東海大学紀要(文学部)第105号(2016年9月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである。2021.8.20)

南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(1)
Les églises romanes dans la Lozère:les cantons de Villefort et du Bleymard.

                  中川 久嗣


 本稿では、前稿(「南フランス・ロゼール県北部の中世ロマネスク聖堂(2)」)に引き続き、ロゼール県の中部に点在する中世ロマネスク聖堂を取り上げる。具体的には、ロゼール県中部の東寄りの、ヴィルフォール(Villefort)、ル・ブレイマール(Le Bleymard)といった小郡(canton)にあたる地域を扱う。地形的には、ロゼール県北部のペイル(ペル)からランドンに至る地域が、標高1000メートルから1200メートルのなだらかな高原地帯であるのに対して、この地域はロー川(Lot)やアルティエ川(Altier)が穿つ渓谷によっ
て、地形の起伏が目立つ。とりわけ東のヴィルフォール周辺は、ガール県北部やアルデッシュ県南部(いわゆるセヴェンヌやヴィヴァレー)の険しい山岳地帯にも連なる渓谷が続き、ロゼールの北部とはかなり異なる様相を見せる。
 この地域には古代からガバル族(les Gabales)と呼ばれるガリア人が住んでいた。彼らの名は、3世紀にこの地で殉教したとされる聖プリヴァ(Saint-Privat)の伝説と結びあわされている。この地域は、中世期には「ジェヴォーダン」(Gévaudan)を支配した8つのバロニー(男爵領※)のうちの1つである「トゥルネル男爵領」(baronnie du Tournel)におおよそ相当する。トゥルネル家は、かつてはこの地に強力な支配権を持ち、マンド司教も輩出するほどの勢力を誇っていた。
 ヴィルフォールからル・ブレイマールにかけての聖堂の多くは、中世期にはサン=ジル修道院(Abbaye de Saint-Gilles, Gard)に属していた。建築的には、この地方の聖堂はロゼール県の他の場所と同じく概して小規模-中規模で、多少とも後の時代の改修・改築の手が加えられているものが多く、単身廊形式、南北に付けられた小さめの祭室、複数個の鐘が横に並ぶ鐘楼(鐘楼壁)、多角形の後陣、身廊や後陣の上部に並ぶモディヨ
ン、ヴシゥールを伴って南側に開く扉口、などといった特徴が見られる。特に共通するのは、後陣内部および外部に見られるアーケードに施された柱頭彫刻の様式、聖堂内部のとりわけ凱旋アーチ(勝利門アーチ)や交差部周辺に見られるアーチや円柱の仕様、そしてそこに施された柱頭彫刻、身廊の側壁に見られる半円形の壁アーチなどである。数は少ないが「三つ葉」形の平面プランを共有するものもある。
 本稿で取り扱う聖堂は、前稿と同じく「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11-12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク期」を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれる。
 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、おおよそ小郡(canton)ごとにまとめた大まかな地域、そして自治体であるコミューン(commune)の順で番号を付し
た。同一のコミューンに複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した
(コミューンは2016年時点のものである。その後、合併などによって変わっているものもある)。
 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」あるいは「礼拝堂」を用いた。個々の地名や聖堂の名称については、現地の慣用のものを採用した。
 採りあげる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし私有地であったりアクセス困難な場所にあるなどの理由で訪問出来なかった聖堂には▲を記した。写真画像は筆者の撮影による。誌面の都合ですべての聖堂の写真画像をここに掲載することはできない。それらは筆者開設のウェブページ
(http://nn-provence.com)で閲覧可能である。

※ « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。


48.4 VillefortならびにLe Bleymard周辺

48.4.1 ラ・バスティード=ピュイローラン/ピュイローランのサン=ローラン教会
            (Église Saint-Laurent de Puylaurent, La Bastide-Puylaurent)
 ピュイローランは、プレヴァンシエール(Prévenchères)からシャスラデス(Chasseradès)へ向かって細い間道を約5キロ。かつては教区の中心集落であったが、20世紀にラ・バスティードと合併。今は、ダムで堰き止められたシャスザック川のほとりに十数軒の農家が集まるだけの、標高約1000メートルにある静かな小村である。サン=ローラン教会は、集落の南端にあり、村の墓地教会でもある。聖堂の西側には住宅が隣接している。最初に建築されたのは12世紀のことで、プレヴァンシエールの修道院とともにサン=ジル修道院
(Abbaye de Saint-Gilles)に属していた。建物全体の大きさはプレヴァンシエールより小さいし、装飾の類も少ないが、それでも様式的には多くの共通点を持っている。

 この小ぶりな聖堂において、訪れる者にとりわけ美しい印象を与えるのは、東側の後陣側から見た光景であろう。半円形平面の後陣の壁は花崗岩の荒い石積みで、いかにも歴史の古さを感じさせる(後陣の曲面部は半円形であるが、東西に長く延びる)。そしてこれもまた古さを感じさせる円柱と、その上に架かる半円形の6つの壁付アーチのアーケードが並ぶ。円柱の間隔が広めなので、後陣自体の高さが低いこともあってアーチが大きく見える。その円柱の柱頭彫刻は、後陣内部につけられたアーケードを支える円柱のそれと同じモチーフで装飾されている。すなわち、下から上に広がる茎状の植物、丸い実をつけた植物など。一番南側のそれ
は、かなり摩耗していて判然としないが、人物らしき立ち姿が2つ並んでいるように見える。また最も北側のそれは、人間にとぐろを巻いた蛇がからみついているように見える。いわゆる「淫乱の女と蛇」のモチーフ
で、同様のものはランゴーニュのサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ教会[48.3.6]内部の柱頭彫刻に見られる。後陣の南側3つのアーチの内側には扁平アーチの頭部を持つ大きめの開口部が開く。一番東側の開口部は小さな縦長の方形である。後陣の最も南側および北側のアーチは、他のアーチよりも小さいが、とりわけ南側のそれはアーチの頭頂部の高さも低い。この部分には、かつては聖具室が増築されていたが、20世紀になって取り払われた。聖堂南側には、中央(後陣と扉口の間のベイ)に祭室(縦長の細い窓が開く)が増築されている。聖堂と隣の住宅の間には三角形頭部で横2連式の鐘楼が立つが、これは近代以降のもの。また聖堂北側から見ると、一見して身廊の西側部分にやはり後の時代の増築があるように見えるけれども、これは聖堂部分に建てられたものではなく、それにつながる住宅のものである(鐘楼より西にあたる)。聖堂南側に開く扉口はシンプルで美しい。3重の半円形ヴシュールがそのまま側柱となって地上まで降りる。ヴシュールに装飾は見られない。しかし聖堂の他の部分と異なって、この扉口は大きめの四角い石材による石積みなので、シンプルであると同時に力強さをも感じさせる(扉口の向かって左側部分も同様である)。

 聖堂内部は2ベイからなる単身廊に半円形後陣が続き、西から2番目のベイの南側に後代の祭室(天井は低
く、交差ヴォールトが架かる)がつく。身廊の天井はわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトで、五角形のピラストル(付け柱)が方形のインポストを介して横断アーチを受ける。このピラストルは、もともとは円柱であったと思われる。身廊南側の壁は扉口と祭室が開く大きなアーチとなっているが、同様に身廊北側の壁には2つのベイそれぞれにニッチの大きな壁アーチが付いている。二重になった勝利アーチはわずかに尖頭形で、横幅もある。内側のアーチは、南北それぞれにおいて2本で1組となった円柱が冠板と柱頭を介して受ける。この円柱は、ピラストルとなって床まで降りてゆく外側のアーチからは独立して付けられている。円柱の柱頭彫刻は下から上に広がるアカンサス風の葉模様である。北側の柱頭の上には、上下逆さまになった小さな三角形がつらなる太い線装飾の施された冠板が載る。それに対して南側のものは、冠板自体は無装飾である
が、円柱の柱頭部それ自体が、アカンサス風の葉飾りの上に、小さな茎模様が横に並ぶ冠板様の装飾帯がつくというものになっている。
 勝利アーチ(凱旋アーチ)から東の後陣内部は、身廊よりも幅が狭く、半円形の平面の上に半ドーム(cul-
de-four)が載る。そのドームの下には、コーニスなしに6つの半円アーチが連なるアーケードとなる。それぞれのアーチは柱頭彫刻を介して細い円柱が受ける。それらの柱頭彫刻は、下から上に広がる厚さのあるアカンサス風の葉飾り、V字に葉を広げる植物、丸い実をつけた植物、そして太い編紐文様である。これらの柱頭彫刻は、プレヴァンシェール(Prévenchères[48.4.2a])やラ・ガルド=ゲラン(La Garde-Guérin[48.4.
2b])のそれと類似しているとも言われる。聖堂内部は、最近の修復によって白く上塗りされているが、身廊北側の西から2番目のベイのヴォールト部分と、後陣上部のドームの一部にフレスコ画の断片が残されてい。後陣のそれは青色を主体とした壁画で、植物の絵が描かれているが、それ以外についてはモチーフなどはまったく判然としない。近代以降に増築された身廊南側の祭室のヴォールトにも同様に青い壁画の残滓が見られるので、この聖堂の壁画が描かれたのも、やはり近代以降のことであると推測される。
 サン=ローラン教会は、隣接する司祭の住居(presbytère)とともにかなり荒廃していた(特に司祭館の方は完全に崩れてしまっていた)が、1970年頃から地元住民や自治体、各種文化財保護団体などの援助のもとで修復作業が進められている。
Chastel(1981) p.26; Morel(2007)pp.90-91; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.285;
Trémolet de Villers(1998)pp.268-270; RIP.
 



48.4.2a プレヴァンシェール/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Prévenchères)
 ヴィルフォール(Villefort)から県道D906で北へ14キロ。アリエ川と並んで通る古くからの「レゴルダヌの道」(chemin de Régordane)沿いに位置する。サン=ピエール教会は村のほぼ中央にある。11世紀ないし12世紀に建設されたもので、16世紀までサン=ジル修道院傘下の小修道院の付属聖堂であった。サン=ジルがこの小修道院を所有することを認めた教皇カリストゥス2世による1119年の勅書が、史料における初出である(Sancti Petri de Prevencheriis cum villa)。宗教戦争に際しては、この地でプロテスタントによって11名の修道士が殺され、聖堂も火災の被害に遭っている(1570年)。焼け落ちた身廊などが再建されたの
は、17世紀に入ってからのことであった。その後は、「レゴルダヌの道」に沿って猛威をふるったペストも、フランス革命の嵐も、ここプレヴァンシェールにはさほど被害をもたらさなかった(ただし革命によって多くの所有地を失っている)。
 この聖堂は、もともとは3ベイからなる身廊に半円形の後陣、そしてやはり半円形のトランセプト(翼廊)が南北につく、いわゆる「三つ葉」形の平面プランであったが、北側のトランセプトが失われ、15世紀に方形のものに置き換えられてしまった(この方形のトランセプトはさらに後の時代に建てられた建物のために外からは見えない)。こうした「三つ葉」タイプのものはジェヴォーダン(ロゼール)では珍しく、アラン
(Allenc[48.4.13])とラヴァル=デュ=タルン(Laval-du-Tarn[48.6.20])で見られるだけである。身廊は16世紀に天井が焼け落ちた後に再建されたが、オリジナルのものより高さが低くなっている。そのため、交差部のクーポール部分が一見して塔のように突出して見える(その頭頂部は三角形の切り妻形である)。西ファサードは、横4連式の鐘楼を戴く鐘楼壁となっているが、これは16世紀以降のもので、もともとの鐘楼はトランセプトの交差部の上にあったと思われる。かくしてプレヴァンシェールの外観は、改修・改築・増築が重ねられたことによって、もともとの聖堂が持っていたシンプルさや均整の取れたプロポーションは失われているのである。
 
 それでも聖堂東端の半円形の後陣は、ロマネスク期のオリジナルの姿をよく保存している。8本の円柱の上に7つの半円アーチが並ぶアーケードが美しい(ただし、最も北側のアーチと円柱は付属する建物によって完全に覆い隠されていて見ることはできない。その隣のアーチも半分がその建物によって隠されてしまってい
る)。アーチを受ける壁付き円柱は、後陣の基壇の上から立ち上がり、それぞれに柱頭彫刻が施されている。それらは、下から上へと広がる植物の茎や葉のモチーフで、比較的シンプルな線刻風のものもあり、後陣内部のアーケードを受ける円柱のそれと同じである(最も南側の円柱は他のものよりも高さが低く、摩耗したためか、はっきりとした柱頭彫刻は認められない)。後陣のアーケードのうち、最も南側のものから2番目、4番
目、6番目のものには、その中に半円頭部の窓が開くアーチがつき、そのアーチもそれぞれ両側を、交差する茎や植物の葉、松ぼっくりなどの柱頭彫刻のつく小円柱が受ける(6番目のものには小円柱はなく、開口部も非常に小さい)。南から2番目のアーケードの下部(基壇のすぐ上)の壁には、部分的にヘリンボーン風の組み石が見られる(opus spicatum)。「三つ葉」形後陣を構成する半円形の南側トランセプトには、アーケードなどはまったくなく、細い長方形の開口部が2つ開いている。交差部の上に載る方形のクーポールには、南北それぞれの壁面に半円アーチがつき(北側のそれはわずかに尖頭アーチ)、コーニスには、俵、人面、棒、星、球、動物の頭や体、植物などのモディヨン(軒持ち送り彫刻)が並んでいる。クーポール南面のアーチの中には日時計の名残りが見られ、さらにその下に扁平アーチの頭部を持つ開口部(ただし埋められている)が認められる。身廊部南壁には、扶壁が2つ付き、向かって右側のベイには隅切りされた尖頭形頭部の窓があり、中央のベイに扉口が開く。4重の半円形ヴシュールがそのまま側柱となって基壇まで降りている。ヴシュールに彫刻装飾などはなく、シンプルな美しさであるが、この扉口自体は16世紀のものである。西ファサードは鐘楼壁であり、ほぼ中央に尖頭形頭部の大きな窓がつけられている。その下には4段の石段を登ったところに方形の出入口が開いている。
 
 聖堂内部は3ベイの単身廊形式で、身廊の東に交差部、そして半円形の後陣(内陣)が続く。身廊のヴォールトは尖頭形で、やはり尖頭形の横断アーチ(五角形)が架かり、そのままピラストルとなって床まで降りる。この身廊のヴォールトは、すでに述べたように16世紀に焼け落ち、17世紀に再建されたものであるが、最も東側にあたる3番目のベイには、南北ともに、かつての古い壁面が少しだけ残されている。特に北側のそれには、壁付きアーチの一部分と、高さのある細い円柱(植物の葉の柱頭彫刻と冠板が載る)が残されている。この円柱はトランセプトの交差部の横断アーチをはさんで、交差部の柱と対になっている。後陣とともに古いロマネスク期の様子をよく伝える交差部は南北に長い方形であるが、その方形の西側の辺に架かる円筒形の太い横断アーチ(平たい方形のアーチに2重につけられたもの。頭頂部はわずかに尖頭形となっている)が勝利アーチであるとすると、それとほぼ同じ仕様のアーチが交差部の後陣(内陣)との境にも架かっている。柱頭彫刻の施された2本で一組となった細長い円柱が、共有する1つの冠板を介して太い横断アーチを受け止める。その2つの横断アーチの間には、南北共に、柱頭彫刻を持つ細い円柱が2段構えで立ち、その上にそれぞれアーチが架かる(半円形であるが、よく見ると尖頭形か)。下段のアーチは南北共に2重アーチとなっている。それらの円柱の柱頭彫刻は、アカンサス風の植物の葉、豊かに実る松ぼっくり、パルメット紋様などである。交差部の北東の角の、2段構えの小円柱の上段のそれに見られる柱頭には、不思議な人面(あるいはモンスターの顔)が西側と南側に並んで施されている。まるで日本の鬼瓦のような恐ろしげな顔である。交差部の上部に
は、四隅に半円形のトロンプの上に楕円ドーム状のクーポールが載り、丸い開口部がついている(ただし埋められていて採光の役割は果たしていない)。
 北側のトランセプトについては、もともとは主後陣とともに「三つ葉」の一葉を構成する半円形プランであったが、15世紀に四角い平面プランのものに改築された。天井は交差リブ・ヴォールトである。四隅で植物装飾の彫刻されたロマネスクの柱頭がリブを受けている。南側のトランセプトは半円形プランでロマネスク期のものである。6つの小アーチがアーケードとなって並び(左右両端のアーチは他の4つのアーチよりも大き
い)、それらのアーチを植物装飾の柱頭彫刻を持つ5本の小円柱が受ける。このアーケードの上には、コーニスなしに直接半ドーム(4分の1ドーム)が載る。後陣(内陣)も同じ様式である。アーケードを構成するアーチは全部で7つで、北端、南端、東端のアーチが幾分大きい。アーチを受ける円柱(台形の基壇の上に立つ)にはそれぞれ柱頭彫刻が施されている。下から上に広がるアカンサス、茎、パルメットなどで、総じてシンプルな仕様となっている。アーケードの上には、やはりコーニスなしに半ドームが載る。東端中央およびそれから南北に1つおいて2カ所に、内部に向けて隅切りされた半円頭部の開口部が開き、聖堂内部に光を採り入れている。北側のそれは大きさが小さい。
 プレヴァンシェールは、後陣やその内外に見られる円柱の柱頭彫刻、扉口の仕様などがピュイローラン[48.4.1]やラ・ガルド=ゲラン[48.4.2b]などこの地域の他の聖堂と共通している。これは、それらの聖堂がサン=ジル修道院の傘下にあって、同じ建築的様式に従って建設されたことをうかがわせるものである。
Chastel(1981) p.23; Morel(2007)pp.101-102; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.295-296;
Philippe(1909)pp.266-274; Trémolet de Villers(1998)pp.265-268; Verrot(1994)p.14; RIP.




48.4.2b プレヴァンシェール/ラ・ガルド=ゲランのサン=ミシェル教会
                (Église Saint-Michel de la Garde-Guérin, Prévenchères)
 ラ・ガルド=ゲランは、プレヴァンシェールから県道D906を南へ約6キロ、プレヴァンシェールと同じコミューン内にある。やはりかつての「レゴルダヌの道」に沿った、高地のなだらかな丘陵地帯にある城塞集落である。この場所は、12世紀にはトゥルネル男爵領にあって、「ガルド」(Garde)と呼ばれ、「対等な騎士たち」(あるいは「平等騎士集団」Chevaliers Pariers/Seigneurs Pariers)が、いわば共同領主として管理していた。彼らは、文字通り対等な義務と権利を行使して、ニームとオーヴェルニュを結ぶ「レゴルダヌの道」を行き来する巡礼や商人などを保護すると共に、通行税を徴収していたが、しばしば横暴であったため、12世紀後半にはマンド司教のアルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネル(Aldebert III du Tournel)による介入を招いた。その後、トゥルネル男爵家に連なるゲラン家がここに城塞を築き、それ以来ここはラ・ガルド=ゲランと呼ばれるようになった。1238年、マンド司教はラ・ガルド=ゲランの対等な騎士たちを正式に認可し、彼らは引き続き街道の保護、通行税の徴収を行った。その騎士たち(13世紀半ばには31人いたという)は、各自がこの城塞集落の中に、大きさや形の同じ強固な家を持っていた。それらの家は、直接に壁続きではなく30センチ程度の間隔で建ち、それぞれが独立した「ドゥプレット」(Douplette)あるいは「パン・デュ・ロワ」
(Pan du Roi)と呼ばれた(各戸にはそれぞれ井戸があった)。集落には、これらのうち5軒が現在でも残っている(この時代のものでそれ以外には、城塞の居館の遺構と改修された主塔、そしてサン=ミシェル教会しか残っていない)。その後、ラ・ガルド=ゲランは15世紀の百年戦争および16世紀の宗教戦争の際に戦乱に巻き込まれて被害を受けている。フランス革命期にはまだ住民がいたが、20世紀に入ってからはほとんど無人と化して放棄された。しかし1928年にサン=ミシェル教会が、その翌年には城とその塔が歴史的建造物(Monu-
ment Historique)に指定され、さらに1970年代以降はそれらの修復工事も進められた。今日ではラ・ガルド=ゲランはこの地域の重要な観光地として蘇り、現在に至っている。

 サン=ミシェル教会は、ラ・ガルド=ゲランの集落の北端にある城塞の、すぐ南の小さな広場に面して建っている。北から南へとわずかに傾斜する地面に立つ西ファサードは、横2連式の方形の鐘楼が載る高い鐘楼壁(clocher-mur)である。鐘楼は、鐘楼壁が段々に狭まっていく切妻の上に載っている。鐘楼には大きさの違う鐘が吊されていて、そのうちの1つには1643年の銘がある。ファサードのほぼ中央には半円頭部の縦長の窓が開き、その下に半円形のアーキヴォルトを持つ扉口が、内部へ向けて隅切りされるように開いている。アーキヴォルトを構成するヴシュールには彫刻は見られない。トーラス(大玉縁)を持つ2つのヴシュールは、左右それぞれにおいて、斜めの縞模様彫刻の施されたインポストを介して、方形の冠板と円形のコルベイユを戴く2本の円柱が受ける。それらの円柱は、方形で縦長の基壇の上に円形のトルスを介して立つ。トルスは円柱の上部(柱頭部のすぐ下)にもついている。扉口にはタンパンはなく開口部となっており、半円形のステンドグラスがはめ込まれている。聖堂南側では、半円頭部の狭い出入口が分厚い壁の奥に1カ所ついていて、南壁の向かって右側上部にも四角い縦長の窓が1つ開いている。後陣は身廊本体よりも小さい五角形である。しかし東側に住居が接続しているので、五角形の後陣の南側の2面しか見ることができない。最も南側の面には頭部が扁平アーチの大きめの窓が開く。またその次の(東南の)面には、左右を太くて短い円柱に支えられた半円アーチがつき、その中に半円頭部の縦長の窓が開いている。その2本の側柱には植物模様と思われる柱頭彫刻がついているが、かなり摩耗している。聖堂北側にも建物(現在はツーリスト・インフォメーションとなっている)が建っていて、側壁全体を見渡すことはできない。南北の身廊部および後陣の外部にはモディヨンなどは見られない。

 聖堂内部は2ベイからなる単身廊に後陣(内陣)が続く。身廊の天井は半円形のトンネル・ヴォールトである。ここラ・ガルド=ゲランでは、聖堂内部において、柱頭彫刻が施されたロマネスク時代の数多くの円柱を見ることができる。それは、ジェヴォーダン(ロゼール)の中でも最も豊かなものの1つであると言える。まず扉口の開く身廊西端の壁の内側には、左右両側の角にピラストルと細長い円柱が上下2段構えで立ち、下段のピラストルと円柱にはアカンサス風の植物装飾の柱頭がつく。上段のピラストルと円柱は、西ファサード上部に開く開口部とほぼ同じ高さにあり、円柱の柱頭部は、向かって右のものはパルメット、左のものは摩耗していることもあって判然としないが植物と鳥の足と思われる彫刻が認められる(冠板は組紐紋様)。ピラストルの彫刻は、左右ともに斜めにつけられた葉模様である。この西壁内側のピラストルと円柱は、さらに2重のアーチとなって最上部に至る。西壁上部に開けられた、内部に向けて隅切りされた開口部自体も、半円アーチとそれを支える左右の短い円柱に囲まれている。その円柱の柱頭およびインポストも彫刻されているが、摩耗が進んでいて正確な形は判然としない。身廊中央には2つのベイを隔てる横断アーチがつく。太くて幅のあるピラストル(角柱)とそれを左右から挟むように円柱が、共通のインポストをもってやはり上下2段構えで立ち、上段からさらに上は、より横幅のある1つのピラストル(アーチ)となってヴォールトを支える。下段の柱頭は南壁側では円柱もピラストルも共に左右に葉を広げる植物と実、インポストは斜めに葉が並ぶ植物紋様であり、上段の柱頭には羽を優雅に広げる鳥が彫刻されている(ピラストル自体は無装飾)。北壁側の横断アーチにおいては、下段の円柱の柱頭はアカンサス、ピラストルはさらにその両側に架かるアーチを受ける角柱の柱頭も含めて南壁のそれと同じく左右に葉を広げる植物と実であるが、円柱とピラストルを束ねる共通のインポストは連続するパルメット紋様である。北側横断アーチ上段の円柱の柱頭彫刻にはアカンサスとともにやはり羽を広げる鳥のような姿が認められる。円柱とピラストルの上に載るインポストは、チェック柄彫刻である。身廊と内陣を隔てる勝利アーチの北側手前には、後の時代に付け加えられた半円形ヴォールトの小さな祭室があり、その入口には、ハート形とダイア形紋様の施された冠板に、枝分かれする葉を持つ植物紋様が彫刻された柱頭が置かれている。
 
 二重の勝利アーチ(凱旋アーチ)は半円形であるが、ほんのわずかに尖頭アーチであるようにも見える。さらに身廊のヴォールトに接するアーチがその上に架かる。勝利アーチを左右(南北)で支えるのは方形のピラストルと、そこに接する2本の円柱、そしてそのピラストルのすぐ西側にはさらに2段構えで身廊のヴォールトに架かるアーチにまで至る円柱、さらに身廊側壁に架かるアーチを支える円柱という具合に、都合4本の円柱が南北それぞれに柱の束のごとく立っている。2段構えとなったそれらの円柱の柱頭彫刻は、渦を巻く植物、実を包み込む太い茎、パルメット、植物の葉や茎の間からこちらを見る人間や動物の顔などである。またそれらの柱頭彫刻の上に載る冠板やインポストには、パルメットや撚り縄、編目紋様などが彫刻されている。勝利アーチの上には騎士団の守護天使であるサン・ミシェル(大天使ミカエル)の彩色された彫像(15世紀)が置かれている。その足下には緑色に塗られた悪魔が倒れている。後陣(内陣)は半円形で、5つのアーチが連なるアーケードの上にコーニスなしに半ドーム(cul-fe-four)が載る。それぞれのアーチは、方形で縦長の基壇石の上に立つ細長い円柱が受け、それらの円柱も柱頭彫刻を持つ。渦巻き、人間の顔、組紐状の茎など。アーケードの最も北側のアーチの下には聖具室への入口が開き、それ以外のアーチには、内部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の縦長の窓が開くが、実際に採光の機能を果たしているのは南と南東の2つの面の窓のみである。
Chastel(1981) pp.11-14; De Brisis (2007)pp.29-31; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.296;
Trémolet de Villers(1998)pp.262-265; 高草(2006)180-191頁, RIP.




48.4.3a ピエ=ドゥ=ボルヌ/レ・ボーム礼拝堂(Chapelle des Beaumes, Pied-de-Borne)
 ピエ=ドゥ=ボルヌは、ロゼール県のほぼ最東端で、アルデッシュ県との県境に位置するコミューンで
ある。レ・ボームの集落は、ピエ=ドゥ=ボルヌからボルヌ川の渓谷に沿って走る県道D151を北へおよそ7キロ、アルデッシュ県のモンセルグ(Montselgues)へ通ずる道が分岐するところにある。レ・ボーム礼拝堂
(またはデ・ボーム礼拝堂)は、D151からその姿が見えるにもかかわらず、実際のアクセスは非常に分かりにくい。レ・ボームの集落からモンセルグへの分岐点を東に折れるとすぐに向かって左方向に道からそれて徒歩で丘を登る。すると今は取り壊されてしまった大きな工場・倉庫のコンクリートの床だけが無惨にも20メートルほどむき出しで残されている。そこをそのまま突っ切って進むと山道となり、さらに100メートルほど緩やかな坂を登り、ようやくその山道の奥にある礼拝堂にたどり着く。
 レ・ボームの丘の南斜面に建つこの礼拝堂は、もとはアンデューズ男爵領(baronnie d'Anduze. 現在はガール県)に属する城塞の付属聖堂であった。城塞は今は残っていない。その後巡礼(とりわけ皮膚病を患う病人たち)が立ち寄る聖地のひとつとなった。小さな聖堂であるが、西ファサードの扉口が建設当初の姿を今によく伝えている。ただしロマネスク後期(13世紀後半)のものである。その仕様はロゼール南部のモルゾン
(Molezon)との類似性も指摘されている。扉口の上に立つ小さな鐘楼は近代以降のものである。小さな鐘が1つだけ吊されている。鐘楼の頭頂部に載せられた石は、判然とはしないが人間の顔と見えなくもない。鐘楼の下にある扉口は西ファサードの中心軸から少しだけ北にずれている。半円形のアーキヴォルトは、ジグザグ模様(bâtons brisés)の半円形モールディングとその内側の2重のヴシュールから構成される。内側のヴシュールはそのまま側柱(抱き)となって地面まで続く。さらにその内側には、左右をコーベルに受け止められた半円形のタンパン(一枚岩)がある。摩耗が進んでいて判然としないが、動物(羊であろうか?)の一部分らしきものが残っている。この礼拝堂をジェヴォーダンでもひときわユニークなものにしているのは、扉口の2重のヴシュールに彫刻されたさまざまなモチーフである。外側のヴシュールには、各クラヴォー(ヴシュールを構成するひとつひとつの楔石あるいは輪石)に1つずつ、動物、花弁、鳥、四角形、円形撚り紐、俵、円形の窪み、まな板のような図形などが彫刻されている。内側のヴシュール(外側のそれと石の色が異なる)には、四角形、鳥、花弁、人面、木槌、菱形や手裏剣のような形の星、牛の頭らしきものが見られる。
 内部は、筆者訪問時には見学不可であった(聖堂自体が個人所有)。文献によると半円筒形トンネル・ヴォールトの身廊に横断アーチが架かり、勝利アーチがピラストル(壁柱)に支えられている。後陣(内陣)は、外側から見ると方形であるが、内部は半円形プランで身廊部より高さが低く、半ドームが載る。
Nougaret et Saint-Jean(1991)p.295; Trémolet de Villers(1998)pp.253-254;
Verrot(1994)p.16.




48.4.3b ピエ=ドゥ=ボルヌ/サン=ジャン=シャゾルヌのサン=ジャン教会
             (Église Saint-Jean de Saint-Jean-Chazorne, Pied-de-Borne)
 サン=ジャン=シャゾルヌは、南北に長いピエ=ドゥ=ボルヌのコミューンのほぼ中ほど、ピエ=ドゥ=ボルヌの村からは県道D151を北へおよそ3キロ、さらにそこから西に折れて勾配のある細い山道を1キロほど登る。聖堂は集落の中ほどのいわばテラス状の場所に建っており、そこからはラ・ボルヌ渓谷をはじめ、ジェヴォーダンの山々が遠くまで続く広大なパノラマを見渡すことができる。
 サン=ジャン教会はもともとはロマネスク期に建てられたものであるが、今日まで多くの改修と増築の手が加えられており、オリジナルの姿は失われている。西ファサードは横2連式の鐘楼を戴く末広がりの量塊感ある鐘楼壁であるが、向かって左半分が、隣接する住居によって隠されている。中ほどに半円頭部の開口部が開くが、それを囲むようにつけられている半円アーチの名残りは、かつては扉口のものであったと思われるが、壁の中に埋め込まれて塞がれている。現在の扉口は新しいもので、身廊南壁の西端のベイの、6段の石段を登ったところに開いている(半円アーチで、タンパンはない)。扉口の東側のベイには18世紀頃と思われる大きな側室(祭室)、また後陣南側にも同時期と思われる聖具室がつけられている(聖具室の東壁にはニッチの壁付きアーチがつけられている)。また身廊北側にも祭室が2つ増築されている。後陣は五角形であるが、南側のみならず北側にも大きな建物が増築されているので、ロマネスク期の雰囲気を最もよく伝るものであるにもかかわらず、外側から見えるのは五角形のうち最東面と南東面の2つの面のみである(南東面のそれは半分だけ)。この後陣の最東面のベイの高い位置に、2本の短い小円柱に左右を支えられた半円形アーチがつき、その中に半円頭部の細長い窓が開く。その2本の小円柱はそれぞれウロコ状に重なったアカンサス風の植物の葉の柱頭彫刻を持つ。このアーチの様式は、プランシャンのサント=マリー=マドレーヌ教会[48.4.3c]と似ているが(プランシャンの方には植物模様の彫刻は見られない)、その柱頭彫刻についてはプレヴァンシェール[48.4.2b]やピュイローラン[48.4.1]との類似性が指摘されている。後陣の南東面にも同様に半円アーチと窓がつくが、こちらの側柱は失われてしまっている。
 聖堂内部は、2ベイからなる単身廊形式で、北側に2つ、南側に1つ、18世紀頃の祭室がつけられている。天井は、もともとの半円形ヴォールトが失われ、木製の平天井である。四角くて太いピラストルに降りてゆく勝利アーチの東側は、半円形平面の内陣(後陣)で、コーニスの上に半円ドームが載る。聖堂内部は近年の修復によって壁が白く上塗りされていてあまり古さを感じさせない。
 18世紀後半、ここの司祭であったド・シラン神父(abbé de Siran)は、フランス革命に際してギロチンの危険を避けてシャンベリーに移住した。彼はヴィルフォールの高利貸しからこの地方の農民たちを数多く救ったと言われており、シャンベリーに移ってからも、ジェヴォーダンの麗しき風土について書き残している。
Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.294-295; Trémolet de Villers(1998)pp.254-255.




48.4.3c ピエ=ドゥ=ボルヌ/プランシャンのサント=マリー=マドレーヌ礼拝堂
           (Chapelle Sainte-Marie-Madeleine de Planchamp, Pied-de-Borne)
 ピエ=ドゥ=ボルヌの村は、ロゼール県の東端において、県道D51とD113が交わるところに位置する。ここはまたアルティエ川、シャスザック川、そしてボルヌ川が交わる地点でもあり、これらの川を堰き止めてできたダム湖の西および北西の斜面に集落が広がっている。サン=ジャン礼拝堂は、このダム湖の発電所のすぐ北の岩場にあり、県道D151が北へ向けて大きくカーヴするところから徒歩でアクセスする。
 もとはこの地にあった城塞に付属する聖堂であったが、城塞の方はその後取り壊されてしまった。愛すべきこの小さな聖堂は、16世紀に改築され、さらに19世紀にも改修されているが、12世紀の創建当時の雰囲気を今日までよく伝えている。西ファサードは、わずかに下に向けて末広がりの鐘楼壁である。方形の石が積まれているが、全体に多少のゆがみがある(一部に亀裂も生じている)。鐘が1つだけの小さな鐘楼は近代になってつけられたものである。扉口は2重のヴシュールからなるアーキヴォルトで、内側のヴシュールは外側のヴシュールのアーチよりも大きな石を用いた分厚いものである。内側のヴシュールはそのまま側柱となって地面まで降りる。扉口に装飾はまったく見られずシンプルであるが、全体として力強さを感じさせる。この扉口の上には外側に向けて隅切りされた半円頭部の開口部が開いている。この鐘楼壁の南側(向かって右側)およ
び、身廊中央部、そして身廊と後陣をつなぐ部分に扶壁(控え壁)がつけられているが、鐘楼壁南側のものと身廊と後陣をつなぐ南側の扶壁は、上から下へと斜めに広がるものとなっている。とりわけ後者のそれは、身廊の東側のベイ全体に及ぶ横幅のあるもので、がっしりした量塊感を与えている。しかしその扶壁自体は身廊壁の途中までで終わっていて、そこから上には2本の背の低い多角形の側柱(装飾はない、あるいは摩耗していて判別できない)の上に小さな半円アーチが載り、中には縦長の窓が開いている。後陣は半円形プランで、装飾は見られない。身廊部北側には3カ所に扶壁がつくが、南側のそれのような量塊感はない。
 聖堂内部は2ベイからなる単身廊で、身廊部の南北のベイには壁付きアーチがある。身廊と内陣を隔てる勝利アーチ(方形のピラストルが受ける)は、半円形というよりも多少とも扁平アーチである。後陣はいたってシンプルで、半円ドームの起点となるコーニスと、南東に内部に向けて隅切りされた半円頭部の窓が1つ開く以外には、アーチや装飾の類は見られない。
Nougaret et Saint-Jean(1991)p.294; Trémolet de Villers(1998)pp.255-256.




48.4.4 ヴィルフォール/サン=ジャン礼拝堂(Chapelle Saint-Jean, Villefort)
 ヴィルフォールは、アルティエ川をせき止めてできたダム湖のすぐ南にあって、県道D901とD66が交わる交通の要所である。アルデッシュ県やガール県との県境にも近い。宗教戦争の時代には争奪の的となった。集落はD901に沿って南北に家々が連なるが、サン=ジャン礼拝堂はその北端の、パイレール川に架かる狭い橋
(サン=ジャン橋)を渡ったところに建っている。ここには、中世時代に「レゴルダヌの道」に沿った街や村に数多く作られた癩病(ハンセン病)患者のための施療院(maladrerie/léproserie)の1つがあった。施療院はイェルサレムの聖ヨハネ病院騎士修道会によって建てられたもので、この礼拝堂は、今はないその施療院の付属聖堂であった。
 「小教会」を意味する《Gleyzette》という名前でも呼ばれるように、この礼拝堂は非常に小さい(東西が短い)。扶壁が3つつけられた身廊南側には、半円アーチの扉口が開き、そのアーチの上には太い半円形のヴシュール(そのまま地面まで降りる)が1つ重ねられている。聖堂全体が小さいので、相対的にこの扉口が大きく見える。扉口の隣(東側)のベイには方形の開口部が2つついている。後陣は半円形で、小ぶりであるが美しい。その南側にやはり方形の開口部が開くが、その四角い石組みの上に、1つの石で三日月形をしたアーチが載せられている。鐘楼は失われている。この礼拝堂は、現在は個人所有(privée)で住居としても使用されており、内部には入ることができない。扉口がガラス張りになっているので、そこから少しだけ中を見ることができる。文献によれば、内部は2ベイからなる単身廊で、半円形のトンネル・ヴォールト。2つのベイの間には横断アーチが1本架かり、柱頭彫刻を持つ付け柱がそれを受ける。身廊の南北には壁アーチがつく。内陣は半円形で半ドームが載る。
 なお、ヴィルフォールからD901を北へ約2キロ、ヴィルフォール湖のダムのすぐ南側の山の頂に、サン=ルー礼拝堂(Chapelle Saint-Loup)がある。D901がD906と分岐するロータリーのあたりから山道を600メートルほど徒歩で登る。サン=ルーは5世紀のトロワの司教である。礼拝堂はもとはロマネスク期に建てられ、13世紀にはプレヴァンシェールの修道院に属したが、その後サン=ジル修道院の所有となった。現在の建物はロマネスクの面影を多少残してはいるが、17世紀に再建されたものである。
Trémolet de Villers(1998)pp.260-262; RIP.




48.4.5a サン=タンドレ=キャプセーズ/サン=タンドレ教会
                     (Église Saint-André, Saint-André-Capcéze)

 サン=タンドレ=キャプセーズ(または、サン=タンドレ=キャセーズ)は、ガール県最北端との県境に位置する集落で、サン=タンドレ教会は、ガール県へと続く県道D51からいったん集落に入り、集落を抜けてそのまま一番北の奥まで行ったところに建っている。19世紀に付け加えられた方形の鐘塔は、塔頂部に塔自体よりも大きくて装飾模様が施された尖頭屋根が不自然についている。聖堂のもともとの正確な建設年代はよく分かっていないが、おそらく12世紀であろう。本来は1ベイの身廊(後陣部とほぼ同じ長さ)に半円形の後陣がつくだけのシンプルなものであるが、17世紀あるいは18世紀に増築された側室(祭室)と聖具室がそのシンプルさを見えにくくしてしまっている。また外壁は、扉口とそれが収まるポーチ以外は白く上塗りされていて、その古さは感じられない。身廊北側には地面に向けて斜めに広がるがっしりした扶壁が2つついている。聖堂北側は村の墓地である。
 ロマネスク的な雰囲気を伝える扉口は、身廊南側に大きく張り出したポーチの中に開いている(5段の石段を登る)。この扉口の全体的な仕様は、アルデッシュのシャンボナ(Chambonas)や、ロゼールのナスビナル(Nasbinals[48.2.8])との類似性が指摘されている。しかし同時にロゼール北部のサン=サンフォリアン[48.3.1]やグランリュー[48.3.4c]、あるいはサン=ジャン=ラ=フィユーズ[48.3.13]などとも親近性が認められる。コーニスのように左右に延びるインポストの上には、外側から内部に向けて段々に奥まってゆく無装飾の3重のヴシュールが架かる。そのうち、最も外側と外側から2番目のヴシュールの下には、ごく簡素な花びらなどの植物模様が彫刻された柱頭を持つ円柱が左右それぞれに立っている。またポーチ上部のコーニスには彫刻の施されたモディヨンが並んでいる。かなり摩耗しており判然としないが、花弁や星などであ
る。聖堂内部も壁面が白く上塗りされている。1ベイの身廊の東に、2段構えで扁平形となった勝利アーチが架かる。後陣は半円形平面で、半ドームが載る。内陣の南北につけられた祭室は、外から見た印象よりも実際は小さく感じる。身廊西端には木造の2階席が設けられている。西壁上部には丸窓が開いている。
 この聖堂はこの地にあった小修道院のもので、中世期にはプレヴァンシェールからヴィルフォールまで「レゴルダヌの道」に沿って建つ他の小修道院とともに、サン=ジル修道院に属したが、17世紀にはオーヴェルニュのラ・シェーズ=デューのものとなっている。
Trémolet de Villers(1998)p.200; Verrot(1994)p.98.




48.4.5b サン=タンドレ=キャプセーズ/
     ヴィェルヴィックのノートル=ダム=ドゥ=コンソラシオン礼拝堂

       (Chapelle Notre-Dame-de-Consolation de Vielvic, Saint-André-Capcéze)
 ヴィェルヴィックは、サン=タンドレ=キャプセーズからセーズ川に沿って県道D51を南に1.5キロ。ガール県との県境にあり、ノートル=ダム=ドゥ=コンソラシオン礼拝堂(慰めの聖母礼拝堂)は、県道に沿って家々が並ぶこの村の、中ほど少し北寄りにある小さな広場に建っている。1376年にロマネスク様式で建設された
が、ほどなくして荒廃した。17世紀になって、近隣の領主たちが資金を出して廃墟化していたこの聖堂を修復したという。フランス革命の時に国有化されたあと個人に転売された。それが個人所有からサン=タンドレ=
キャプセーズのコミューンの所有となったのは、20世紀も半ばになってからのことである。1998年から屋根や内部の祭壇、信者席、ステンドグラス、聖母や聖人たちの像などの修復が進められ、この聖堂は今日では非常にきれいな状態で訪れる者を迎えている。
 聖堂外部は、身廊も後陣も共に大小の石が荒く積まれたシンプルな形で(下部の石積みは比較的整えられている)、身廊南壁と半円形の後陣のやはり南側に、内部と外部に向けてそれぞれれ隅切りされた半円頭部の窓が開く(身廊南壁の西側には方形の小さな窓がある)。外壁に扶壁などは見られない。西ファサードには扁平アーチの架かる扉口、その上に丸窓、そして一番上に小さな鐘楼が載る。内部もシンプルである。身廊は1ベイで、側室などはなく、木製の扁平トンネル・ヴォールトが架かる。後陣は半円形で、コーニスの上に石造りの半ドームが載る。
RIP.




48.4.6 アルティエ/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Altier)
 アルティエは、行政的にはヴィルフォール小郡(Canton de Villefort)の最も西にあたり、コミューンと同名のアルティエ川に沿ってヴィルフォールからマンドへ向かう古くからのルート(現在は県道D901)の東部に位置する。中世期にはトゥルネル男爵領(baronnie du Tournel)に属し、周囲には、ル・グラン・アルティエ(Le Grand Altier)、ル・シャン(Le Champ)、カスタネ(Castanet)などに封建時代の城が点在す
る。アルティエのサン=プリヴァ教会は、12世紀にはマンドの司教座聖堂参事会の管轄下にあった小修道院付属聖堂であった。教皇カリストゥス2世の勅書にその名が見える。16世紀の宗教戦争の時にプロテスタントによって鐘楼が破壊され、宝物などは略奪された(1572年)。その後再建された鐘楼は、今度はフランス革命に際して再び破壊された。荒廃していた聖堂が改修されたのは19世紀になってからのことである。
 聖堂は3ベイからなる長い身廊に、やはり長めの後陣が続く。身廊の南北両側に近代になって側室と大きなトランセプトが増築された。それらには、南北両側ともにゴシック様式で尖頭形の縦長の窓がついている。扶壁で支えられた後陣は、東端部に聖具室が増築されているので、半円形の外観が損なわれてしまっている。西ファサードは、横3連式の方形の鐘楼が載る横幅のある分厚い鐘楼壁で、中ほどに丸窓が開いている。この鐘楼壁の南側、扉口との間に円形の塔がつけられていて、地上から4段の石段を登ったところに方形の入口がある。扉口には、3つのヴシュールからなるアーキヴォルトが架かる。装飾などは見られない。現在は扉口の上に木製の屋根がつけられている。聖堂内部は尖頭形のトンネル・ヴォールトの載る単身廊形式で、南北両側に祭室がつく。ヴォールトは白く上塗りされている。2本ある横断アーチは四角いピラストル(付け柱)が受ける。側壁には南北両側とも壁付きアーチがついている。交差部は交差リブ・ヴォールトである。内陣に続く後陣部は半円形プランで、半ドームが載る。聖堂は西側と北側を村の墓地に囲まれている。
Trémolet de Villers(1998)pp.433-434.




48.4.7 サン=フレザル=ダルビュージュ/サン=フレザル教会
                    (Église Saint-Frézal, Saint-Frézal-d'Albuges)

 サン=フレザル=ダルビュージュは、ラ・バスティード=ピュイローランから県道D6を西へ約17キロ、グレ山地(montagne du Goulet)の北側に位置するコミューンである。ブレイマール小郡(Canton du Bley-
mard)では最も北にあたる。レ・シャゾー(Les Chazeaux)の集落から、D6とほぼ平行してその北側を東へ向かう農道を約2キロ進むと、その突き当たりにサン=フレザル教会が建っている。後陣の東は墓地となっている。この聖堂は、もとはマンドのサン=ラザール神学校(コレージュ)が所有する小修道院付属聖堂であった。史料の初出は1227年であるが、建設されたのはおそらくはそれよりも前であると考えられる。宗教戦争の時代、1584年にマチュー・メルル(Matthieu Merle)率いるプロテスタントの一団の攻撃によって被害を受けた。その際、身廊部北壁や西ファサード、身廊のヴォールトなどが破壊されたが、それらは17世紀に入って再建された。19世紀初めにも後陣南側や扉口の上部、鐘楼などが修復されている。こうしたたび重なる再建・修復にもかかわらず、この聖堂は全体的な様式の統一性やシンプルさなどの点でオリジナルのロマネスク期の姿を現在に至るまでよくとどめ、ジェヴォーダン(ロゼール)の中でも最も美しいものの1つとなっている。
 3ベイからなる身廊には、西端のベイの南側に扉口が開き、扶壁で区切られる形でそれに続く2つのベイには半円頭部の壁アーチの中に、これもまた半円頭部の縦長の窓がつく(身廊の北側の壁には中央のベイの下部に四角い出入口が1カ所開く以外には開口部はない)。後陣は五角形で、南から3つの面に半円頭部で縦長の開口部が1つずつ開く。後陣の下部には身廊南側まで続く溝が掘られていて、地表面から下の基壇部分を見ることができる。身廊部の南北および後陣の上部(コーニス)には、摩耗が進んではいるが、さまざまな彫刻の施されたモディヨンがずらりと並んでいる。俵、ドーナツのような輪、横棒、縦棒、不思議な人面、球、平板、花弁、その他ロマネスクのモディヨンでしばしば見かける多様なモチーフが見られる。身廊南壁の西端のベイには扉口が開く。このベイは他のベイと比べて身廊壁面よりも前にせり出している。扉口自体は、尖頭形の扁平アーチの中に、やはり尖頭形の4重のヴシュールが架かる。これらのヴシュール(無装飾)は、ギザギザ線刻模様の冠板を持つ方形の側柱へと降りてゆく。扉口にタンパンはない。
 聖堂内部は通常は見学不可である(入口に鉄柵がはめ込んであって開かない)。文献によれば、身廊は3ベイで、わずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトが架かる。側壁にはピラストル(壁付き柱)がつき、横断アーチを受ける。ピラストルの間にはわずかに尖頭形の壁アーチがつく。西壁の内側には、ラ・ガルド=ゲラン[48.4.2b]のようにアーチがつけられている。横断アーチよりも大きめの勝利アーチは、ピラストルを背にした2本一組の円柱の上に架かる。円柱には柱頭彫刻が施されている。これもまたラ・ガルド=ゲランの場合と同様である。後陣は五角形で、コーニスの上に半ドームが載る。柱頭彫刻を持つ円柱の上に小アーチの架かるアーケードが並び、南側3面に内部に向けて隅切りされた開口部が開いている。
Chastel(1981) p.27; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.299; Trémolet de Villers(1998)pp.272-273; Verrot(1994)pp.92-93.




48.4.8 シャスラデス/サン=ブレーズ教会(Église Saint-Blaise, Chasseradès)
 サン=フレザル=ダルビュージュとラ・バスティード=ピュイローランのほぼ中間、後者からは県道D6で約10キロである。村はD6から200メートルほど北に入ったところにあり、サン=ブレーズ教会は、その村の中心からやや西寄りの広場に面して建っている。12世紀にこの地に創建された修道院の付属聖堂で、かつてはノートル=ダム教会と言われた。史料の初出は1227年である。少なくとも15世紀からはマンドの聖堂参事会がこの修道院を管轄し、修道院長を任命した。ただし修道院自体は今はなく、聖堂だけが残る。
 大きくてがっしりした方形の鐘塔(各面に半円頭部のアーチが2つずつ)が、西ファサードの向かって左半分を覆い隠すように(しかも前面に張り出すようにして)建っている。16世紀のもので、もとは修道院の防御のための塔であったと考えられる。恐らく同じ頃に、12世紀の聖堂全体に拡張の手が加えられた。すなわちもともとは3ベイであった身廊の西側にさらに2つのベイが加えられ、また身廊北側に5ベイからなる側廊が、さらに後陣の南北にも祭室と聖具室が増築された。それに加えて後の時代に聖堂の南側と鐘塔の北側に住宅が接続することで、この聖堂の外観は全体として、ロマネスク期のオリジナルの姿からは大きく異なるものとなってしまっている。身廊部の外壁は、聖堂南側において、傾斜した荒々しい岩場の上に建っており、太くて強力な扶壁が狭い間隔で外壁を支えている。かつての扉口が、その最も西のベイに3重のヴシュール(無装飾。インポストをへてそのまま側柱となる)を伴って、外側に張り出す形で開いているが、かつての地表面が崩れて(あるいは取り去られて?)しまったために、扉口自体が岩場のはるか上方に取り残される形となっていて(しかも岩場の表面からさらに壁で迫り上げられているので)、そこから出入りはできず、もはや扉口の役割を果たしていない(現在の聖堂の出入口は西ファサードに開いている)。このかつての扉口の上には、張り出しの上部のコーニスに無装飾の四角いモディヨンが5つ並んでいる。かつては鐘塔がこの扉口が開くベイ(当時は最西端のベイ)の上に建っていた。身廊南壁の扶壁の間には、向かって左側のベイに半円頭部の大きな窓
が、また向かって右側のベイには壁付きアーチの下に、半円頭部の小さめの窓が開いている。後陣は五角形であるが、先にも触れたように、南北に建物が付属していて、もともとの姿はとどめていない。五角形のうち最東面および北東面のベイに半円頭部の窓が開く。この北東面のベイは12世紀のもので、窓は半円頭部の壁アーチの中に開いている。後陣上部のコーニスには、5つの面すべてに球形のモディヨンがきれいに並んでいる
(北東面のモディヨンには俵形のものが2つだけ見られる)。

 聖堂内部は、5ベイからなる身廊に半円筒形トンネル・ヴォールトが架かる。ただし西側の2つのベイは16世紀の増築で、横断アーチについても、西側の2つのアーチは尖頭形である。最も西側の横断アーチはキュ・ドゥ・ランプが受け、2つめの横断アーチ(最も尖頭形)は、横幅のある方形のピラストルが受ける。ここまでの横断アーチの起点はコーニスである。続く2つの横断アーチは半円形で、壁付きの円柱が受けるが、それらには柱頭彫刻が施されている。アカンサスと渦巻き(北側)、太い線で表されたパルメットや立ち並ぶ茎の列のような模様(南側)である。身廊(12世紀の部分)の南北には各ベイに半円アーチがつけられている。身廊北側ではそのアーチは側廊に向けて開かれ、南側では壁アーチとなるが、その中に半円頭部で内部に向けて隅切りされた開口部を収める。身廊と内陣を隔てる勝利アーチは2段構えの半円形で、内側のそれは一枚の冠板を共有する2本の柱頭彫刻付き円柱が受ける。また勝利アーチの外側(西側)のそれも柱頭彫刻付きの円柱が受ける。それらの彫刻は、かなり摩耗しているが、北側では両手を広げた3頭身くらいの人物がそれぞれの柱頭に認められる。また南側では短くて分厚い葉を持つアカンサスや編紐紋様である。こうしたアーチや円柱の仕様や彫刻の様式は、ピュイローラン[48.4.1]、プレヴァンシェール[48.4.2a]、ラ・ガルド=ゲラン
[48.4.2b]など、この地域のサン=ジル修道院系の聖堂建築と共通していると言える。それは後陣内部(内陣)についても同様で、5つのアーチが連なるアーケードを4本の円柱が受け、円柱の柱頭彫刻は、それぞれ植物の太い茎やパルメット様の冠板に、アカンサスや編紐紋様、そしてオラント(祈る人)らしき両手を広げた人物などである。5面ある後陣内部のうち、3つの面には内部に向けて隅切りされた半円頭部の窓が開けられている。また南東の面には聖具室への扉がつけられ、その扉の上にも半円形のガラス窓が開く。再北面には祭室が接続している。後陣のアーケードの上にはコーニスを介して、半ドーム(白く上塗りされている)が載る。身廊北側に増築された側廊(16世紀)は、コーニスの上に4分の1扁平ヴォールトが架かる。この側廊北側の壁には、横断アーチを受ける無装飾のピラストル(壁柱)が等間隔で並んでいる。内陣に置かれた石の祭壇は、4本の円柱の上に分厚い石盤が載るが、それらの円柱はフランス革命の時代には、内陣の床の舗石の下に隠されていたものであるという。
 なお『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の作者で、スコットランドの作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンは、1頭のロバとともにこの地方を徒歩で旅した際、1878年9月27日にこのシャスラデスの宿屋に宿泊している。しかしこの時の彼の旅行記『旅はロバをつれて』には、残念ながらサン=ブレーズ教会への言及は見られない。
Denisy(1987)pp.34-35; Chastel(1981) p.7; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.286;
Stevenson(1960)p.153; Trémolet de Villers(1998)pp.270-272; Verrot(1994)pp.26-27.




48.4.9 キュビエール/サン=テティエンヌ教会(Église Saint-Étienne, Cubières)
 ヴィルフォールとマンドを結ぶ県道D901のほぼ中間にル・ブレイマール(Le Bleymard)があるが、キュビエールはそこから東に約4キロ進み、さらに細い道を南に折れて約1キロである。サン=テティエンヌ教会は村のほぼ中ほどにあり、墓地に隣接している。この村は12世紀にはトゥルネル男爵領の拠点の1つであった。聖堂は、この地にあった小修道院の付属聖堂で、アルティエのサン=プリヴァ教会[48.4.6]と同様、マンドの司教座聖堂参事会の管轄下にあった。教皇カリストゥス2世の勅書にその名が見いだせるのが史料での初出である(1123年)。宗教戦争の際に、プロテスタントによって大きな被害を受けた。
 西ファサードは、中央に建つ尖頭形の鐘塔、その下に開く扉口とともに、近代のものである。身廊部の西端のベイも近代になってからの増築で、もともとの扉口は身廊の西から2番目のベイの南壁に開いていたが、現在は完全に埋められていて、そうとは分からない(そこにつけられていたポーチらしきものの痕跡が、壁面外部にわずかに認められる)。聖堂は、墓地(東側)から見た後陣の光景が、かつてのロマネスク期の面影を今に伝える。量塊感のある五角形の後陣には、その北東面と南東面に、半円頭部で内側に向けて隅切りされた大きめの窓が開く(後陣の最東面はまったく何もない壁面である)。身廊北側には祭室、南側にはやはり祭室と住居が付属する。聖堂内部は、最近になって全体的にきれいに上塗りされていて、あまり古さは感じさせないが、身廊の内陣側の2つのベイの南北の側壁はもともとからのもので、コーニスの下に半円形の大きな壁アーチがついている。南側のアーチの中には半円頭部の隅切りされた開口部が開き、聖堂内部に光を採り入れてい
る。宗教戦争以降に再建された身廊の天井は、尖頭形トンネル・ヴォールトでコーニスの上に載る。3つのベイを区切る2本の横断アーチも尖頭形で、方形のピラストル(壁柱)が受ける。最も東のベイの南北にトランセプトのように増築されたゴシック様式の祭室は、南北ともにキュ・ドゥ・ランプが受ける交差リブ・ヴォールトとなっている(ヴォールト部分は青く塗られている)。勝利アーチは、ヴォールトに接するアーチと、その下の内陣と身廊を隔てる壁アーチの両方とも尖頭形であるけれども、しかしその頭頂部の垂直線はわずかにずれている。この勝利アーチを受ける2段構えになったピラストル(側柱)のインポスト様の柱頭部には、南北それぞれに、水平方向につけられた何本もの横線模様が彫刻されている。これは聖堂内部で見られる唯一の彫刻装飾である。後陣は五角形で、コーニスを介してその上に載るドームも5面からなる。後陣内部も身廊と同じく最近になって白く上塗りされているが、下部の基壇部分にはかつての石組みが認められる。後陣の5面の壁のうち、中央のそれは壁でふさがれている(半円頭部のニッチとなっている)が、その左右の面には、内部に向けて隅切りされた半円頭部の窓が開いている。
Denisy(1988)pp.31-32; Trémolet de Villers(1998)p.435.




48.4.10 キュビエレット/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame de Cubièrette)
 キュビエールからさらにブールボン峠へ向かう道を約2キロ南へ登る。ロゼール山(Mont Lozère)の北斜面の谷に分け入ったところにあたる。かつてはここにニーム近郊のラ・フォンにあるベネディクト会のサン=ソヴール修道院(Monastère Saint-Sauveur de La Font de Nîmes)に所属する小修道院があった。政治的にはトゥルネル男爵領に属した。現在残るノートル=ダム教会は、もとは12世紀に建設されたもので、1198
年、トゥルネル男爵のオディロン・ゲラン2世(Odilon Guérin II)が、この小修道院をサン=ジル近くのフランクヴォー(Franquevaux)修道院に譲った際の文書にその名が現れる。
 ノートル=ダム教会は、村のほぼ中ほどにあり、後陣側が墓地に囲まれている。外壁は、近年の修復作業によって白く上塗りされている。後陣は半円形で、身廊の南北にそれぞれ19世紀の側室が増築されている。南側のそれは聖具室も含むので、北側の側室(祭室)よりも大きい。同じ時期に身廊南壁の東端に、半円頭部のシンプルな扉口が開けられた。西ファサードは、中ほどの高さに半円頭部の縦長の窓が開く鐘楼壁で、現在は鐘楼に登るための鉄製のはしごがついている。横2連式の鐘楼の東側の面には、彫刻の施された石が2つ組み込まれている。鐘楼の2つのベイの間には、年代とアルファベットを彫刻したもの(108という数字と、EとP)、そして向かって左側の下部分には、横長の石に、笏や聖杯らしきものを捧げ持つ3人の人物が刻まれている。東方の三博士であろうか、あるいは工具のようなものも認められるので、この聖堂を建設した人々の姿であろうか。
 聖堂内部は、2ベイからなる単身廊形式で、身廊部分には横断アーチはない。側壁にはわずかに張り出した横幅のあるピラストルが認められる。天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトである。身廊西端の壁には、内部に向けて隅切りされた開口部が開く。隅切り部分は尖頭形であるが、その中に収まる開口部自体は扁平アーチである。身廊の南北には19世紀に祭室が増築された(それぞれに、内部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の窓がつく)。南側の祭室には聖具室も付属している。勝利アーチから東の後陣は半円形で、南北に大きめ
の、東側に小さめの、隅切りされた半円頭部の窓が開く。コーニスを経て半ドームが載る。この半ドームは青く上塗りされている。中央には天使に囲まれたキリストが描かれている。聖堂内部の壁やヴォールトは、外部と同じように近年になって上塗りされているが、しかし聖堂自体が普段使用されていないからか、全体的に荒れた印象が否めない。2013年の時点で、内部の修復作業が予定されているようである。
 シャスラデス[48.4.8]でも触れたロバート・ルイス・スティーヴンソンは、1頭のロバとともに、1878年9月28日の夜、このキュビエレットの少し西の、ロゼール山を越える峠道のあたりで、夜空に広がる銀河の満天の星々を仰ぎ見ながら野宿し、静かで美しい一夜を過ごしたのであった。
Brouillet(1988)pp.29-30; Trémolet de Villers(1998)pp.435-436;
Stevenson(1960)pp.156-159; RIP.




48.4.11 ル・ブレイマール/サン=ジャン=デュ=ブレイマール教会
                      (Église Saint-Jean-du-Bleymard, Le Bleymard)
 ル・ブレイマールは、ヴィルフォールとマンドを結ぶ県道D901のほぼ中間にある。前者からは29キロ、後者からは30キロである。村の中心は、D901から県道D20を南に折れたところにあるが、サン=ジャン=デュ=ブレイマール教会は、村から少し離れたところ、すなわちその2本の県道の分岐点からD901をマンド方面へおよそ1.3キロほど東進したところの県道の南側に建っている。かつてはベネディクト派の小修道院の聖堂であったが、その小修道院の方は改築されて、現在は県道D901をはさむ形でその北側に残っている(あたかも城館のような建物である)。この場所は、ロー川のほとりでもあり、墓地が聖堂の南側と東側を取り囲んでいる。
 サン=ジャン=デュ=ブレイマール教会の現在の建物は13世紀のものである(史料の初出は1281年)。平たい片岩を積み重ねて作られている。部分的にロマネスク的要素を残しているが、全体的にはゴシックの要素が強く、13世紀以降の改築と増築が重ねられていて、もともとのシンプルさは失われてしまっている。14-15世紀に改修された西ファサードには、ゴシック様式の尖頭形アーチを戴く扉口が開き、その上にさらに同様のゴシック様式の窓があり、一番上には1ベイの鐘楼が載る。向かって右側が増築されているので左側よりも横に長くなっている。身廊南側の外壁は、向かって左寄りに、壁に埋め込まれた尖頭形の大きなアーチの跡(その内側には半円頭部の開口部)、右寄りにはやはりゴシック様式の尖頭形のニッチのアーチがついている(そのアーチは左右でそれぞれ細くて背の低い円柱が受ける)。さらにその上には尖頭形でゴシック様式の開口部がついている。後陣部にも、その南北に後代の大きな付属室が増設されている(ともに斜めになった屋根を持つが、その傾斜の方向は異なる)。後陣自体は五角形で、南面には半円頭部の縦長の窓、最東面にはゴシック式頭部の縦長の窓が開いている。身廊部および後陣の北側には側室(祭室)が増築されているが、後陣に付け加えられた側室の外壁には、半円頭部で外側に向けて隅切りされた窓の上部に、ゴシック時代以降のものと思われる浅浮き彫りパネルがはめ込まれている。そこには線刻文字をはさんで2頭のライオンが向かい合ってい
る。百年戦争期のものであろうか。また身廊部の側室の外壁には、半円頭部の窓とともに、まるで銃眼のような仕様の、縦長で細い開口部が残っている(内部は埋められていて採光の役割はない)。
 聖堂内部は2ベイの単身廊で、コーニスの上に尖頭ヴォールトが載る。横断アーチは方形のピラストルが受ける。身廊の2つのベイには、南北それぞれに祭室がつくが、それらの祭室が開くアーチは、西側は半円アーチ、東側は尖頭アーチとなっている。勝利アーチは壁付き円柱が受けるが、その柱頭部には線模様の植物彫刻が施されている。勝利アーチから東の内陣も2つのベイからなり、そのうち西側のベイには南北それぞれに、半円アーチを介して祭室が開く。後陣は半円形で、内部に向けて隅切りされた2つの開口部がつく(南面と東面)。コーニスの上に半ドームが載る。内陣に置かれている彩色された木製の主祭壇は19世紀のものである。文献によっては、後陣のドームに植物紋様の壁画(フレスコ画)の断片が残っているとするものもあるが、現在ドーム部分は白く上塗りされていて、筆者が訪れた時にはそれについては確認できなかった。
Chastel(1981)p.18; Morel(2007)p.91; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.299;
Trémolet de Villers(1998)p.436.




48.4.12a サン=ジュリアン=デュ=トゥルネル/サン=ジュリアン教会
                      (Église Saint-Julien, Saint-Julien-du-Tournel)
 ル・ブレイマールから県道D901を西へ約7キロ、マンドからは東へ24キロのところに位置する。この美しい村へは県道から南へ折れてロー川を渡る。サン=ジュリアン教会は村のほぼ中ほどに、ロー川を見下ろすようにして建っている。聖堂の西側は村の墓地となっていて、その墓地を通って行くことになる。もともとの聖堂はカロリング時代にさかのぼる古いもので、ベネディクト派の小修道院のものであった。史料の初出は1229年で、その史料には、この小修道院と、ル・ポン=ドゥ=モンヴェールのギャップ=フランセ(Gap-Français)に拠点を置いていた聖ヨハネ騎士団との間でロゼール山地域での徴税に関する争いが起きたことが記されている。その後マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に属したが、16世紀にはモンペリエのサン=ピエール大聖堂の聖堂参事会の管轄となる。ジェヴォーダンの多くの聖堂と同様に、宗教戦争期には被害を受けた。
 現在の聖堂は12世紀に建設されたものである(Sanctus Julianus de Tornello)。量塊感のある大きな西ファサード(鐘楼壁)ならびに聖堂本体、外壁につけられたモディヨン、聖堂内部の柱頭彫刻、後陣のアーケードやその上のドームに描かれた壁画など、このサン=ジュリアン教会は、ジェヴォーダン(ロゼール)における最も美しいロマネスク聖堂の1つであるとも言われる。

 建物全体は平たい片岩の石積みで建てられている。横幅と高さのある西ファサードは、最上部が16世紀以降に改修されたと思われる横2連式の鐘楼で(大きさの異なる鐘が吊されている)、そこから下に向けて段々に横幅を増してゆく。中段には半円頭部の窓が1つだけ開いている。下段の扉口は、そこだけピンク色の大きな石を組んで作られていて、尖頭形(ただし一番内側のみ半円形)の3重のヴシュールが左右にそれぞれ側柱となって地面まで降りる。ヴシュールに装飾はない。この扉口も15世紀以降のものであると思われる。聖堂の南側外壁には扶壁が並ぶ。この扶壁は、西壁の左右のそれも含めて、片岩と大きめの四角い花崗岩が混在したものである。張り出しの小さな側室(トランセプト)を経てその東が五角形の後陣であるが、その南側に住宅が直接接して建っているために、残念なことに後陣全体を目視することができない。聖堂北側には13-14世紀に増築された側室(トランセプト)と、大きな祭室(サント=カトリーヌ礼拝室)がある。聖堂の南北の外壁の上部(軒持ち送り)には、身廊部分から後陣までさまざまに彫刻されたモディヨンが並んでいる。摩耗しているものもあるが、それらは俵、花弁、球、人面、つぼみ、動物の頭、各種の幾何学的模様など、ロマネスク聖堂ではよく見かけるおなじみのモチーフである。

 聖堂内部は3ベイからなる単身廊で、その東側にトランセプト様のベイ、そして後陣(内陣)が続く。身廊部の天井は、わずかに扁平となった半円形のトンネル・ヴォールトで、2段構えの横断アーチは、方形のピラストルとそこにつけられた円柱が受ける。円柱の柱頭部には葉や枝を広げる単純な植物、十字架、四角い図形などが彫刻されており、その一部は彩色されている。身廊の各ベイの南北の壁には、それぞれ半円アーチがおさまり、南側のそれには最も西のベイを除いて、内部に向けて隅切りされた半円頭部の窓が開く。最も東側のベイの北側には、分厚い尖頭アーチを経てサント=カトリーヌ礼拝室がある。これはトゥルネル男爵のギーグ・メシャン2世(Guigues Meschin II)とオディロン・ゲラン4世(Odilon Guérin IV)によって、13世紀に増築されたものである。彼らに引き続くトゥルネル男爵の何人かは、15世紀に至るまでこの礼拝堂に埋葬されている。そこには内部に向けて大きく隅切りされた開口部が2つあり(その大きさは小さい)、さらに北壁にニッチの半円アーチがつき、祭室の中央には石の洗礼盤が置かれている。交差部の北側にも14世紀に増築されたトランセプト様の祭室がつく。トランセプトとしてはかなり小さい側室であり、このタイプの様式は、クルチュール(Cultures[48.6.12])やモンロダ(Montrodat[48.6.2a])、あるいはアルザンク=ドゥ=ランドン(Arzenc-de-Randon[48.3.16])との類似性が指摘されている。交差部の西側には勝利アーチが架かる。ヴォールトに架かるアーチ部および北側のピラストルとそれについている円柱は赤色に彩色されていて、繊細な植物の絵柄が描かれている。勝利アーチの柱頭彫刻は彩色されたアカンサスである(勝利アーチの柱頭は、身廊の横断アーチのそれよりも低い位置にある)。同じように彩色されたアカンサスの柱頭彫刻を持つ円柱と、その上に架かるアーチ(交差部と内陣を隔てる)には、唐草文様がさらに色濃く描かれている。後陣は五角形で、パルメットや唐草文様、捻り縄紋様のつけられたコーニスの上に5面からなる半ドームが載る。コーニスの下は、葉模様が美しく並ぶ彩色画の描かれた半円形の5つのアーチからなるアーケードである。それらアーチは柱頭彫刻の施された細い円柱が受ける。円柱の柱頭にはアカンサスの大きな葉の彫刻が施されている。5つのアーチのうち、最北面のもの以外には、その下に、内部に向けて隅切りされた半円頭部の開口部が開けられている。最南面の窓は大きくて採光の役割を果たしているが(もともとは開口部はなかったが後につけられた)、最東面およびその左右の3つのアーチの下のそれは細長くて小さい。東南面のものは埋められていて採光の役割は果たしていない。隅切りの外縁は彩色された帯で縁取りされている。また後陣最北面のアーチの下には開口されるかわりに半円頭部の窓の絵が描かれている。
 後陣の上の半ドームに描かれている壁画は、17世紀後半から18世紀にかけてのもので、大変に美しい。パルメットと唐草文様、そして撚り紐の絵が描かれたコーニス、さらに同様の図柄の描かれた内陣との間のアーチに囲まれるようにして、神の栄光を表す壮大な図柄が描かれている。中央には神から使わされた鳩が両翼を広げ、その周囲を光を放つ太陽のような輪が囲む。その背後の空はひときわ透きとおるような青である。その外側を、赤い輪をへだてて、顔に羽がつく小天使や羽を広げたセラフィム(熾天使)の大群が取り囲んでおり、正面を向いたものや、横を向いて2対で向かい合うものがある。この大群の外側では、向かって左側にそうした天使たちが整然と並ぶが、右側は歳月の経過によってか、その姿が消えてしまっていて、天使はまばらにしかいない。壁画の一番外側には、五角形のコーニスに沿って花飾りの帯が連ねられている。後陣のドームを飾る同様の手法の壁画は、例えばサン=ガル(Saint-Gal[48.2.13])やテルム(Termes[48.1.21])にも見られるが、ここサン=ジュリアン=デュ=トゥルネルのものは、その豊かさとスケールの大きさにおいて、ひときわ抜きんでていると言えよう。内陣の中央奥に置かれた木製のルターブルは17世紀のもので、とりわけその上部が金色に塗られており、豪華で見事なものである。
Chastel(1981)p.30; Morel(2007)pp.94-97; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.299;
Trémolet de Villers(1998)pp.438-441; RIP.
 




48.4.12b サン=ジュリアン=デュ=トゥルネル/トゥルネルの城塞礼拝堂
                (Chapelle castrale du Tournel, Saint-Julien-du-Tournel)
 サン=ジュリアン=デュ=トゥルネルから、県道D901を東へおよそ3キロのところに、かつてジェヴォーダンにあった8つの男爵領(Baronnie)のうちの1つであるトゥルネル男爵領の本拠地トゥルネル城(Château du Tournel)の遺構がある(県道がトンネルをくぐる小山の上にある)。中世期において、トゥルネル男爵領はジェヴォーダン中部のマンド東方にあたる広いエリアを占めたが、その起源については分からないことが多い。どうやら12世紀前半頃にジェヴォーダン北部のランドン男爵領から分かれて成立したようである。トゥルネルの城の名が初めて史料に現れるのは、1219年であるが(castrum de Tornello)、城塞の建築自体は12世紀のことで、最初のトゥルネル男爵オディロン・ゲラン(Odilon Guérin)によるとされる。このトゥルネルの城を本城として、他に4つの支城(Chapieu、Montmirat、Montialoux、Montfort)をもって領域の支配が行われた。トゥルネル男爵は、最初はバルセロナ伯(プロヴァンス伯も兼ねていた)の支配下にあったが、12世紀後半からマンド司教がジェヴォーダンにおける支配権を強化し、マンド司教ギヨーム6世・デュラン
(Guillaume VI Durand)がフランス国王フィリップ4世(le Bel)との間で1307年に取り結んだジェヴォーダンの分割統治に関する協約(paréage)以降は、マンド司教の支配下に入った。一方、トゥルネル男爵は山の上のこの城を離れ、ラヌエジョルにあるボイ城(château du Boy)に本拠地を移すようになった。城には少数の守備隊が残ったようであるが、トゥルネルならびに周辺地域の住民たちがおもにこの城の維持と防備に携わった。しかし14-15世紀には、百年戦争やペストなどの影響で、城に隣接する村の住民たちも次第にこの地を離れていくようになった。宗教戦争に際しては、マチュー・メルル(Matthieu Merle)が率いるプロテスタントの一団の攻撃によって被害を受けている。その後、城は放棄され、ごく少数の住民のみがこの城の南斜面に隣接する小さな集落に19世紀まで住んでいたが、その集落も現在は完全に放棄されて廃村となっている。

 県道D901のトンネルの西側出入口のところから徒歩で斜面を登り、半ば廃屋となった家々の間を縫って行くとほどなく城域に入る。城を過ぎてそこからさらに小山の尾根沿いに進むと、今度はロー川(Le Lot)のわん曲に沿って南に突き出た山の斜面に、廃村となって久しいトゥルネルの古い住居群に至る(le vieux village)。城はD901のトンネルのほぼ真上に位置し、岩のごつごつした山の頂に北西から南東方向に向けてさまざまな建築物が並んで建っている。そのうち北西側の居館と礼拝堂が広場をはさんで建つ部分が12世紀の古い部分で、ドンジョンと高さのある2つの塔の建つ部分が13世紀に建設された部分である。この新しい南東側の部分には、ほぼ中央にひときわ目を引く高さ12メートルの円塔(Le Réduit)が立つ。また同様に高さがあり強固な壁面を見せるドンジョン(Donjon)は4階建てで、側面に内部が階段となった円塔(Tourelle d'escalier)がつく。もう1つの塔(Tour nord-est)はもともとの高さは残っておらず、建設も14世紀頃のものである。
 礼拝堂(Chapelle)は、サン=ピエール礼拝堂とも呼ばれ、建設は12世紀でこの城の最も古い部分に属す
る。方形の居館(Logis)から広場(place)を隔てた反対側の大きな岩場の上に、後陣を北東方向に向ける形で建っている。この城の他の建物同様に片岩の石積みによって建てられている。単身廊で、その北側に半円形の後陣が続く。全長はおよそ14メートルである。岩場の上に建つ後陣は高さがあり、外から見ると聖堂というよりはむしろ城塞に築かれた防御用の塔のように見える(実際その役割も果たしていたのであろう)。この
「後陣塔」の外壁には、部分的にヘリンボーン風の組み石(opus spicatum)が見られる。ヴォールト(半円形のトンネル・ヴォールトであったと思われる)はすべて失われており、南西側の壁と広場に面した南東側の壁も残っていない。この南東側の壁に、かつては扉口が開いていた。部分的に残っている北西側の壁には、半円形の壁アーチがつけられている(サン=ジュリアン=デュ=トゥルネルのサン=ジュリアン教会[48.4.
12a]と同様の仕様である)。もともとはこの壁アーチが2つのベイに1つずつ並んでいた。また後陣には、北と東西それぞれの3カ所に開口部が開いていた。現在はそれらの開口部は残っていない。この小聖堂は、先にも触れたように14世紀以降はマンド司教の管理下に置かれた。それについてのトゥルネル男爵とマンド司教との協約の儀式は、1267年にこの聖堂に面した広場において行われている。
Rémy(2000)pp.43-44; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.299; Trémolet de Villers(1998)p.437.





48.4.13 アラン/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Allenc)
 アラン(Allenc)は、マンドから東へ国道N88、県道D901、D27とたどっておよそ23キロ、グレ山地
(Montagne du Goulet)のほぼ西端に位置する。村は鉄道と平行する県道D27から北側に少し入ったところで、さらにサン=ピエール教会は、その村の東の端にあって、後陣側が村の墓地に囲まれている。この地にあった小修道院の付属聖堂として建設されたのは12世紀前半頃で(後陣は11世紀後半頃)、教皇カリストゥス2世による1123年の勅書の中に、この小修道院がマンド大聖堂の聖堂参事会の管轄下にあるものとしてその名が初めて現れる。16世紀の宗教戦争によって被害を被ったのち、1607年に修復工事が行われている。
 聖堂は、何よりもまずその背の高い西ファサードが目を引く。量塊感のある均整の取れた鐘楼壁であるが、15世紀から19世紀まで幾度も改築・改修が繰り返されたものである。上部には横4連式の上にそれよりも小さな横2連式が重なる繊細で美しい鐘楼を戴く。ファサードの左右には、最上部が三角形の切り妻となった3段構えの扶壁がつき、見るものに垂直方向の視覚的印象を強く与える。ほぼ中ほどに丸窓が開いている。扉口はゴシック様式で、尖頭形の5重のヴシュールが内部から外側へと扇状に広がる。一番外側のヴシュールは扉口の中ほどのインポストまでであるが、内側の4つのヴシュールは、そのまま細い帯の彫刻された基壇まで降りている。このファサード(鐘楼壁)の向かって左側(すなわち北側)の裏にくっつくようにして、上下2段構えの円塔が建てられている。これは16世紀のもので、内部には鐘楼に登るための階段がある。この塔が建つ聖堂北壁自体はロマネスク期のもので、わずかに尖頭形となった壁付アーチが身廊の3つのベイに対応する形でつけられている。そのうち中央のアーチの中には、扁平頭部で縦長の窓が開く。最も西のアーチは、円塔が後から増築されたために、半分しか見ることができない。聖堂の南壁は、16世紀の宗教戦争の際に破壊された後、身廊のヴォールトとともに17世紀初頭(1607年以降)に再建されたものであるが、現在は大きな住居(司祭館)が接続していて、3つのベイのうち中央のものしか目視できない(そこには扁平頭部で縦長の窓が1つ開
く)。
 
 後陣は、東と南北それぞれにほぼ同じ大きさのものが配置された、いわゆるきれいな「三つ葉」形である。同様のものは、例えばプレヴァンシェール[48.4.2a]やラヴァル=デュ=タルン[Laval-du-Tarn、48.6.
20]にも見られるが、12世紀の建設当時のまま完全な形で残っているのはジェヴォーダン(ロゼール)では、ここアランだけである。この「三つ葉」のそれぞれは、外部は五角形であるが、内部は半円形となっている。東側の主後陣には3カ所に扁平頭部の窓が開き、南北の小後陣には1カ所ずつ開いている。現在はこの主後陣の南東部に大きな聖具室(18世紀後半)が増築されていて、残念ながらこの美しい「三つ葉」の全体を見渡すことは出来ない。北側の小後陣にも16世紀に扶壁がつけ加えられている(なお、この「三つ葉」形の後陣に関しては、もともとあったのは東側の主後陣のみで、南北の小後陣は12世紀半ばに後から増築されたものであるとの見方もある)。
 聖堂内部は、ほぼ正方形の3つのベイからなる12世紀の身廊と、上述の「三つ葉」形の後陣からなる。最も西のベイには、南北方向のスパンいっぱいに架かる大きなアーチの上に、17世紀に造られたトリビューンがあり、その下をくぐるようにして聖堂の中に入る。身廊の南側の壁とヴォールトも、17世紀に入って再建され
た。南北の壁には各ベイに半円形の壁アーチが1つずつ連なる。アーチは平たい方形のピラストルがインポストを経て受ける。アーチの中は近年の修復によって白く上塗りされている。多少扁平になった半円形の横断アーチは2本で、それらは南北両側でヴォールトの起点であるコーニスの上に架かるが、扉から入ってすぐのベイに架かる横断アーチは、その北側のみ2本で1組となった壁付き円柱が受ける。その柱頭部には、左右に大きな実を持つアカンサス風の葉があり、中央には2つの花弁に挟まれて、大きな目でこちらを見下ろす人間の顔が彫刻されている(2階席に上るとよく見える)。さらに扉から入って2番目のベイと3番目のベイの間に架かる横断アーチの、これもまた北側の起点には、今度は小さなアカンサスの連なる列の上に2匹の動物(ライオンか?)が向かい合わせになって、何か獲物のようなものを口にくわえて引っ張り合っている(あるいはお互いの舌を絡ませているようにも見える)。その真下にあるピラストルの上部のコーニスには、撚り紐状の細長い彫刻が残っている。身廊の東に続く内陣(「三つ葉」をなす南北の小後陣の、いわば交差部にあたる)は、ヴォールト(半円筒形)の高さが身廊部よりも低い。後陣はさらにもう一段低いので、身廊から後陣まで段々に天井が低くなっていく形になっている。逆に言うと、後陣から身廊まで天井が段々に高くなっていくわけ
で、そのことから身廊部の建築年代が内陣よりも新しいという見方も可能である。内陣の交差部の北西角に
は、石造りの講壇(chaire)が設けられているが、そこに登るための石段の一部に、先に触れた西端ベイのピラストルに見られる人面の柱頭彫刻と同じモチーフのものが、再利用されて埋め込まれている(つまりその人面の柱頭彫刻を踏みしめながら講壇の石段を登るのである)。「三つ葉」形をなす3つの後陣のうち、南北の小後陣は、半円形の平面プランに半ドームが載る。壁面は白く上塗りされていて、内部に向けて大きく隅切りされた半円頭部の開口部が開けられている。北側の小後陣には、小さめの洗礼石盤が置かれている(年代は不明)。東側の主後陣は半円形で、「三つ葉」中央の内陣より高さが低い半ドームが載る(ただし小後陣のそれよりは高い)。そこには内部に向けて大きく隅切りされた窓が3カ所に開く。南北の窓が中央のものよりも大きい。アーケードや装飾の類は見られない。それは宗教戦争の際に破壊されてしまったものと思われる。内陣(後陣)中央には石の祭壇が置かれ、その横に磔刑のキリストが彫刻された白い石灰岩の十字架(15世紀)も置かれている。
 
 アランでは、身廊のヴォールト(内陣側の2つのベイ)に彩色画が描かれている。1721年のもので、その後上塗りされてしまうが、1987-1988年にかけて、その上塗りが取り除かれ、現在のように目に見える形で修復された(それでも部分的に摩耗してしまっている)。西側のベイに描かれているのは、中央に唐草模様の大きな3重の円と、さらにそれを取り囲む形で描かれた植物模様である。内陣側のベイのヴォールトには、やはり中央に8つの角を持つリング(メダイヨン)があり、それを花飾りが取り囲む。そのリングの北側にマルコ、南側にヨハネ(右手に福音書を、左手に羽ペンを持つ)が描かれてい
る。このヨハネが最も保存状態が良い。このフレスコ画のテーマは4人の福音書記者に囲まれた「栄光のキリスト」なのであろうが、そうだとすると、中央に角を放ちながら輝くリングがキリストを表しているのであろうか。なお、身廊西端のトリビューンの下に、表面に縦長の十字架が彫刻されている墓石が立てかけられている。中世期のものと思われるが、その正確な年代は不明である。
Balmelle(1945)pp.1-2; Chastel(1981)pp.3-4; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.285;
Philippe(1909)pp.259-266; Trémolet de Villers(1998)pp.275-277; Verrot(1994)pp.88-91; RIP.
 



48.4.14 シャドゥネ/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Chadenet)
 マンドから国道N88と県道D901を東へ18キロ、サン=ジュリアン=デュ=トゥルネルからは5キロである。シャドゥネの集落はD901からD27を北に折れておよそ300メートル入ったところにあるが、サン=プリヴァ教会はD901とシャドゥネの集落のちょうど中間あたりで細い道をさらに東へ折れて約200メートル、民宿
(Gîte)や墓地などに隣接して建っている。建設されたのは12世紀から13世紀前半頃で、史料に最初にその名が現れるのは1258年のことである。1580年頃、宗教戦争によって被害を受けた。襲撃したのは、ジェヴォーダンで被害を受けた多くの聖堂と同じく、マチュー・メルル率いるプロテスタントの一団であった。17世紀にはマンドのセミネール(神学校)に所属し、19世紀初めに教区教会となった。
 建物は長年にわたる改修を重ねている。半円アーチの扉口が開く西ファサードは近代のもので、上部が三角形の切り妻の鐘楼を戴く。ファサードならびに身廊の南北には扶壁がつく。身廊部の西から2番目のベイの南北に増築された祭室は1883年のものである(内陣南側にはさらに聖具室が加わる)。身廊と後陣を取り囲むように、コーニス(軒持ち送り)にモディヨンが並ぶ(ほとんどが無彫刻だが、一部に幾何学的な彫刻が残
る)。通常はそのコーニスの上に建物の屋根が載るのであるが、シャドゥネではコーニスからさらにかさ上げされたところに屋根が載る。身廊部の南北に2つつけられている扶壁も、上はコーニスまでで止まっている。そのかさ上げ部分は装飾などはないまったくの白壁である。身廊部および祭室には、南北ともに半円頭部の縦長の窓が開く。後陣はロマネスク様式を最もよく伝えるものとなっている。石積みの外面がそのまま残された五角形の後陣で、各面に半円頭部の壁アーチがつく。アーチの中に窓が開く面と盲アーチの面が交互に並んでいる。窓は北面と東面が半円頭部のものであるが、南面のものは長細い方形である。各面の壁アーチの下部は外部に向けて隅切りされている。モディヨンの並ぶコーニスの上には、身廊部と同様に、前面にせり出した白塗りされたかさ上げ帯があって、後陣の上部を取り囲んでいる。
 聖堂内部は、筆者訪問時は見学不可であったが、半円筒形のトンネル・ヴォールトが載る2ベイからなる単身廊である。柱頭彫刻の施された壁付き円柱の上に横断アーチが架かる。身廊の南北には半円形の壁アーチが付き、東側のベイの南北には1883年に祭室が増築された。後陣内部は五角形でコーニスの上に半ドームが載る(彩色されている)。アカンサスなどの植物模様の柱頭彫刻を持つ小円柱が、半円アーチの連なるアーケードを受ける。3カ所に窓が開き、それぞれ内部に向けて隅切りされている。中央に置かれた木製の祭壇は18世紀のもので、白地に金の彩色と、キリストの戴冠をテーマとした装飾が施されている。聖堂内部の壁面には、18世紀に描かれた植物紋様の彩色画が部分的に残っているのが塗装の下から発見されたが、保存のために1992年に再び白く上塗りが施された。身廊内の柱やアーチ、コーニスなどは黄色に彩色されている。
Balmelle(1945)p.11; Trémolet de Villers(1998)pp.442-443; Verrot(1994)pp.23-24; RIP.




48.4.15 サン=テレーヌ教会(Église de Sainte-Hélène)
 サン=テレーヌの村は、シャドゥネの西およそ3キロ、マンドからは国道N88と県道D901をへて東へ15キロである。聖堂はD901の東側に広がる村の北端に建っている。後陣側は墓地となっている。聖エレーヌ(聖ヘレナ)は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で、晩年に至って信仰の道に進み、キリスト磔刑の十字架や、さらには東方の三博士の遺骸などを発見したと言われる人物である。この地にあった小修道院は、もとはラヌエジョル(Lanuéjols[48.5.3a])の修道院に属していた。
 西ファサードは全体的に近代になってからのもので、ベイ1つだけの鐘楼が最上部に載り、中ほどには丸窓が開く。扉口は半円形のヴシュールを左右でロマネスク様式の小円柱が受ける。その円柱は、四角い基壇の上にトルスを介して立っている。円柱の柱頭彫刻は、左右ともアカンサスと渦巻き、巻き上がる葉模様などであるが、向かって右側の柱頭彫刻の方が、ロマネスク期の雰囲気をより良く伝えている(左側の柱頭彫刻は、右側のものより多少時代が下るかも知れない)。ヴシュールと円柱の内側には、玉縁形刳型(モールディング)の施された半円頭部のゴシック様式の入口が開く。タンパン彫刻などはない。聖堂の南西には大きな住宅(司祭館)が接合していて、聖堂の西ファサードの向かって右側が覆い隠されてしまっている。身廊の南北にはそれぞれ祭室が、そして後陣南側には聖具室が増築されている。後陣は身廊部よりも高さが低く、形は五角形
で、北面と南面にそれぞれ半円頭部の窓が開いている。この聖堂は最近まで建物全体が漆喰で上塗りされていたが、最近になってそれが落とされ、現在では石積みが目で見えるようになっている。
 聖堂内部は、半円筒形トンネル・ヴォールトの載る2ベイの身廊に、半ドームが載る五角形の内陣(後陣)が続く。身廊部には説話的テーマと植物紋様の柱頭彫刻の施された円柱が横断アーチを受ける。身廊の側壁には半円形の壁アーチがついている。勝利アーチはピラストルが受ける。身廊と後陣の接合部分には、ヴォールトの起点に2つの人面彫刻が施されている。
Balmelle(1945)p.65; Trémolet de Villers(1998)p.444.
 




参考文献と略記号
Balmelle, Marius(1945):Répertoire archéologique du Département de La Lozère, Périodes
     Wisigothique,
Carolingienne et Romane, imp. G. Pauc, Mende.
Chastel, Rémy(1981):Églises de Lozère. Nouvelle. Éditions Latines, Paris.
De Brisis, Hérail(2007):La Garde Guérin. L'Association G.A.R.D.E., Prévenchères.
Denisy, Léon(1987):« Les monographies lozériennes par Léon Denisy(1818-1888) »
     rééditées par Pierre Brouillet, in Revue du Gévaudan, mars 1987, pp.34-35.
――――――(1988)« Les monographies lozériennes, par Léon Denisy(1818-1888)(suite)»
     rééditées par Pierre Brouillet , in Revue du Gévaudan, mars 1988, pp.26-32.
Morel, Jacques(2007):Guide des Abbayes et Prieurés, Languedoc-Roussillon, Autre Vue, Lyon.
Nougaret, Jean, et Saint-Jean, Robert(1991):Vivarais Gévaudan Romans, Zodiaque.
Philippe, André(1909):« Deux églises à plan tréflé de l'ancien Gévaudan » in Bulletin
     monumental
, Société Française d'Archéologie.
Rémy Isabelle(2000):« Le site castral du Tournel(Lozère)XIIe-XVIe s. Son analyse            architéctuarle » in Archéologie du Midi médiéval, tome 18. Centre d'archéologie médiévale
      du Languedoc.
Stevenson, Robert Louis(1960):An Inland Voyage, Travels with a Donkey, The Silverado
     Squatters, J. M. Dent & Sons, London.
Trémolet de Villers, Anne(1998):Églises Romanes oubliées du Gévaudan, Les Presses du
     Languedoc, Montpellier.
Verrot, Michel(1994):Églises rurales & Décors peints en Lozère, La Régordane, Chanac.
高草茂『プロヴァンス古城物語』里文出版、2006年。
RIP:Renseignements ou Informations sur Place.