン)にある聖堂の中でも、とりわけランゴーニュの名を知らしめるものとなっている。ある柱頭には、先の尖った大きな葉を背中にし、柱頭基部のネッキング(アストラガル)に両手を置いてこちらを見つめる2人の人物と、その間にアクロバットのような仕草をするやはり2人の人間がいる。重なり合うパルメットの間から、やはりこちらを見つめる動物(モンスター?)の顔もある。最後の審判を思わせる柱頭では、大きく羽根を広げ十字架を持った天使が、地獄の怪物と戦いながら小さな人間をそこから救い出そうとしているかのようにも見える。あるいは天使が天国へと向かう人間たち(子供のように小さい)の手を握って彼らを守っているような場面もある(第3ベイ北側)。さらには、これがランゴーニュで最も有名な柱頭彫刻なのだが、イスに座った裸の女性(淫乱な女)の胸に、恐ろしげに身をくねらせるウロコを持った巨大な蛇のような怪物が、左右両側から噛みついている場面もある(写真)。その怪物のすぐ隣の面には、これもまた奇妙な顔をし、恐ろしげな手足を持った怪物が大きなラッパを吹いている(第2ベイ南
側)。しかしこの怪物は、羽根のようなものを背後に広げているので、天使のようにも見える(淫乱女と蛇のテーマは、モワサックやトゥールーズでも見ることができる)。それ以外にも、顔を突き合わせるライオン、サムソンに引き裂かれるライオンや逆に人に襲いかかるライオン、翼を持つグリフィン、さまざまな植物文様や葉飾り、松ぼっくりなどを見ることができる。松ぼっくりのモチーフや最後の審判を表現する天使などの姿は古代彫刻風であるし、ライオンやグリフィンなどにはオリエントの要素を認めることができる。私たちはランゴーニュにおいて、中世の彫刻師たちの、誠に豊かなイマジネーションの世界をうかがい知ることができるのである。
Chastel(1981)pp.14-15; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.301-308; Pérouse de Montclos et Jean-Marie(1996)pp.262-264; Ribéra-Pervillé(2013)pp.103-104;
Trémolet de Villers(1998)pp.243-250;Verrot(1994)pp.26-27; GV; RIP.
 



48.3.7 フォンタンヌ/サン=ジュリアン教会(Église Saint-Julien, Fontanes)
 ランゴーニュから県道D26を、ノサック湖沿いに北西へ約8キロでD126に入り、さらに約200メートルほど北に行く。サン=ジュリアン教会は、村のほぼ中央にあり、墓地に隣接している。全体的にかなり改修されている。長方形の単身廊形式で、後陣も四角い。横2連式の鐘楼壁は南側を向いており、その下がそのままポーチとなって、その中に扉口が開く。4重のヴシュールがアーキヴォルトをなし、一番内側のヴシュールはアコーディオン様の折れ線文様で装飾されている。内側から2番目と3番目のヴシュールはインポストをはさんで左右でそれぞれ2本の細い円柱が受け、その円柱の柱頭彫刻は、下から吹き上がる植物の葉と渦巻きである。聖堂内部については、身廊は4ベイからなり、尖頭ヴォールトが架かる。横断アーチは円柱ならびにピラスターが受ける。その柱頭部には線刻による植物文様の彫刻が見られる。尖頭アーチをへて付属する側室は交差リブ・ヴォールトである。後陣は方形であるが、北側の壁には黒と赤の石が交互に組み合わされたアーチが2つ並んでいる。石積みは粗く、天井は半円筒形トンネル・ヴォールトである。




48.3.8 シャスタニエ/サン=ジャック教会(Église Saint-Jacques, Chastanier)
 ランゴーニュから県道D34で西へ10キロ。ランゴーニュのカントン(小群)に属するコミューンではある
が、農家が点在する標高約1000メートルの寒村である。サン=ジャック教会は、森が開けた少しだけ高い位置にあって、墓地に囲まれて建っている。聖堂東側の後陣部分は三角形の切妻頭部を持つ横2連式の鐘楼壁となっている。聖堂南側には扶壁と半円頭部の窓が並び、北側には祭室が付け加えられているが、開口部はない。扉口は四角形で、聖堂の南西に張り出したポーチの中にあり、仕様の異なる4重の扁平アーチ(ゴシック様
式)の奥に開いている。聖堂内部はきれいに修復されている。3ベイからなり、一番東のベイは内陣となる。西端のベイには南側に扉口が開き、その上に木製の2階席が作られている。聖堂内部の天井は白く上塗りされた半円形のトンネル・ヴォールトで、1本だけ架かる横断アーチおよび内陣西側の勝利アーチは、それを支える太い円柱も含めて赤い石で作られている。横断アーチを支える柱の柱頭には、南北ともに単純な葉飾りが彫刻されている。身廊北側の2つの小さな側室は、ともに半円筒ヴォールトである。扉口から入って正面の壁には背の低いニッチのアーチがあり、その中に、十字架の彫刻された四角い聖水盤が置かれている。この聖堂が作られたこの地の小修道院は、12世紀にはランゴーニュの僧院に(ということはヴレィ地方ル・モナスティエのサン=シャフル修道院に)属し、18世紀頃まで、その名前の通りスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を受け入れてきた。17世紀には2名の修道士がいたと伝えられる。
Chastel(1981)p.7; Trémolet de Villers(1998)pp.232-233.




48.3.9 ロクル教会(Église de Rocles)
 ランゴーニュから県道D34で西へ約6キロ。県道からさらに500メートルほど南に入る。シャスタニエと同様に、この地にあった小修道院は、12世紀にはランゴーニュのサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ修道院に属していた。現在の聖堂は1897年に再建されたものである。3ベイからなる身廊に五角形の後陣(内部は半円形平面)が続く。身廊の南北にはトランセプト様の祭室が付く。聖堂の西は鐘楼壁となっていて、上部は三角形切妻の頭頂部を持つ横3連式の鐘楼である。聖堂内部は身廊に半円形のトンネル・ヴォールトが架かり、半円形の横断アーチを円柱が受ける。その円柱の柱頭部分が、再建される以前の古いロマネスク期の聖堂のもので、動物や線刻による植物文様が見られる。筆者が訪れたときには内部は見学不可であった。
Trémolet de Villers(1998)p.233.




48.3.10 サン=フルール=ドゥ=メルコワール教会(Église de Saint-Flour-de-Mercoire)
 ランゴーニュから国道N88を南へ約4キロ、県道D71を南に折れて約1キロでサン=フルール=ドゥ=メルコワールの村であるが、聖堂は村の中心からさらに東へ約200メートルのところにあり、道路を隔てて墓地に隣接している。かつてはこの地からさらに13キロほど南のメルコワールの森の中にあったシトー派修道院に属していた( Cheylard-l'Évêque[48.3.11a])。「メルコワール」の名は、古代神話の「メルキュール」(メルクリウス)と関連する。旅人と商人の守護神である。
 この聖堂の西端には、横2連式でその上に小さな鐘楼アーチが1つ加わる鐘楼壁(三角形の頭頂を持つ)が、中心からは南寄りに建てられている。鐘楼はもともと内陣と身廊の間の勝利アーチの上にあったが、1793年に破壊され、聖堂西端に移された。鐘壁の西側には、現在は村役場(メリー)が直接連続して建っている。聖堂南側にはポーチが付き、その中に3重のシンプルなヴシュールの載る扉口が開く。ヴシュールはインポストをへて四角い側柱が受ける。かつて左右あった円柱は今はない。向かって左側の側柱の内側の面に、摩耗しているが人型らしき彫刻の付けられた十字架が埋め込まれている。聖堂の敷地の入口からこの扉口まで、踏み石がずらりと並べられているが、これらの踏み石は、なんと18世紀から19世紀の墓石である。人はこれらの墓石を踏みしめながら聖堂に入ってゆくのである(表面は踏まれて摩耗している)。ポーチの東隣は小さめの側室で、半円頭部の窓が開いている。この窓の枠を形作る石には繊細な線刻装飾がつけられ、その上にこの聖堂が改修された1828年の銘板が埋め込まれている。側室は聖堂の北面にも付けられているが、後陣北側には斜め屋根のひときわ大きな聖具室が増築されている。その聖具室が加えられることで、後陣側からの聖堂の姿が安定的に見える。五角形の後陣には南側にのみ扶壁が付けられている。また後陣の最東面には半円頭部の細長くて狭い窓が開けられている。後陣南面の窓はやはり半円頭部であるが最東面のそれよりも大きい。身廊ならびに後陣にはモディヨンなどの彫刻装飾は見られない。
 聖堂内部は2ベイからなる単身廊形式で、その東に後陣(内陣)が続く。身廊の天井は、わずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトである。横断アーチは方形のピラスターが受ける。身廊のベイの南北には半円形の大きなアーチが並ぶ(西端の1番目はニッチ、2番目は側室が開く)。勝利アーチの東側の内陣は、身廊部よりも少し幅が狭く、後陣はさらに狭くなる。後陣内部の基壇部分は五角形であるが、その上は半円形の平面プランとなり、さらにコーニスの上に半円形ドームが載る。
 なお、サン=フルール=ドゥ=メルコワールのコミューンには、ラングイルー川をはさんで東側のレ・ショワジネ(Les Choisinets)地区に、半ば打ち捨てられた聖堂が残っている。建設されたのは19世紀半ばで、ロマネスクというわけではないけれども、廃墟となった大きな建物や塔などとともに、メルコワールの森の中にひっそりと残っている。中世期ランドン男爵領であったこの地には封建時代の城塞や館があったが、フランス革命ののちに解体されてしまった。19世紀になって、ここに大きな孤児院(orphelinat)が作られた。そして1863年から1867年にかけて、孤児院付属の大きな聖堂が建設された。南を向いたファサードには方形の鐘塔が左右に立ち、その間に上から三角形の切り妻の載る横3連式の鐘楼、中ほどには2段からなるアーケード層、一番下には半円アーチの架かる扉口が開いている。内部は4ベイからなる身廊に半円形プランの後陣が続く。横断アーチを受ける円柱の柱頭には、ロマネスク風の植物文様や動物の頭などの彫刻が施されている。1904年と1926年に大きな火災が起きて孤児院の建物は破壊され、聖堂も放棄されて今日に至っている。内部が焼け落ちて残った孤児院の壁には空虚な窓が並び、ひときわ目を引く三角切り妻破風の小さなタンパンが、メルコワールの青い空を背にしてポツンと壁の上に載っている。現在は、地元のル・ショワジネ協会が資金を集めながら、修復・保存活動を行っている。
Chastel(1981)p.27; Trémolet de Villers(1998)pp.233-234;
http://www.choisinait.fr/(2015年11月1日アクセス)




48.3.11 シェイラール=レヴェック教会(Église de Cheylard-l'Évêque)
 ランゴーニュから県道D71でサン=フルール=ドゥ=メルコワールをへて南へおよそ14キロ。聖堂は村の中心の道の交わる小さな広場に面して建っている。聖堂のファサードは横2連式の鐘楼の下に、丸窓をへて半円アーチのかかる扉口が開いている。内部は木製の切妻屋根が載る単身廊形式で、一番奥の内陣には、南北に側室が付けられている。後陣(聖堂東壁)は四角形である。この聖堂は建物全体が後年に再建されたもので、ロマネスク期のものではない。ただし、ファサードの上に載っている鐘楼が12世紀のもので、メルコワールのシトー派女子修道院(Ancienne Abbaye de Mercoire)から移されたものだと言われている。その修道院は、ここからさらに約4キロ南にいったところにあったが、宗教戦争で被害を受け、さらにその後の火災によって古い建物の大半は失われてしまった。新しい建物が再建されたが、それもフランス革命以後は売却に付されてしまった。現在は建物全体が個人(農家)所有となっており、敷地への立ち入りが許されておらず、見学することはできない(わずかに残る古い聖堂の遺構は、身廊が半円形のトンネル・ヴォールトで、横断アーチが架かる)。
 なお、1878年9月25日、1頭のロバとともにこの地方を徒歩で旅したスコットランドの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンが、このシェイラール=レヴェックの村に立ち寄っている。彼の旅行記『旅はロバをつれて』(Travels with a Donkey in the Cévennes,1879.)によれば、この村の教会は「小さくて今にも倒れそうな教会」であったという。
Morel(2007)p.95; Robert(1981)pp.45-52; Stevenson(1960)p.129;
Trémolet de Villers(1998)p.234.




48.3.12 リュック/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Luc)
 オーヴェルニュからラングドックへと通じる古くからの道は「レゴルダヌの道」(chemin de Régor-
dane)と呼ばれ、古代から中世にかけて、ル・ピュイからサン=ジルまでを往き来する旅人・商人・巡礼たちがこの道を通った。リュックは、ランゴーニュから県道D906で南へ約13キロ、アリエ川沿いの南北に長い村であり、かつての「レゴルダヌの道」に沿っている。サン=ピエール教会はその村の南の地区にある。さらにその200メートル南には村の墓地がある。聖堂は横幅のある西ファサードが鐘楼壁(1306年)となる。横2連式のアーケードの上に頭頂部が三角形の小さな鐘楼が1つ載る。丸窓をへて、身廊側の地上面から数段の階段を下りたところに扉口が開く。扉口の上には2重のヴシュールのアーチが載り、インポストをはさんで四角い角柱がそれを受ける。また、ファサードの向かって左側には鐘楼に登るための長い石段が斜めに付いてい
る。聖堂の外部は、身廊部南側に太い扶壁(付け柱)が4本つき、その扶壁の間の各ベイには、外に向けて大きく隅切りされた半円頭部の大きさの異なる窓が、上下2段になって開けられている。後陣は五角形である
が、南東の側に大きな聖具室、北側に祭室が増築されているために、極めて不規則な形に見えてしまう。その後陣には南面、最東面、北東面にそれぞれ半円頭部の窓が開くが、そのうち後者2つの窓は、半円アーチとそれを左右で支える小円柱に囲まれており(一部は赤い花崗岩)、その小円柱には、パルメットや組紐文、渦巻きになった植物の茎、たわわに下がる植物の実などのロマネスク様式の柱頭彫刻が付いている。
 聖堂内部は3ベイからなる単身廊であるが、19世紀に改築されたものである。西端の2階席から南北両側にかけて、円柱に支えられたトリビューン(アーケードは石造り、床と手摺りは木製)が南北に付いているの
で、3廊式であると見ることもできる。天井は尖頭ヴォールトである。身廊南壁に開いている開口部は、外側だけでなく内側にも大きく隅切りされている。北側のそれはニッチである。尖頭形の勝利アーチから東のロマネスク期の後陣(内陣)は、身廊部よりも高さが低く幅も狭く、半円形平面で、赤い花崗岩の半円アーチのアーケードが4つ並んでいる(最南面は隅切りされた窓である)。4つのアーチを支える小円柱の柱頭には、吹き上がる植物、松ぼっくり、人面などが彫刻されている。後陣の天井には半円ドームが載る。後陣北側に付けられた祭室には、人面彫刻のキュ・ドゥ・ランプが受ける交差リブ・ヴォールトが架かっている。
 リュックの村のすぐ西の山の中腹には、中世期ランドン男爵領に属した城塞の遺構が残っている。その後、一時ポリニヤック家の所有となるが、百年戦争の時代には傭兵団に占拠されるなどした。17世紀になってリシュリューの命により破壊された。大きくて白い聖母マリア像がその上に立つ方形の塔は13世紀のものである。
Chastel(1981)pp.19-22; Pérouse de Montclos et Jean-Marie(1996)p.279;
Trémolet de Villers(1998)pp.251-252; RIP.




48.3.13 サン=ジャン=ラ=フイユーズ教会(Église de Saint-Jean-la-Fouillouse)
 シャトーヌフ=ドゥ=ランドンから県道D988とD34を北へおよそ9キロ、いくつかの農家が点在する散村であるが、聖堂はその南端に墓地に囲まれて建っている。西側が住宅に直接接続しており、その住宅は聖堂の南側にも張り出しているので、その張り出した建物のすぐ東隣がポーチとなる。ポーチの向かって左側の張り出した壁には、ゴシック様式の尖頭形アーチ(ニッチ)が2つ並んでいる。ポーチは身廊のベイ1つ分ある大きさで、そこに付けられた大きな半円アーチの中に、さらに3重のヴシュールが重なり、インポストをへて四角い側柱に下りていく。扉口の上に開く小さなタンパンのガラス窓の上、すなわち最も内側のヴシュールのさらに最も内側の円弧部分に、球形の彫刻が7つ並べられている。ポーチ上部の軒持ち送りには彫刻の施されたモディヨンが並ぶ。人間の顔らしきものが3つ認められるが、摩耗が進んでおり、判然としない。ポーチの東側には窓が1つだけ開いた狭いベイが続き、そのベイと後陣の間に鐘塔が立つ。半円頭部の大きなベイが並ぶ横3連式の鐘楼(1829年)が載り、さらに一番上にはごく小さな鐘楼が1つ立つ。この鐘塔は、そこに登るための階段が中に収められた小塔のような建物がすぐ西側に直接付いているので、鐘塔自体があたかも方形の塔のように見える。鐘塔から東の後陣部には、南北に祭室と聖具室がトランセプトのように付け加えられている(北側の聖具室が後陣の東端部分まで延びていてとても大きい)。後陣自体は五角形で南面と東面に半円頭部の開口部が開く。また後陣の軒持ち送りにはモディヨンの彫刻が並んでいる。球形、円盤、横棒、植物の葉や実、丸い人面、人間とは思えない不思議な顔など。これらもかなり摩耗が進んでいる。
 聖堂内部は、大きさの異なる3つのベイからなる単身廊で、勝利アーチから東に後陣が続く。身廊部の天井はほんのわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトで、尖頭形の横断アーチが架かる。この横断アーチのうち西側のものは四角くて太いピラスターが受けるが、その四角い柱頭部には、パルメットが連続するロマネスク期の帯彫刻がある。とりわけ北側の柱頭部には、パルメットの帯の上に、魚が彫られているのが見える(魚はキリストを表す)。第1ベイには、扉口の上に木製の2階席が作られている。第2ベイには南側に内部に向けて隅切りされた半円形開口部、そして北側には尖頭形頭部の付けアーチ(ニッチ)がある。鐘塔が載る横断アーチは尖頭形で、円柱のピラスターがそれを受ける。その東のベイには、南北に半円アーチを介して、トランセプト様に祭室が付けられている。南北両方とも天井は交差リブ・ヴォールトで支えられている。勝利アーチは尖頭形で、後陣(内陣)の天井に架かる放射状のリブを含めて、これらはキュ・ドゥ・ランプが受ける(ただし、鐘塔が載るアーチ、すなわち西から2番目のベイとトランセプトの交差部の間に架かる太くて四角い石を組んだ横断アーチを勝利アーチと見ることも可能かも知れない。そうすると、その勝利アーチから東が交差部も含めて内陣ということになる)。6本のリブが架かる後陣は5面からなり、各面の壁はまっすぐ立ち上がるがわずかな尖頭アーチを形作って、それぞれがリブに挟まれたヴォールトに連続している。中央および南面には半円頭部の窓が開き、光を採り入れている。
 サン=ジャン=ラ=フイユーズには13世紀後半に小修道院が作られた。その頃の修道士には、マンドの司教座聖堂助祭であったギヨーム・ドゥ・ランドンの名も見える。
Chastel(1981)pp.27-30; Debroas(1996)pp.31-33; Trémolet de Villers(1998)p.238.




48.3.14 ピエールフィッシュ/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Pierrefiche)
 シャトーヌフ=ドゥ=ランドンから県道D988を北へ約9キロ、ランゴーニュからは国道N88で南西へ約14キロである(ショディヤックの手前で北に向かう)。ピエールフィッシュという名前は、この地方に点在する巨石を思い浮かべさせるものである。中世期にはイェルサレムの聖ヨハネ病院騎士修道会に属する小修道院があった。聖堂はD988に沿って建っている。かなり後の時代の改修と改築の手が加えられている。尖塔が載りその下が3層からなる方形の鐘塔(1890年)が聖堂の西端に立つ。ロマネスク様式の扉口は聖堂南壁の中央に開いている。一番外側のアーチも含めて5重のヴシュールから構成される大きなアーキヴォルトが目を引く。内側から4番目の細くて丸いヴシュールには、頭頂部と左右の下端に、人間の頭部の彫刻が付けられている。また内側から2番目と3番目のヴシュールをインポストをはさんで左右で受ける円柱には、柱頭彫刻が残ってい
る。特に、向かって左の内側の柱頭には、枝を広げたような樹木が彫刻され、そこには小鳥がとまっている。また向かって右の内側の柱頭には、2人の人物が立っており、この2人の人物のうち、手前(右側)にいる裾が長い衣服を着た人物の頭には、ヘビのようなものが渦(とぐろ)を巻きながら絡みついている。あるいはこの2人はアダムとイヴで、ヘビはイヴの耳元でささやきかけているようにも見える。
 この扉口から東には少し手前に張り出した側室をへて、最も東側に五角形の後陣が続く。身廊から後陣にかけて、上部(ロマネスク期以降に付けられたもの)には半円形の小さな開口部が並んでいる。後陣には東面と南面に窓が開いている。東面(中央面)の窓は半円頭部の細長いもので、半円形の付けアーチの中に開いている。後陣の北側には、大きな側室(祭室と聖具室を含む)が付けられていて、サン=ジャン=ラ=フイユーズ
[48.3.13]と同じような外観となっている。
 聖堂内部は、筆者の訪問時には見学不可であった。文献によれば、3ベイからなる身廊に尖頭ヴォールトが載る。横断アーチはピラスターが受け、そこには葉飾りの柱頭彫刻が付いている。身廊の南北には祭室が付く(南側祭室には交差リブ・ヴォールトが架かる)。勝利アーチから東には、身廊部より狭い半円形平面の後陣が続き、コーニスの上に半円ドームが架かる。また堂内にはマルタ十字が彫刻された聖水盤が置かれている。これはこの聖堂が、もとは聖ヨハネ病院騎士修道会に属するものであったことを思い起こさせるものである。
Debroas(1996)pp.27-29; Trémolet de Villers(1998)pp.238-239.




48.3.15 ショディヤック/サン=マルタン教会(Église Saint-Martin, Chaudeyrac)
 国道N88によって結ばれるランゴーニュとシャトーヌフ=ドゥ=ランドンの間にあり、ランゴーニュからは南西へ11キロ、シャトーヌフ=ドゥ=ランドンからは北東へ7キロである。ショディヤックの村は国道の少し南側にあり、聖堂は村の中心となる広場に面して建っている。12世紀にこの地にあった小修道院は、マンドの司教座参事会の所有するところであった。ローマ教皇カリストゥス2世(在位1119-1124)の書簡の中にその名が見える。
 聖堂は、身廊の南北両側に側室が増築され、さらに横幅のある鐘塔が付けられているために、特に後陣側から見ると、とても安定感のある印象を与える。後陣は五角形である。中央の面には上部に小さな丸窓、さらにその両側の面にはそれぞれゴシック様式の尖頭形頭部を持つ縦長の窓が開いている。一番南側の面には半円頭部の窓が開く。聖堂西側は、量塊感のある鐘楼壁で、南側に五角形の塔が付属する。また分厚い鐘壁の上に建つ鐘楼は上下2段構えで、下段には横3連式の鐘楼アーチが並び、上段には尖塔を載せた小さな方形の鐘塔が左右にぞれぞれ1つずつ、さらに中央に横2連式の鐘楼が建つ。上段の鐘楼アーチはすべてニッチであり、しかもこの上段の鐘楼部分は近代に再建されたものである。東側にバットレスのような支え柱が付いている。西端の鐘楼壁のすぐ東側の南壁には5重の尖頭形アーキヴォルト(一番外側の枠アーチも含めると6重)と、それを受ける側柱(方形ならびに円柱)に囲まれた扉口が開く。アーキヴォルトの内側から3番目、4番目、5番目のヴシュールの尖頭形の頭頂部には人間の顔の彫刻が付く。また4番目のヴシュールの外側の枠アーチには球形の彫刻が並んでいる。ヴシュールを受ける細い円柱は扉口の左右にそれぞれ3本ずつ並んでおり、その柱頭に
は、植物の葉、花弁、3つ並ぶ人間の顔などが彫刻されている。人間の顔が彫られた柱頭は、扉口の左右の両方に見られる。これらの円柱は、縦長の方形基壇石の上に載っている。この扉口はロマネスク期のものであ
る。
 聖堂内部は、きれいに改修されていて、壁面は白く上塗りされている。身廊は2ベイからなり(内陣部も含めると3ベイ)、尖頭形のトンネル・ヴォールトが載る。横断アーチも尖頭形で、四角いピラスター(壁付き柱)がそれを受ける。西から2番目のベイ以外にはヴォールトの下にコーニスがある。身廊の南北には尖頭アーチをへて祭室が並ぶ(北は3つ、南は2つ)。洗礼盤が置いてある北西角の祭室を除いて、すべて交差リブ・ヴォールトで、キュ・ドゥ・ランプがリブを受ける。五角形の後陣には、放射状に4本のリブが架かり、やはりキュ・ドゥ・ランプが受ける。身廊の西端には木製の2階席が設けられている。
Debroas(1996)pp.14-15; Trémolet de Villers(1998)pp.234-236; RIP.




48.3.16 アルザンク=ドゥ=ランドン/サン=ジャック教会
                      (Église Saint-Jacques, Arzenc-de-Randon)

 アルザンク=ドゥ=ランドンは、シャトーヌフ=ドゥ=ランドン(Châteauneuf-de-Randon)のすぐ北(県道D3で約5キロ)にあり、県道から少しだけ小山の中腹に登ったところに広がるコミューンである。アルザンクとは、古くは「川の流れ」を意味していた。サン=ジャック教会は、村のほぼ中ほどにあって墓地に囲まれている。この地にあった小修道院は、もともとはラ・シェーズ=デューのベネディクト派修道士たちによって建設されたが、中世期にはマンドの司教座聖堂参事会の管理下に置かれていた。またこの聖堂は17世紀まではサン=クリストフ教会と呼ばれていた(聖クリストフは、旅人の守護聖人である)。オーヴェルニュ地方のロマネスク様式の影響が色濃いと言われるが、時代とともに改修・改築の手が加えられており、それは20世紀に入っても同様に進められてきた。
 まず目を引くのは、後陣北東部に建つ方形の鐘塔(1821年)である。最上部には尖塔が載り、その下には4面すべてに半円頭部で縦長の鐘楼アーチが開く(現在鐘が吊されているのは東面のみ)。後陣は五角形で、中央(最東部)の面と、1つあけて南北の面にそれぞれ、外部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の窓が開いている。その意匠は、きっちりとした石組みであり、ロマネスク期の雰囲気をよく伝えている。西壁は、三角形の切妻屋根の下に、半円頭部の小さな窓と、下部に四角い出入口が開いている。向かって右側には太いピラスター(扶壁)が付けられているが、左側にはない。同様のがっしりとした扶壁は聖堂の南北の壁にも付けられている。またトランセプト様の祭室が南北それぞれに増築されている。南側には扶壁にはさまれた中央のベイに、わずかに尖頭形となった3重のヴシュールからなるアーキヴォルトと、それを受ける3重の側柱に囲まれて扉口が開いている。後陣ならびに身廊の南北の軒持ち送りにはモディヨンが並ぶが、身廊南側のモディヨンのいくつかに球体のような人間の頭の彫刻が付けられている。
 聖堂内部は、最も古い内陣部を含めて全部で4ベイからなる。コーニスから上の天井はわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトで、尖頭形の横断アーチが架かる。横断アーチを受ける円柱の柱頭には、単純なアカンサスの葉飾りが彫刻されている(花弁飾りの付くものもある)。最も西のベイには6段の階段がついていて、身廊と西壁の出入口の間に高低差がある。木製の2階席は、現在は設けられていない。西から3番目のベイの南北に付けられた祭室(19世紀)には、身廊の壁体の厚さの分だけ外側に奥まったところに交差リブ・ヴォールトが架かる。これらの祭室が開く身廊壁のアーチは大きな半円形である(一番西のベイの南北にある壁付きアーチも同じ)。西から4番目のベイ(すなわち内陣のベイ)の南北には、大きな付けアーチに奥行きを少しもたせたかのような狭い側室(あるいはスペースのある壁付きアーチ)が付く。ただしこの側室のアーチは尖頭形となっている。後陣内部は五角形で、コーニスを経て5面からなるヴォールトが載っている。リブは見られない。後陣壁の5面のうち3面に、外部に向けてと同時に内部に向けて隅切りされた半円頭部の窓が開いている。内陣の左右両側には、古くて丸い石の聖水盤が1つずつ置かれている。
 なお、シャトーヌフ=ドゥ=ランドンには、17世紀まで古いロマネスク期のサン=テティエンヌ教会が残っていたが、崩落の危険があるため完全に取り壊されてしまった。現在そこにある聖堂は、19世紀に再建された新しいものである。中世以来ランドンを支配するために建設された城塞の塔の遺構(Tour des Anglais)
が、村の北のはずれに今も残っている。
Debroas(1996)pp.6-13; Trémolet de Villers(1998)p.237; RIP.




参考文献と略記号
Chastel, Rémy(1981):Églises de Lozère. Art et Tourisme.
Debroas, B.(1996):Canton de Châteauneuf-de-Randon, un patrimoine à découvrir.
     Imprimerie MSA.
Morel, Jacques(2007):Guide des Abbayes et Prieurés. Languedoc-Roussillon. Autre Vue.
Nougaret, Jean et Saint-Jean, Robert(1991):Vivarais Gévaudan Romans. Zodiaque.
Pérouse de Montclos, Jean-Marie(1996):Languedoc-Roussillon, Le Guide du patrimoine.
     Hachette.
Ribéra-Pervillé, Claude(2013):Chemins de l'art roman en Languedoc-Roussillon. Ouest-France.
Robert, P. A.(1981):« L'abbaye de Mercoire,ses antecedents, son histoire » in Revue du
     Gevaudan
, pp.45-52.
Stevenson, Robert Louis(1960):An Inland Voyage, Travels with a Donkey, The Silverado
     Squatters. J. M. Dent & Sons. London.
Trémolet de Villers, Anne(1998):Églises Romanes oubliées du Gévaudan. Les Presses du
     Languedoc.
Verrot, Michel(1994):Églises rurales & Décors peints en Lozère. La Régordane.
RIP:Renseignements ou Informations sur Place.
GV:Guides de Visite.

WEBサイト
http://www.choisinait.fr/(2015年11月1日アクセス)