東海大学紀要(文学部)第106号(2017年3月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである。2021.08.20)

南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(2)
Les églises romanes dans la Lozère:les cantons de Mende et de Marvejols.

                  中川 久嗣


 本稿では、前稿(「南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(1)」)に引き続き、ロゼール県の中部に点在する中世のロマネスク聖堂を取り上げる。具体的には、ロゼール県中部のマンドとマルヴジョルの小郡(カントン)(2016年現在、マンド地域はマンド1とマンド2の2つの小郡(カントン)に分割されている)にあたる地域を対象とし、そこにあるロマネスク期の聖堂について、可能な限り知りうるものすべてを訪問調査し考察を加えることとする。
 地形的には、ロゼール県北西部のオブラック地域と南西部のコース地域やゴルジュ地域が、標高およそ1000メートルから1100メートルのなだらかな高原地帯であるのに対して、マンドとマルヴジョルのあるこの地域はロー川の流れる渓谷(vallée du Lot)にあたり、ロゼール東部のセヴェンヌ地域ほどではないにしろ、比較的地形の起伏が目立つエリアである(特にマンドから東)。
 このあたりには古代からガバル族(les Gabales)と呼ばれるガリア人が住んでいた。彼らの名は、3世紀にこの地で殉教したとされる聖プリヴァ/プリヴァトゥス(Saint-Privat)の伝説と結びあわされている。中世期には「ジェヴォーダン」(Gévaudan)を支配した8つのバロニー(男爵領)のうちの1つである「ペイル男爵領※」(baronnie du Peyre)があり、強力な支配権を行使していた。しかしその中にあって、現在ロゼール県の県庁所在地であるマンドは、中世以来、司教座都市としてジェヴォーダンの中心でもあり続けた。歴代のマンド司教は最初のうちは周辺の男爵領と相克関係にあったが、フランス国王との協力関係を築くことによって、次第に周辺の在地権力を凌駕するようになっていった。
 建築的には、この地方のロマネスク聖堂はロゼール県の他の場所と同じく、概して小規模~中規模で、多少とも後の時代の改修・改築の手が加えられているものが多く、単身廊形式、南北に付けられた小さめの祭室、複数個の鐘が横に並ぶ鐘楼(鐘楼壁)、多角形の後陣、身廊や後陣の上部に並ぶモディヨン、ヴシゥールを伴って南側に開くポルタイユ(扉口)、などといった特徴が見られる。特に共通するのは、後陣内部および外部に見られるアーケードに施された柱頭彫刻の様式、聖堂内部のとりわけ凱旋(勝利)アーチや身廊とトランセプトの交差部周辺に見られるアーチや円柱の仕様、そしてそこに施された柱頭彫刻、身廊の側壁に見られる半円形の壁アーチなどである。数は少ないが「三つ葉」形の平面プランを共有するものもある。
 本稿で取り扱う聖堂は、前稿と同じく「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11-12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク」期を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれる。
 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、おおよそ小郡(canton)ごとにまとめた大まかな地域、そして自治体であるコミューン(commune)の順で番号を付し
た。同一のコミューンに複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した(コミューンは2016年時点のものである。その後、合併などによって変わっているものもある)。
 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」あるいは「礼拝堂」を用いた。個々の地名や聖堂の名称については、現地の慣用のものを採用した。
 採りあげる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし私有地であったりアクセス困難な場所にあるなどの理由で訪問出来なかった聖堂には▲を記した。写真画像は筆者の撮影による。誌面の都合ですべての聖堂の写真画像をここに掲載することはできない。それらは筆者開設のウェブページ
(http://nn-provence.com)で閲覧可能である。

※ « Peyre »の日本語表記は、通常は「ペル」または「ペール」となろうが、ロゼールの現地住民などの多くはオック語の伝統もあって現在でも「ペイル」と発音することが多い。したがって本稿では標準フランス語の発音に合わせるのではなく、さしあたってそのまま「ペイル」としている)また « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。


48.5 マンド(Mende)とその周辺

48.5.1 マンド/ノートル=ダム=エ=サン=プリヴァ大聖堂
                   (Cathédrale Notre-Dame-et-Saint-Privat, Mende)
 現在のロゼール県は、フランス革命以前の旧名は「ジェヴォーダン」である。その名は、18世紀頃この地に出没したと言われる「ジェヴォーダンの獣」によってよく知られるところである。しかしさらに古く、古代ローマ時代にはこの地は「ガバル」(pay des Gabales/ガバル人の住む国)と呼ばれた。このガバルの地のキリスト教化は3世紀頃から始まる。最初の司教は3世紀後半、ローマ皇帝ウァレリアヌスの治下にこの地で殉教した聖プリヴァ(Saint-Privat/プリヴァトゥス)であると言われる(聖セヴェリアンを最初の司教とする説もあるが、この人物については伝説の域を出ない)。トゥールのグレゴリウスの『フランク史』によれば、クロクス王に率いられてガリアに侵入したアラマニー人(les Alamans)がガバルの地も荒らし回り、ついには近隣の住民たちが避難して立てこもるグレーズ(Grèzes、マンドの西約25キロ)を包囲した。この時代、ガバルの司教座はマンドではなく古代都市ジャヴォル(Javols)にあったが、このジャヴォルの司教であったプリヴァ(プリヴァトゥス)はマンドのすぐ南にあるミマテの山(ミマ山)の洞窟で断食と祈りを行った。プリヴァはクロクス王からグレーズに立てこもる住民たちを引き渡すよう要求されるが、それを拒んだために拷問の末に殺された。その後、蛮族はグレーズ包囲を解き、住民たちはこの聖人を丁重に葬ったという。ただし、聖プリヴァの殉教の年代については諸説あって、トゥールのグレゴリウスの伝える3世紀後半という記述も確かなことではない。631年頃、国王ダゴベール1世がこの聖人の聖遺物をサン=ドゥニに移すが、777年にはロレーヌ地方にあるサン=プリヴェ修道院が所有し、さらに9世紀初め頃、再びマンドに戻され、カテドラルのすぐ西側の地下の古いクリプト(聖テクルのクリプト)に隠されたと伝えられる。なおジェヴォーダンにおける司教座がジャヴォルからマンドに移された時期は、これも諸説あってはっきりしないが、5世紀から6世紀頃のことであったと推定されている。司教座のこの移動については、やはり聖プリヴァの殉教地がマンドに隣接するミマ山であったということや、この聖人の墓がマンドにあったという理由が大きかった。かくしてミマ山とマンドは、古来から多くの巡礼者を集めることとなる。


 現在のカテドラル、すなわちノートル=ダム=エ=サン=プリヴァ大聖堂は、14世紀にゴシック様式で再建されたものである。ガロ=ローマ時代、この場所は古代の墓地であったが、メロヴィング期になってここに聖プリヴァのクリプトが作られ、その上に小規模なサント=テクル教会(Église Sainte-Thècle)が建てられ
た。この最初期の聖堂についてはよく分かっていない(この聖堂は11世紀まで残っていたようであるが、その後廃墟化し、12世紀になって司教アルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネルがこれを完全に取り壊している)。10世紀になると司教エティエンヌ(Étienne Premier/正確な在位期間は不明。最初に「マンド司教」と呼ばれた)のもとでカテドラルが建設された。この聖堂の名が史料に初めて出てくるのは951年のことである。このプレ・ロマネスク期のカテドラルについてもやはりその詳細は分からないことが多い。12世紀に入ると、今度は司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイル(Aldebert II de Peyre/在位1099-1123年)が、より大きなカテドラルを新たに建設した。1875年の発掘調査によれば、3廊式のバジリカ様式であるが、後陣(内陣)の形などは分かっていない。聖堂南側にはクロワトル(回廊)と、貴族や聖職者のための墓地があった。聖ジュリアン(Saint-Julien)と聖バシリス(Saint-Basilisse)に捧げられたこのロマネスク期のカテドラルは、1105
年(または1112年)に完成し、献堂式にはアルル、エクス、トリポリの大司教、ル・ピュイとマルセイユの司教が臨席している。また1118年には教皇ゲラシウス2世、さらに1163年には教皇アレクサンデル3世が、トゥールでの教会会議に向かう途中でこのマンド大聖堂に立ち寄っている。
←シャステル門遺構
 その後マンド司教となったアルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネル(Aldebert III de Tournel/在位1150年または1153年-1187年)は、12世紀半ばからジェヴォーダン伯を兼ねていたバルセロナのアラゴン王家やジェヴォーダン各地の封建領主(バロン)たちとの軋轢もあって、マンドの街の要塞化を推し進めた。街の周囲に壕を巡らせ、5つの門を持つ城壁で街を取り囲み、強固な司教座都市としての体裁を整えていった。この時の城壁の遺構などは、現在はほとんど残っていない。街の北側出入口にあたるシャステル門(porte du Chastel)のあった場所の近く、現在のテオフィル・ルーセル広場からシャステル通り(rue de Chastel)を南へ約10メートルほど市内に向けて入った向かって右側の住宅の壁に、かつての城壁の遺構の一部がかろうじて残っているのが認められる。また都市壁の東側にあったアンジラン門(porte d'Angiran)の方形の塔の遺構が、現在のド・ゴール将軍広場からアンジラン通りに入るところ(街の中心に向かって右側2軒目の建物)の1階土台部分に残っている。その建物の上部にはかつて城門の塔につけられていた銃眼が20世紀初めにはまだ残っていたが、現在は屋根の中に埋め込まれてしまっていて見ることができない。なおこうしてマンドの要塞化に努めたアルドゥベール3世であったが、1161年にフランス国王ルイ7世に臣従し、その見返りとして国王はアルドゥベール3世に対し司教領における支配権を確認する「金印勅書」(la Bulle d'or)を与えた。これはマンド司教がジェヴォーダン全体へとその支配権を拡大してゆく道のりの始まりとなるものであった。
 1369年(または1368年)から、それまでのロマネスク期の聖堂(および聖ブレーズと聖テクル礼拝堂な
ど、その周囲にあったいくつかの小聖堂)を取り壊して、新たにゴシック様式でカテドラルの建設が始められた。この工事を主導したのは、アヴィニヨンの教皇ウルバン(ウルバヌス)5世(Urvain V、ジェヴォーダン出身、在位1362-1370年)であった。1368-1370年の期間はマンド司教座は空位で、教皇自らがアヴィニヨンにあってマンド司教区を管轄し、カテドラル建設のための資金確保に努めるとともに、その工事を監督している。建設工事は長きにわたり、完成したのは1512年のことであった。現在のカテドラルであるこの新しい聖堂は、アルドゥベール3世の頃のロマネスク期の聖堂よりもはるかに大きく、西ファサードには左右に大きな鐘楼が建つ。ともに六角形の尖塔がさらにその上に載っている。この2つの塔には、塔本体の4つの角に太い扶壁が斜め方向に(放射状に)つけられている。また左側の塔には側面、右側の塔には背面に、それぞれ鐘楼に登るための階段を収めた円筒壁がついている。「司教の塔」とも呼ばれる向かって左側(北側)の塔は高さが84メートルあり、ルネサンス様式の装飾が豊かである。「聖堂参事会の塔」と呼ばれる右側(南側)の塔の高さは64メートルで、装飾も少なく、厳めしい印象を受ける。左側の塔の鐘楼には16世紀後半まで、直径3.25メートル、高さ2.75メートル、重量25トンという他に例を見ないほどの巨大な鐘が吊されていた(La Non Pareille)。この鐘は宗教戦争の際に失われ、鐘を打つ「舌(ぜつ)(Battant)」(高さ2.2メートル、重量470キロ)のみが現在も聖堂内部の西端に置かれている。
鐘を打つ「舌(ぜつ)(Battant)」

 2つの塔の間にある西壁は高さが低く、大きな円形のバラ窓の下に、フランボワイアン様式の装飾が施されたポルタイユが開いている。このポルタイユのポーチにも、鐘楼と同様に外側に向けて斜めに開く扶壁がついている。ポルタイユから聖堂内部に入ると、幅29メートル、高さ25メートルの身廊が長さ67メートルにわたって内陣まで延びる(9ベイ)。その両側には側廊がつき(したがって三廊式である)、さらにその外側に礼拝室がずらりと並ぶ。それらの礼拝室を仕切る壁は、聖堂外部において幅のあるがっしりした扶壁(contre-
fort/buttress)となって立ち上がり、アルク・ブータン(フライング・バットレス)によって身廊の壁を支えつつ、それが身廊・後陣をぐるりと取り囲むように並んでいる。この聖堂にはトランセプト(袖廊/翼廊)はない。各ベイを支える柱は円柱で、身廊両側には尖頭形の大アーチが並ぶ。その上にはトリビューンなどはなく、最上部の縦長で尖頭形の高窓にはそれぞれステンドグラスがはめられている。天井は4分交差リブ・ヴォールトである。内陣部は6本の円柱にはさまれた尖頭アーチが五角形を形作る。さらに木製の仕切り壁を隔ててその外側に後陣回廊(déambulatoire)が巡る。この回廊にある礼拝堂の1つには、オーヴェルニュでもよく見られるような黒い聖母像(Vierge noire、12世紀または13世紀)が安置されている。身廊東側には18
世紀初めに作られたタピスリー(聖母マリアの生涯)がかけられ、また身廊西端の上部には17世紀半ばの見事なオルガンがあって見る者を見下ろしている。このカテドラルは、宗教戦争のさなか、1579年12月にマチュー・メルル(Mathieu Merle)率いるプロテスタント勢力がマンドの街を占拠した後に部分的に破壊された
(2つの鐘楼は無事であったが身廊部は大きな被害を受けた)。その20年後から始まった修復工事は1620年まで続けられ、さらに19世紀末にもさらなる修復の手が加えられ今日に至っている(西ファサードのポーチが作られたのはこの時である)。


 現在のカテドラルは教皇ウルバン5世以降の時代のゴシック様式のものであるが、ロマネスク時代の遺構
は、身廊の地下にある「聖プリヴァのクリプト」(Crypte de Saint-Privat)である。それよりもさらに古いクリプトも残っていて、それは現在の大聖堂の西ファサードの2つの塔のうちの、北側の大きな「司教の塔」の地下にあり、「聖テクルのクリプト」(Cryptes de Sainte-Thècle)という(現在は閉鎖)。不規則な十字形をなす大小5つの石室からなり、そのうち3つはメロヴィング時代のものと推定されるが、最も古いもの(中央部にあるいわゆる石室« A »)は、壁面の大きな石積みや鉛製の棺などの存在から、古代ガロ=ローマ時代にまでさかのぼるとも言われる。実際、石室の並び方などは古代末期あるいは中世初期のキリスト教徒のカタコンベを連想させる。1170年3月のこと、前述のマンド司教アルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネルが、当時のロマネスク時代のカテドラルの西側にあった菜園(かつては墓地であった場所)に井戸を掘らせたところ、たまたまこの地下クリプトが見つかった。アルドゥベール3世の事蹟を記した『小品』≪Opuscules ≫よれば、彼はこのクリプトのうち最も東側に位置する石室(石室≪ A ≫。長さ3.15メートル、幅2.5メートル)において、9世紀以降その行方が分からなくなっていた聖プリヴァの墓(鉛製の棺)を「発見」し、その棺の中にあった遺骨(下顎のない頭蓋など)を聖プリヴァのものであるとしてカテドラルの身廊地下の「聖ジュリアン=聖バジリスのクリプト」(crypte Saint-Julien-Sainte-Basilisse)に移すことになる。この「発見」
(invention)の際、折しもアルドゥベール3世はマンドを離れていたのであるが、知らせを受けて井戸の工事を中断させ、急いでマンドに戻り、この遺骨が聖プリヴァのものであると認めてそのことを広く宣言した。そして1170年(または1171年)の9月14日、墓が発見された古いクリプトから、新たにカテドラル身廊地下の「聖ジュリアン=聖バジリスのクリプト」へと改葬が行われた(translation)。聖プリヴァの墓発見の知らせは近隣各地は言うに及ばず、さらに遠くまであまねく伝わっていたので、改葬の儀式には大変な数の群衆が集まった。マンドの街からあふれ出した彼らは、改葬儀式の前夜からマンド周囲の谷や野においてロウソクを灯し、祈りをささげ続けた。その中には聖職者や僧侶たちも数多くいて、彼らは彼ら自身の教会や修道院の聖遺物を持参し、さらにそれぞれ十字架や香炉をささげ持ち、カテドラルに入れ替わり入って、聖プリヴァの彫像の前で祈りを捧げた。聖プリヴァの聖遺物と彫像がカテドラルから出されて街の外で待つ群衆の前に姿を露わにすることもされた。集められたロウソクの光の中に置かれた聖遺物と彫像の回りでは、群衆の祈りと歌の声が一晩中続いたという。儀式当日には、アルドゥベール3世が聖プリヴァの遺骸(遺骨)を新しい聖遺物容器に収めたが、頭蓋骨のみは別にされて群衆の目の前に掲げられた。夜になっても聖遺物が置かれたカテドラルの祭壇に人々が押し寄せたため、何度も聖遺物容器を開けて、彼らに中身を見せなければならなかったとい
う。その後、頭蓋以外の遺骨はカテドラル身廊地下の「聖ジュリアン=聖バジリスのクリプト」に収められ、頭蓋のみは、この後もしばしば儀式の際に用いられたのであった。
 聖プリヴァの墓が見つかった古い「聖テクルのクリプト」については、もとは3つの石室がバラバラにあったものを、アルドゥベール3世が中央に大きな石室を作って相互につなげたとも言われる。いずれにせよここでは14世紀頃まで儀式が行われていたようであるが、その後は時の経過とともに次第にその存在は忘れられてしまい、1906年に西ファサードにネオ・ゴシック様式のポーチを作る工事の際に再発見された(その際にそこで見つかった埋葬品などは、残念ながら保管場所の火災により失われてしまった)。
 一方、身廊地下の「聖ジュリアン=聖バジリスのクリプト」の方は、アルドゥベール3世が聖プリヴァの聖遺物を移してからほどなく「聖プリヴァのクリプト」と呼ばれるようになった。1579年12月にカテドラルがプロテスタントによって破壊・略奪された際には、このクリプトも荒らされ、聖プリヴァの聖遺物は奪われてしまった。その後、遺骨の一部は戻されたが、フランス革命期の混乱のうちにしばし行方が分からなくなる
も、1820年に「再発見」されて今日に至っている。この「聖プリヴァのクリプト」の起源は、古代までさかのぼると言われたり、10世紀のプレ・ロマネスク期の聖堂建設の際に作られたものだと言われたりもするが、確かなことは分かっていない。しかしすでに11世紀にはここが聖プリヴァの墓だと信じられて多くの巡礼がやって来ていたようである。このクリプトが正式にジェヴォーダン最初の司教である聖プリヴァの墓とされたのは、すでに述べたようにアルドゥベール3世がここに聖プリヴァの聖遺物を移した1170年以降のことであっ
た。1934年には内部の壁面を上塗りするなどの改修工事が施されている。現在、このクリプトにはカテドラルの身廊(ポルタイユから聖堂内部に入って3つめのベイの右側)からスロープを降りる。クリプト内部は長さ11メートル、幅3メートル、高さ5メートルの長方形で、半円形のトンネル・ヴォールトが架かる。奥には石の祭壇が置かれている。これは12世紀半ばにマグローヌ(Maguelone)の司教レイモンによって聖別されたもの。その祭壇の後ろに、キリスト教徒のカタコンベなどでよく見られる半円形のアーチ型壁龕墓すなわち「アルコソリウム」(arcosolium)がある。その中央に摩耗したロマネスク期のアカンサス彫刻の施された柱頭が置かれ、さらにその上に金色の聖プリヴァの彫像が立てられている。
←聖プリヴァ(聖プリヴァトゥス)のクリプト

 マンド大聖堂の地下クリプトにおいて発見された考古学的遺物などは、もともとはマンドのイニョン=ファーブル博物館(Musée Ignon-Fabre)に収蔵・展示されていたが、残念ながらこの博物館は2016年現在閉鎖されたままで、再開のめどはたっていないようである。
 マンドから県道D25で街のすぐ南にあるミマ山(Mont-Mimat)へ向かう登り口(マンドの環状道路でもある国道N88からおよそ300メートル)のところに大きな墓地があり、その一角にサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ教会(église Saint-Gervais-et-Saint-Protais)がある。もとはロマネスク聖堂であったが、14世紀にゴシック様式で改築された。かつては教区教会であったが、宗教戦争時代の1562年にプロテスタントによる攻撃を受け、1581年にはマチュー・メルル率いるプロテスタント部隊によって破壊された。現在はかろうじてその後陣部分のみが残されている。
 マンドの南のミマ山の中腹には、聖プリヴァ(プリヴァトゥス)のエルミタージュ(ermitage Saint-
Privat)があり、ジェヴォーダン最初の司教であるこの聖人が殉教の際、その中にこもって断食をしながら祈りを捧げていたとされる洞窟が残っている。マンドから南に向かう県道D25を約3.5キロで西へ分岐してさらに約3キロ、そこから車両は進入禁止となるので、徒歩でおよそ400メートルである。最初から徒歩であれ
ば、カテドラルの南、マンドの環状道路沿いのフォアライユ広場からおよそ2キロの小径を歩いて登る。20世紀に建てられたインフォメーションを兼ねた巡礼のための宿泊施設があり、その奥に19世紀に建てられた小聖堂(chapelle de l'Ermitage)がある。この小聖堂の横および、さらにそこから石段を登ったところに洞窟があり、殉教の際に聖プリヴァがこもっていたのは、この石段の上の洞窟であったとされている。ただし洞窟には外側に建物が増築されていて、その建物は通常は閉鎖されている。小聖堂からさらに東へ続く山道を行く
と、ミマ山の頂に立つ大きな十字架(Croix de Saint-Privat)まで行くことが出来る。そこからはマンドの街を見下ろす広いパノラマが広がっている。
Balmelle(1942)pp.349-352; Balmelle(1945)pp.33-41; Barbot(1903)pp.5-11, pp.48-55; Barbot(1906)pp.526-549; Brunel(1912)pp.27-70; Chabrol(2002)pp.94-99;
Chastel(1981) pp.22-23; Delon(1941)pp.52-57; Du Mège(1840)p.514;
Grimaud et Balmelle(1925)pp.85-91; Joulia(1975)pp.63-76; Maurice(2004)pp.3-7, pp.17-22, pp.31-35; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.290-291; Pérouse de Montclos(1996)pp.288-290; Sigal(1974)pp.103-115; Sigal(1977)pp.237-257; Trémolet de Villers(1998)pp.56-60, pp.83-101; Trintignac, et al.(2012)pp.346-354;トゥールのグレゴリウス(2007年)pp.28-29, pp.549-552; GV; RIP.
 
chapelle de l'Ermitage de Saint Privat




48.5.2 プルーズ/ラ・ルヴィエールの聖母被昇天教会
             (Église Notre-Dame de l'Assomption de La Rouvière, Pelouse)
 プルーズは、ロゼール県マンド郡のコミューンの1つ。聖母被昇天教会(または単にノートル=ダム教会)は、マンドから国道N88を東へおよそ13キロ、さらに県道D74に入り北東へ2キロのところにあるラ・ルヴィエール(La Rouvière)の集落の、ほぼ中央に建っている。かつては周囲をすべて墓地で囲まれていたが、現在の墓地は聖堂南側に広がる。12世紀にこの地の小修道院付属聖堂として建てられたが、その後マンドの大聖堂(カテドラル)参事会の所有となった。1123年の教皇カリクトゥス2世の勅書がそれを確認している(12
37年には教皇グレゴリウス9世がやはり同様の勅書を出している)。16世紀の宗教戦争の時代、とりわけ15
58年に大きな被害を受けた。17世紀以降、修復が進められ、水平頭部の下に大きめのベイが2つ横並びで開く鐘楼(その上には小さな石の十字架が載る。鐘楼に現在1つだけ吊されている鐘は1832年のもの)がそれを戴く鐘楼壁とともに再建され、さらに身廊の北側に礼拝室が付け加えられた。また身廊南側に開くポルタイユもゴシック期に改修されたものである。現在では鐘楼壁を隔てて聖堂の西側に宿泊施設の建物が接続している。この建物はかつては司祭館で、それと聖堂内部と行き来するための出入口が聖堂西壁(鐘楼壁)に開いていたが、現在では埋められていて確認できない。

 このように修築・改修が重ねられているものの、ラ・ルヴィエールの聖堂は全体として創建時のロマネスク期の様子を今によく伝えるものとなっている。とりわけ目を引くのが五角形の後陣である。それぞれの面につけられた大きめの石で組まれた力強い半円アーチがアーケードとなって連なる。アーチは柱頭彫刻を介して円柱が受けるが、基壇部が高い位置にあり、円柱自体も長さが短いために、視覚的にはこれもまた太くて力強い印象を与える。柱頭彫刻は、全体的に摩耗が進んでいるために分かりにくい部分もあるが、最も南側のもの
が、「モンスターと戦う戦士」を表している。この戦士は、左手にアーモンドの様な形をした盾を構え、右手に剣(あるいは槍)を持ち、人間(らしきもの)を地面に組み伏せ押さえ込んだモンスター(まるでライオンのように猛々しい体つきをしている)と対峙している。戦士が登場する柱頭彫刻は、ジェヴォーダンでは他にも例えばナスビナルのポルタイユ[48.2.8]やラ・カヌルグのコレジアル[48.6.19a]の後陣に見出せる。しかしそれらでは戦士同士の戦いが表わされていたのに対して、ラ・ルヴィエールでは戦士が戦うのはモンスターである。この場面が中世の叙事詩に登場する騎士物語の世界の再現であるとの見方もあれば、あるいは悪と戦う信仰の力を表したものであるとする見方もある。南から2番目の柱頭彫刻には、柱頭前面を占める大きな体のライオンあるいはモンスターが、人間(柱頭の側面にいる)に襲いかかって打ち倒している。南から3番目の柱頭彫刻にも獣が彫られているが、摩耗が進んでいて細部の様子は不分明である。後陣の東から北側にかけてに並ぶ円柱の柱頭彫刻は、松ぼっくりをさげた植物模様である。なおこの後陣には、東端と南端の面に小さくて細長い開口部が開いている(後陣北面にはない)。後陣上部には軒持ち送りにモディヨンが並ぶ
が、それらに装飾彫刻は施されていない。モディヨンは後陣から扶壁のついた身廊部南側の壁にまで連続するけれども、そこではわずかに幾何学的な彫刻装飾が見られる。また身廊南壁ではポルタイユの左右両側において、モディヨンの列が段々に奥まっていく形の上下3段構えとなっている。ポルタイユはほとんど扶壁と言ってよい強固なポーチの中に開いている。この部分は15世紀に改修されたものである。一番外側の壁付きアーチの中に、2重のヴシュール(そのまま下部の基壇まで降りる)がつく。タンパンはない。
 聖堂内部は近年白く上塗りされるなどして改修・維持されている。3ベイからなる単身廊形式(内陣のベイを入れると4ベイ)で、東端に後陣が続く。聖堂の西端から東端までの長さはおよそ17メートル、横幅4メートル、高さは6メートルである。16世紀または17世紀に、西から3つめのベイの北側に、祭室と聖具室が増築された。祭室の方はもっぱら葬儀のために用いられた。この祭室の床には古い墓石が2つ埋められており、そのうちの1つには1171年と刻まれている。身廊には、西壁につけられたものも含めて4つの横断アーチが架かり、ごくわずかに尖頭形である(最西端のものが最もそれが分かる)。それらの横断アーチには、西壁のものを除いて、18世紀の繊細で美しい唐草模様やブーケの連なるフレスコ画が描かれている。また横断アーチはそれぞれ柱頭彫刻の施された円柱が受ける。その柱頭彫刻は、後陣外部に見られたものよりも単純化されてお
り、松ぼっくりや植物の葉、交差する茎などである。後陣は身廊部より幅が少し狭い。半円形(厳密にはわずかに五角形)の平面プランで、その上に半ドームが載る。5つの半円アーチがアーケードをなし、それらのアーチは大きな柱頭彫刻を介して6本の短い円柱が支える。ここにある柱頭彫刻のテーマは、パルメットその他の植物の茎、松ぼっくりなどであるが、図像的には単純化されたものである。
 
 身廊部の西から4番目のベイ、すなわち内陣のベイのヴォールト北側(聖具室への入口の上)に、14世紀終わりから15世紀前半にかけて描かれたと考えられるフレスコ画が残っている。そのテーマは「荘厳のキリス
ト」(Majestas Domini)で、横2.88メートル、縦1.81メートルの横長の長方形の中央に、四大福音書記者を表す4つの生き物(Tétramorphe)に囲まれたキリストが薄青い衣の上に赤いローブをはおり、ゆったりとした姿勢で玉座に座っている。左手に文字の書かれた聖書を持ち(聖書の上には十字架の載った地球儀があ
る)、右手で世界を祝福している。金色の髪と髭を豊かにはやして温和な表情をたたえるキリストの頭の後ろには赤い十字のついた光輪が輝いている。4つの生き物はそれぞれ四角い枠の中に収まっているが、最も左
下、すなわちマルコを表す羽の生えたライオンの隣に、さらに小さな枠がありその中に、このフレスコ画を制作・奉納した人物が描かれている。その名前も描き込まれていて、ジャンヌ・ヴァランタン(Jeanne Valen-
tin)という。彼女については詳細は不明であるが、赤いドレスを着て白いベールをかぶり、ロザリオを持ってキリストへ向かってひざまずき、祈りを捧げている。コーニスをはさんで、このフレスコ画のすぐ下に、大きく剥落してはいるが、やはり2人の巡礼が描かれていることからも、ジャンヌ・ヴァランタンというこの女性が、巡礼に出かけることを(あるいは出かけるにあたって)祈願をしているものと考えられるのである。4つの生き物やそこにつけられた吹き流しの描き方、それらを各々四角い枠の中に配置するやり方、画面全体を植物模様の帯で囲んでいること、それらの彩色技術など、ラ・ルヴィエールのフレスコ画は、ロゼール県北部のグランリュー(Grandrieu)にあるサン=マルタン教会[48.3.4a]の身廊南側側室に残るフレスコ画との類似性を指摘することができる。両者とも制作年代は同時期のものである。ラ・ルヴィエールではこの「荘厳のキリスト」の上方、つまりヴォールトの最上部に、やはり唐草模様の帯に囲まれた円形のフレスコ画が残り、放射される光の中央には鳩が描かれている。この円形画は18世紀のものである。なお聖堂内には、オーヴェルニュなどでしばしば見かけるような、黒い聖母子座像が置かれている。12-13世紀頃のものであるという。
Nougaret et Saint-Jean(1991)p.294; Pérouse de Montclos(1996)p.481; Trémolet de Villers(1998)pp.279-284; Verrot(1994)pp.84-87; RIP.




48.5.3a ラヌエジョル/サン=ピエール教会(Église Saint-Pierre, Lanuéjols)
 ラヌエジョルのコミューンは、マンドの南東に位置し、行政的には南マンド小郡(canton de Mende-
Sud)に属する。マンドからは国道N88とN106で聖プリヴァのエルミタージュのあるミマ山およびマンド高原(Causse de Mande)を西側から大きく迂回し、サン=ボジルを経由して県道D41を東進するか(およそ20キロ)、マンドから細い県道D25で南に向かい、マンド高原を直接越えて行くか(約11キロ)である。ここラヌエジョルは、村の南西端に古代ガロ・ローマ時代の大きな霊廟(mausolée romain)が残っていることで知られる。建設された年代は、紀元2世紀後半あるいは3世紀、または4世紀頃と諸説あってはっきりしな
い。霊廟入口に架かるリンテルに刻まれた碑文から、建設者はルキウス・ユリウス・バシアヌスとその妻ポンポニア・レガラで、この夫婦が、亡くなった2人の息子のために建てたことが分かる。8段の石段がついたプラットフォームの奥に、ほぼ正方形の霊廟本体があり、リンテルの上下につけられた半円形アーチや、霊廟東面の内側にある「アルコソリウム」の上の半円アーチには、古代の豊かなフリーズが残されている(唐草模様やキューピッド、ボウルに載せられた果実とそれを左右から囲む鳥たちなど)。それにしても、この霊廟やその周囲に残されている石積みを見る時、古代ローマ時代の建築物の切石(ブロック)の大きさには驚かされる。ローマ人が建築においていかに並外れた情熱(あるいは労苦)を費やしたかが、あらためてうかがい知れるのである。
←mausolée romain

 ラヌエジョルのサン=ピエール教会は、ローマ時代の霊廟から北西に100メートルと少しのところ、県道D41の北側に広がるこの村のほぼ中央に位置し、北から南へと下るゆるやかな斜面に建っている。聖堂全体がこの地方の凝灰岩で造られていて、ロゼール県において最も美しい聖堂のひとつとも言われる。建設は12世紀である。ランゴーニュのサン=ジェルヴェ=エ=サン=プロテ教会[48.3.6]と同じように、オーヴェルニュ南部・ヴレィ地方のル・モナスティエにあったサン=シャフル修道院(Abbaye Saint-Chaffre du Monas-
tier)に属していたとされる(ただし異説もあり)。聖堂の南側と東側は村の墓地となっている。西ファサードはいたって簡素で、身廊部の中心線から南に少しだけずれたところに尖頭形のポルタイユが開き、その上に丸窓がつけられている。このポルタイユはゴシック期以降につけられたもので、上部を縁取るアーチ状のモールディング以外にはとくに彫刻装飾の類は見られない。墓地に面した聖堂南側の壁(14世紀)にも尖頭形の大きめの窓が2つ開くだけで扶壁はない。軒持ち送りには俵模様や「X」などの単純な幾何学的模様のモディヨンが並んでいる(トランセプトの上部も同様である)。

 後陣は12世紀に建設された当時の雰囲気を今によく伝えている。五角形の主後陣とその左右に小後陣が並
ぶ。主後陣の東面、北面、南面に半円頭部の窓が開いている。主後陣の東北面と東南面には、それらの窓よりも大きな半円頭部の壁アーチ(ニッチ)が、窓の開く面と交互に並ぶ形でつけられている。最東面の窓の上にはひときわ大きな組石によるアーチが埋め込まれていて、それを左右で小円柱が支える。その小円柱には冠板と丸い基石(トルス)、そしてアカンサスや渦巻きなどの植物模様の柱頭彫刻がつけられている(左右で模様が異なる)。これらの窓および壁アーチは、後陣の上半分の高さに並んでいるために、視覚的にも後陣の高さがいっそう高く感じられる。上部のコーニスには、幾何学的な模様のモディヨンが並ぶ。多くは縦弓状模様や俵模様であるが、一部に動物の頭も見られる。小後陣は南北(左右)ともそれぞれ4つの面が東側を向く。北側(向かって右側)の小後陣には東面のみに開口部がある。主後陣と同じような半円形の石組みアーチの内側に左右を小円柱(その柱頭彫刻は摩耗しているが植物装飾である)に支えられた筒状アーチがつき、その内側に細長い方形の窓が開けられている。この小後陣の上部のコーニスには、小さなビエット(四角い小ブロック状の装飾模様)が横にずらりと並んでいる。南側(向かって左側)の小後陣は、聖堂自体が斜面に建っているために、北側のそれよりも高さがある。やはり東面のみに開口部が開くが、小円柱などはみられず、外側に向けて隅切りされた半円頭部の小さな窓が見られるのみである。交差部の上に建つ鐘楼は、かつては多角形であったものがフランス革命の際に破壊され、のちに再建されたものである(三角形の切妻形頭部)。
 聖堂内部は、3ベイからなる身廊の東に、トランセプト、内陣、後陣と続く。修復による上塗りなどは施されていないので、壁面や柱の石積みがそのまま建物自体の古い歴史を伝えるものとなっている。身廊の天井
は、半円筒形トンネル・ヴォールトで、半円形(しかしごくわずかに尖頭形)の横断アーチを、壁付きの短円柱(人面などの装飾付き)の形をしたキュ・ドゥ・ランプ(cul-de-lampe)が受ける。このあたりは14世紀のものである。身廊の南側の壁は尖頭形の大きなアーチの開口部を隔てて、あたかも側廊のように14世紀に増築されたラ・トリニテ礼拝室(Chapelle de la Trinité, 1317)と、サン=ジョルジュ礼拝室(Chapelle St-
Georges, 1339)が並ぶ。そのうちサン=ジョルジュ礼拝室は、中世期この地を支配していたトゥルネル男爵によって増築されたものである。壁面にはゴシック様式の尖頭アーチのニッチ墓(enfeu)がある。その下部につけられた左右の小円柱様装飾の上のインポストには、それぞれ人間あるいは動物の顔や植物の葉などが彫刻されているが、その中にトゥルネル男爵家の紋章を認めることができる。この2つの礼拝室については、文献によって混同が見られるが、トゥルネル男爵家の紋章を見いだすことができるのは、2つのうち東側の礼拝室(すなわち西から2番目のニッチ墓)においてである。なおこの側廊様の礼拝室の西端の壁には、17世紀の祭壇の上部を飾っていたと思われる金色に塗られた木製の断片が吊されている。父なる神が左手に地球を持
ち、右手で世界を祝福している。この祭壇は、もとは14世紀からトゥルネル男爵家の本拠地であったボイ城
(Château du Boy)にあったものであるとも言われる。
 
 身廊とトランセプトの交差部は、4面すべてを2重の半円アーチに囲まれ、したがって4隅それぞれにおいて2本ずつの壁付き円柱が、ピア(束ね柱)のようにして交差部の4つのアーチを受ける。ただし交差部の西側のアーチは、身廊と内陣を隔てる「凱旋アーチ」(勝利アーチ)であって、そのアーチの西側は3重になっており、左右でこれもまた壁付き円柱がピアとなってそのアーチを受けている。交差部に見られるこれらの壁付き円柱の柱頭彫刻は、単純なアカンサスが多いが、後陣側のそれには、横線の並ぶ冠板の下に、獣にはさまれた人間の姿が認められる。ライオンの穴の中のダニエルであろうか。その他に組紐紋様の柱頭なども見いだせ
る。交差部には、4隅の半円アーチ形のトロンプの上に、中央部に丸窓が開くクーポールが載っている。内部は曲面状のドームであるが、外部は八角形である。主後陣内部はゆるやかな五角形で、床から2メートルあまりの高さにある基壇列の上に柱頭彫刻のつけられた6本の細い小円柱が立ち、その上に5つの半円アーチが、大きいものと小さいものが交互になって並ぶアーケードとなっている(大きなアーチの下にはステンドグラスのはめられた窓が開いている)。小円柱の柱頭彫刻は単純化されたアカンサスや、下から上に向けて広がる植物の茎や丸い実など。アーケードの上にはコーニスがつけられ、さらにその上に半ドーム(cul-de-four)が載る。主後陣の南北につく小後陣は、それぞれ半円形平面で上部には半ドームが載るが、北側のものには、ビエット模様とジグザグ模様のモールディングのアーチによって上部を縁取りされ、さらに左右を細い小円柱にはさまれた隅切りの中に、長方形の小さな窓が開いている。さらにその上にはモールディング状のコーニスがつけられ、幾何学的なモディヨン(摩耗が進んでいる)が並んでいる。聖堂の身廊や後陣の外壁にはよく見られるが、後陣(内陣)などの内側にモディヨンが並ぶというのは、非常に珍しいと言える。南側の小後陣にも、内部に向けて隅切りされた半円頭部の開口部がつけられているが、これは簡素なもので、装飾の類は見られない。
 ラヌエジョルのサン=ピエール教会は、14世紀の増築なども見られるが、ロゼール(ジェヴォーダン)にあって、古典的とも言えるロマネスク様式の美しい聖堂の1つである。とりわけ後陣は、外部・内部ともに重厚で、訪れる者に歴史の古さや空間構成の奥深さを感じさせるものとなっている。
Balmelle(1945)pp.28-29; Chastel(1981)p.15; DC, IIc, p.73; Morel(2007)pp.97-98; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.288; Trémolet de Villers(1998)pp.106-108; Trintignac, et al.(2012)pp.293-303; RIP.




48.5.3b ラヌエジョル/サン=ジュニエス礼拝堂(chapelle Saint-Geniès, Lanuéjols)
 ラヌエジョルからヴィトゥロール川に沿って県道D41を西へ約3.5キロ。ヴィトゥロール(Vitrolles)の集落を過ぎて、道は左に大きくカーヴして登りとなり、さらに今度は右に急カーヴしてすぐのところの左側の斜面に、山腹を徒歩で登るための木組みの階段が現れる。そこから細い山道を登ることおよそ100メートルで、山の上の開けた場所に建つサン=ジュニエス(またはサン=ジュニエ)礼拝堂に至る。標高は1038メートルである。ここは古くはガロ=ローマ時代にまでさかのぼる場所で、礼拝堂の土台部分は5世紀あるいは6世紀のものとされる。1834年に行われた修復工事の際に、中世の城郭の遺構が見つかっており、この工事を主導したブラン神父(abbé Brun)は、これがトゥルネル男爵の築いた城のもので、礼拝堂はこの城の一部であったのではないかと考えた。ボワソナード神父(abbé Boissonade)が行った1869年の発掘調査の際には、人骨のほか、槍などの鉄製の武器の一部、鎧の装飾具、鎖、ナイフ、そして古代のものと思われる陶器の破片などが見つかっている。
 聖堂はもとは13世紀頃の建設とされる。横幅約5メートル、長さ約6.5メートルの、石灰岩でできた小さな礼拝堂で、南側の壁は東半分が斜めに広がる台形となっている。これは聖堂自体がわずかに斜面となった場所に建っているという理由によるのであろう。屋根は三角形で、西ファサードには19世紀の修復の際につけられた扁平アーチの大きなポルタイユが開く(地表から3段の石段を登る)。その上には小さな縦長の開口部と、さらにその上にやはり19世紀の三角頭部の小さな鐘楼が載る。聖堂の東壁は平らで、建物の南北の壁も含め
て、装飾の類いはまったく見あたらない。聖堂内部は、半円筒形トンネル・ヴォールトの載る四角い単純な空間であり、奥にはこれもまた最近のものと思われるシンプルな祭壇が置かれているだけである。ただし、南北の壁にはそれぞれヴォールトの起点部分に、横長の帯状の出っ張りが残されている。それはあたかも「ロンバルディア帯」のように、ニッチの半円アーチが2つずつ連続して並ぶものである。まるでアルコソリウム(壁龕墓)のようにも見える。ここは古くから巡礼の訪れる場所であった。この地の泉水が、とりわけ皮膚病や発育の悪い子どもたちの治癒にとって効能があるとされ、そうした子どもたちが、ヴィヴァレーやマンド、そしてニーム地方から親に連れられて多くやって来たという。聖堂の中のこのニッチのアーチの中には、こうした巡礼たちが奉納物などを置いたり、あるいは聖人の聖遺物が置かれたりしたのであろうか。病気治癒という目的以外にも、雨乞いや収穫祈願などのために人々はここを訪れた。例えば1893年6月には、そのために200名もの人々がこの礼拝堂に集まっている。サン=ジュニエス(アルルの聖ゲネシウス)は、3世紀中頃に殉教したローマ時代の聖人であると思われるが、この聖人に対する崇敬もまた、この地への巡礼熱に一役買っていたと言えるであろう。
Trémolet de Villers(1998)p.108; Trintignac, et al.(2012)p.302; RIP.




48.5.4 サン=ボジル教会(Église de Saint-Bauzile)
 マンドから国道N88とN106で南に向かって約12キロ。サン=ボジルの教区教会(église paroissiale)は、N106から県道D41をおよそ800メートルほど西へ入ったサン=ボジル・ヴィラージュ地区のほぼ中ほどにあ
り、西側を村の墓地に囲まれている。この地にあった小修道院の付属聖堂で、12世紀終わり頃から13世紀初め頃にかけて建設された。史料の初出は13世紀(1239年)である。14世紀に入ってすぐに、アヴィニヨンの教皇クレメンス5世の認可のもとマンド司教の管轄下に置かれ、その世紀の終わりにはマンドの司教座聖堂参事会がこの小修道院を所有した。宗教戦争期にはマチュー・メルル率いるプロテスタントに占拠されている。近年の改修によって聖堂外部はすべて白く上塗りされており、古さはあまり感じられない。高さのある後陣には南北に縦長の小さな開口部がそれぞれつけられているだけで、それ以外には何もない(まるで「ドラム缶」のようである)。16世紀以降に、身廊の南北にそれぞれ2つの祭室が、あたかも側廊のように増築された。また内陣の南側にも聖具室が加えられた。19世紀には鐘楼も現在のシンプルなもの(細長くてベイが1つだけのもの)に付け替えられている。内部は、文献によると、2ベイからなる身廊に半円形平面プランの後陣が続
く。身廊には半円筒形のトンネル・ヴォールトが載り、横断アーチと凱旋アーチは柱頭彫刻を伴った壁付き円柱が受ける。半ドームが載る後陣には2つの窓が開き、それらは両側を小円柱に囲まれている。堂内に置かれている黒い聖母子像は、オーヴェルニュから広まったもので、17世紀に作られたものである。なお近代になって改築されたポルタイユは聖堂南側の増築された側室部分にあり、2重の半円形ヴシュールの下に開いてい
る。ポルタイユの左右には簡単なアカンサス彫刻を施された柱頭彫刻がつけられている。聖堂の西側には、かつての司祭館が接続する。現在それは村役場となっている。
Balmelle(1945)p.59; Trémolet de Villers(1998)p.109; RIP.




48.5.5 バルシエージュ/サン=マルタン教会(Église Saint-Martin, Balsièges)
 マンドから国道N88を南へ約7.5キロ。分岐する国道N106に入って約200メートル、ロー川を渡ってすぐのところに、川に面して建つサン=マルタン教会の後陣と鐘楼の素朴で美しい姿が目に入る。この聖堂の史料における初出は1237年で、その時期この地にあったマンド司教オディロン・ドゥ・メルクール(Odilon de Mercœr)の所有する城に付属するものであった(司教の城はすでに消滅)。聖堂はもとは12世紀後半の建設であるが、宗教戦争期の1580年にマチュー・メルル率いるプロテスタントの一団によって破壊され、その後再建された。1880年と1972年にも改修工事が行われている。近年の改修によって薄く上塗りされた大きな後陣には、南北に小さな開口部があるが、東側には上部に小さな丸窓が1つ開くだけである。コーニス(軒持ち送り)には、無装飾のモディヨンが身廊上部まで短い間隔でずらりと並べられている。三角頭部の横幅を感じさせる鐘楼(1ベイ)は、さらに左右両側を斜めにつけられた扶壁で支えられている。聖堂南側においては、その扶壁から西側にさらにもう1つ扶壁をへて、半円アーチを収める大きなポーチ(この上部にもモディヨンの列がある)が続き、その中にポルタイユが開く。ポルタイユは扁平アーチが載るシンプルなものである。内部に入ると、上塗りされていない壁面やヴォールトの石積みをそのまま見ることができる(上塗りは20世紀後半に取り除かれた)。したがって、再建されたとはいえ全体的にロマネスク期に建設された当時の雰囲気がよく残されている。身廊は4ベイでその東に内陣が続く。身廊の南北に壁アーチ(arc murale)がアーケードのように並ぶ。北側のアーチは半円形で、南側のものは尖頭アーチである。それぞれのアーチの上部には南北ともにステンドグラスのはめられた窓が開く。天井は半円筒形トンネル・ヴォールトで、コーニスまで降りた横断アーチはキュ・ドゥ・ランプ(無装飾)が受ける。ただし、西から3つめの横断アーチは壁付き円柱が受ける。この円柱の基壇部分は聖堂建設当時(12世紀)のものであると思われる。半ドームの載る半円形平面の後陣(内陣)には前述の3つの開口部(窓)と聖具室への入口があるだけで、アーケードや円柱のような仕様はない。祭壇(16世紀)の奥に、石灰岩で造られたキリスト磔刑の見事な十字架が置かれている。17世紀あるいは18世紀のものとされ、もとは近くの墓地に置かれていたのを20世紀の終わりに聖堂内に移したものである。十字架の左右の腕の先端には渦巻き彫刻が施されている。ポルタイユが開く身廊の最も西のベイには、聖水盤が置かれ、西壁には18世紀の木製の講壇(chaire)が作られている。
Balmelle(1945)p.5; Denisy(1986)pp.39-42; Trémolet de Villers(1998)p.110; RIP.




48.6 マルヴジョル(Marvejols)周辺

48.6.1 サン=レジェ=ドゥ=ペイル(ペル)/サント=リュシー教会
                       (Église Sainte-Lucie, Saint-Léger-de-Peyre)
 マルヴジョル小郡(Canton de Marvejols)の最も北に位置する。マルヴジョルからは県道D809を北へおよそ9キロ、あるいは高速道路A75のル・ビュイソン(Le Buisson)出口33からD809を南へおよそ2.5キロ
で、D11およびD253との交差点であるラ・ルヴィエール(La Rouvière)に至り、そこから「ジェヴォーダンの狼パーク」(Parc à loups du Gévaudan)への細い登り道が分かれる。その登り道を2キロほど進むと一番奥にサント=リュシーの集落があり、聖堂はその集落の西端(「狼パーク」の入口の正面)に建っている。聖堂西側にほぼ同じ高さで司祭館(管理人の住居)が接続しているために、一見して東西に長い建物のように見えるが、聖堂自体はその半分で、東西の長さは16メートルである。大きさが異なる上下2段のベイからなる鐘楼が、聖堂の東西の軸線とは直角方向に、すなわち南北方向を向いて聖堂西端の壁の上に立つ。そこに登るための石段がポーチとなっており、その中に長方形のシンプルなポルタイユが開いている。後陣は七角形であ
る。最東面には上部に小さな横長の四角い開口部がついている。南から2番目の面に、大きな半円頭部の窓が開いている。それ以外に後陣には開口部は見られない。この後陣の上部には彫刻の施されたモディヨンがずらりと並んでいる。イヌなどの動物の頭、人間の顔(髭を生やしているものもある)、幾何学模様など。このモディヨンの列は身廊部には及んでいない。
 聖堂内部はこれもまたシンプルな単身廊で、東側には南北につけられたピラストル(方形の壁付き柱)を境に、半円形平面の後陣が続く。このピラストルの上には横断アーチは見られない。かつてはそれが架かっていたものと思われるが、長い歴史とともにこの聖堂に数多く加えられた改修によって失われたのであろう。身廊部の天井は、多少扁平な半円筒形トンネル・ヴォールトである。このヴォールトと後陣に載る半ドーム、そして身廊の側壁は、すべて修復のうえ白く上塗りされている。後陣南側と身廊の南壁に開く開口部は内部に向けて大きく隅切りされている。身廊北側の壁には尖頭形の大きな壁アーチがついている。身廊西壁には、隣に続く司祭館との間を行き来するための方形の出入口が開けられている。聖堂の南側はこの村の古い墓地となっている。夏などは隣接する「狼パーク」にやって来る家族連れの行楽客などでこの村もにぎやかになるが、サント=リュシー教会には、そうした喧噪とは無縁の静かな時がいつも流れている。
Balmelle(1945)p.68; Trémolet de Villers(1998)p.187; SAF, no.5, p.328.




48.6.2a モンロダ/サン=ジャン=バティスト教会(Église Saint-Jean-Baptiste, Montrodat)
 マルヴジョルから県道D1を西へ約4キロのところに大きなロータリーがあり、そこから北へ折れて丘を約500メートルほど登るとモンロダの集落に至る。サン=ジャン=バティスト教会は、その村のほぼ中央に、村役場と向かい合って建っている。村役場や教会の周囲の広場、駐車場などは最近の工事によってきれいに整備された。洗礼者ヨハネに捧げられたこの聖堂は、もとはこの広場の北側から東側にかけて建っていた封建時代の城塞の付属聖堂であった(城塞の塔のものと思われる遺構の一部分が新しく建てられた村役場の建物に残っている)。この地は、より古くはモントロカ(MontrocaまたはMonte-Rocato/Mont de la roche)と呼ばれ、ローマ時代のカストルムがあった。聖堂はそこにあった異教の神殿のあとに建てられたものとも言われ
る。いずれにせよ、この聖堂の名が史料に初めて現れるのは1155年のことである。周辺に強力な支配権を行使していたモンロダの領主ドゥ・モンジェジュー家(De Montjézieu、村役場に残る塔の壁に、丸い円を3つ組み合わせたこの家の古い紋章が埋め込まれている)が、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院とともにこの聖堂を所有した(バルメルはマルヴジョルのコレジアルの所有としている)。宗教戦争の時代に大きな被害を受け(城塞もその際に取り壊された)、以後修復と改修が重ねられてきたが、それにもかかわらず12世紀ロマネスク期の面影をよく伝える。

 サン=ジャン=バティスト教会の平面プランはいわゆる「ラテン十字」形である。西壁は上部に尖頭形頭部の窓、その下に半円形頭部で縦長の窓が2つ並ぶ。それ以外には装飾の類は見られない。身廊南側は西から順に、下に向けて段々に広がる幅広で力強い扶壁にはさまれた開口部のないベイ、方形で尖塔を戴く鐘楼(近代のもの。花弁模様の彫刻された石が上部開口部の下に埋め込まれている)、半円頭部の細長い開口部が開くトランセプト、内陣の南側に増築された聖具室(小さめの方形の窓が開く)、五角形の後陣、さらに聖堂北側に張り出す反対側のトランセプト(南側と同じ仕様の開口部がある)、そして身廊部北側に増築された側室と続く。聖堂北側の西端のベイでは、垂直の扶壁と斜めにつけられた扶壁が2重に重ねられて壁面を支えている(こうした例は他では見られない)。後陣は北側の2面が、宗教戦争期に破壊される前の、かつての面影を残している。すなわち半円形で地面まで降りる壁アーチとその内側に開く半円頭部の窓である。とりわけ北東面のそれには、外側の壁アーチの内側に2重のヴシュールを伴っている。後陣のこの2面には、上部にコーニスも残っているが、そこにモディヨンなどは見られない。
 近代になって建てられた鐘楼の下はポーチとなっており(植物の茎模様の柱頭彫刻を持つ小円柱がポーチの入口の左右でアーチを受ける)、その中に、3重のヴシュールを持つ方形のポルタイユが開く。聖堂内部は尖頭形トンネル・ヴォールトが載る2ベイからなる身廊に、東へ向けてトランセプトの交差部と内陣(後陣)が続く。交差部の上は交差ヴォールト、後陣には半ドームが載る。身廊の横断アーチは尖頭形のピラストルで、単純な線刻による植物模様の柱頭彫刻の施された円柱がそれを受ける。身廊部の南側の2つのベイと北側の西から2つめのベイには、半円形の壁アーチが並ぶ。南側のそれには、壁アーチの中に内側に向けて隅切りされたかつての半円頭部の開口部が残されている(今は埋められている)。交差部の4隅は、半円アーチを受けるピラストルに円柱が組み合わされたピアとなっている(ピアの基盤の高さが後陣側と袖廊側では異なる)。それらの円柱の柱頭彫刻は、ロマネスク期によく見られる組紐文様である。後陣内部は七角形であるが、外側同様に最東面およびそこから北半分がコーニスの上に立つ小円柱の上に半円アーチが並ぶアーケードになっている。それらの小円柱の柱頭彫刻は線刻風の編み目模様やダイア柄、あるいはシンプルなアカンサスである。南北の面に開く開口部は内部に向けて隅切りされている。後陣の南半分には、内部に向けて隅切りされた開口部のみで、アーケードなどはない。最南面には聖具室への扉がついている。トランセプトは南北ともに内部に向けて隅切りされた半円頭部の開口部以外には、これといった装飾の類は見られない。
Balmelle(1945)pp.45-46; Morel(2007)p.100; Trémolet de Villers(1998)pp.187-189; SAF, no.5, pp.114-117; RIP.




48.6.2b モンロダ/ブルドワールのサン=ジャン=レバンゲリスト礼拝堂
              (Chapelle Saint-Jean l'Evangéliste de Bouldoire, Montrodat)
 緑豊かなクラニエ川の渓谷に建つ絵のような小聖堂である。マルヴジョルから県道D1を西へ約4キロ行ったところにあるロータリーのそばに建っている。モンロダの村への上り口にあたる。この礼拝堂は福音書記者のヨハネに捧げられたものであるが、丘の上のモンロダの教会が洗礼者ヨハネに捧げられていることもあって、文献によってはしばしばこの両者が混同される例も見られる。かつてここからマルヴジョルに向かう途中にあったサン=マルタン=デュ=クラニエ教会(Saint-Martin-du-Coulagnet[48.6.3])に属していた(サン=マルタン=デュ=クラニエ教会はさらに、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院の傘下にあった)。ブルドワールのこの礼拝堂は、1ベイの身廊に半円形平面の後陣がつくだけのごく小さなものである。西ファサードにはゴシック様式の出入口と、その上に「四つ葉」形の(あるいは「ギリシア十字」形の)小さな開口部がつく。その開口部の向かって右側には十字架が組み合わされた紋章の彫刻が、また左側には円が3つ組み合わされた紋章の彫刻が埋め込まれている。この後者は、モンロダの領主であったドゥ・モンジェジュー家(De Montjézieu)の紋章である。また十字架の組み合わされた紋章は、ポルタイユ上部のゴシック式尖頭アーチの頭頂部にも埋め込まれている。西ファサードの南側には斜めに広がる強固な扶壁がつけられている。身廊と内陣のそれぞれ南側にはゴシック様式の細長い開口部が開く。身廊北側および半円形平面の後陣には開口部はない。聖堂内部は、文献によるとこれもまた外観同様にシンプルで、身廊は1ベイ、半円形平面の後陣の上には半ドームが載る。17世紀、この場所には小さなエルミタージュ(隠修所)があり、フランシスコ会の隠修士がひとり住んでいたという。また礼拝堂の西側の小さな囲い地は、かつては古い墓地であった。
Trémolet de Villers(1998)pp.189-190; RIP.




48.6.3 マルヴジョル/サン=マルタン=ドゥ=クラニエ教会
                    (Église Saint-Martin-de-Coulagnet, Malvejols)▲
 文献によると、マルヴジョルからクラニエ川に沿って県道D1を西へ少し行ったところにある。しかし現在は農家に転用されてしまっていて、筆者にはその場所はついに確認できなかった。聖堂の身廊部は家畜小屋と納屋に変えられているという。後陣は外側は五角形、内部は半円形で、コーニスの上に半ドームが載る。内部に向けて隅切りされたロマネスク様式の大きな窓が開いている。1091年にモンロダの領主ユーゴン(Hugon de Montrodat)がこの聖堂をマルセイユのサン=ヴィクトール修道院に寄進している。
 なおマルヴジョルは、14世紀になってマンド司教がフランス国王と結んだ協約(paréage)ののちは、国王から派遣される代官が駐在した。この街にはロマネスク時代の聖堂は残されていない。街の西側にはコレジアル聖堂であるノートル=ダム=ドゥ=ラ=カルス(Collégiale Notre-Dame-de-la-Carce)がある。もともとは12世紀のロマネスク聖堂であったが、宗教戦争の際に破壊され、17世紀に全面的に建て直されたものであ
る。また有名なシャネル門(Porte de Chanelles)の東、すなわち市街環状道路の南東部に位置するコルドゥリエ広場(place des Cordeliers)のスーパーマーケットの駐車場の一角に、17世紀のコルドゥリエ修道院付属教会の遺構が残っている。この修道院は、18世紀にマルヴジョルを襲ったペスト禍の際には、数多くの患者を収容したという。遺構の北半分は、現在はカフェとレストランに改造されている。南側に背の高い後陣の壁面が残り、そこには崩れかけた背の高い扶壁が並んでいる(写真)。
Balmelle(1945)p.46; Denisy(2006)p.150; Ignon(2012)pp.22-23;
Pérouse de Montclos(1996)p.286; Trémolet de Villers(1998)p.187.
(←マルヴジョルのコルドゥリエ修道院付属教会)



48.6.4 ガブリアス/ノートル=ダム教会(Église Notre-Dame de Gabrias)
 マルヴジョルから県道D42を西へ約10キロ、グダール地区(Goudard)の手前およそ500メートルで左折して細い道を500メートルほど北へ進み、さらに右(東)に急カーヴして100メートルで、南側を墓地に囲まれたガブリアス(またはガブリア)のノートル=ダム教会に至る。何よりも後陣の外観が美しい。その形は五角形であり、大きめの石がきっちりと積まれている。5つの面にはそれぞれ中ほどの高さの所に、下部が外に向けて隅切りされた半円アーチがついており、ニッチのものと、小ヴシュールのついた半円頭部の縦長の開口部がその中に開くものが交互に並んでいる。その上のコーニスには、シンプルなモディヨンが並んでいる(そのうち東端の1つだけに十字架が彫刻されている)。後陣の一番北面の西隣には、奥行きのある半円形頭部の壁アーチがつく扶壁状の壁が少しだけ北に張り出している。身廊の南北には、鐘楼のすぐ西にトランセプト様の大きな祭室が増築されている。北側の祭室には北面に細長い開口部が1つだけ開く。南側の祭室の建てられた年ははっきりしていて1412年である。南面の壁に半円頭部の開口部が大小2つ並んで開いている。大きい方の開口部は外側に向けて隅切りされている。南側の祭室には東側の壁に鐘楼に登るための鉄製の階段がつけられていたが、最近になって撤去されて、そのおかげで後陣の外観がよりシンプルで端正なものとなった。後陣の背が比較的すらりと高いが、その左右に見える大きめのトランセプトのおかげで、全体のプロポーションの均整が取れていて非常に安定的な印象を受ける。鐘楼は下に向けて末広がりで、鐘が釣られるベイが1つだけである。身廊北側には扶壁ではさまれた側壁に半円アーチがつき、その中に半円頭部の開口部が開いている。身廊南側のトランセプトの祭室のすぐ隣には大きな扶壁があり、その中にポルタイユが開く。モールディングを伴った4重の半円形のアーキヴォルトがポルタイユの上に架かる。アーキヴォルトを構成するヴシュール自体には装飾は見られないが、内側から2番目のヴシュールは、左右においてインポストを経て柱頭彫刻のついた小円柱が支える(基部は丸いトルスである)。向かって左側の円柱の柱頭彫刻は、上部の3隅に膨らんだ花弁(あるいは貝殻か?)がつき、線刻風のパルメットが広がる。一方右側のそれは、やはり上部の3隅に膨らんだ花弁がつくが、パルメットの代わりに、下方に向けて光を放つ大きな星が彫刻されている。ポルタイユ自体は方形で、その上に載るタンパンには、ごく最近描かれた子羊を背負うキリストの絵が見られる。ポルタイユの西の身廊部南壁には扶壁は見られず、半円頭部で外に向けて隅切りされた開口部が、大小1つずつ並んでいる。身廊のさらに西側には住宅(司祭館)が直接続いている。
 聖堂内部は、文献によれば4ベイからなる単身廊に半円筒形トンネル・ヴォールトが載る。柱頭彫刻を持つ壁付き円柱の上に横断アーチが架かる。身廊の東側の南北には大きな祭室があり、凱旋アーチ(その上には鐘楼が立つ)は、これもまた動物の頭、貝殻、組紐、ブドウのツルなどのモチーフの柱頭彫刻を持つ円柱に支えられている。後陣内部は3面に窓が開き、それらは植物紋様などの柱頭彫刻を持つ小円柱に左右をはさまれている。後陣の上には半ドームが載っている。
Balmelle(1945)p.18; Trémolet de Villers(1998)pp.190-191.




48.6.5 グレーズ/サン=フレザル教会(Église Saint-Frézal, Grèzes)
 グレーズの丘陵(小山)は、マルヴジョルから県道D808を東へ6キロ、さらに左(北)に折れて約1キロ。マンドからは国道N88と県道D808で西へおよそ25キロである。ジョルダーヌ川の北に広がる緩やかな傾斜地帯に、周囲からひときわ孤立してその孤高な姿を見せる。ジェヴォーダンにおける交通路の要所でもあったため、古代以前からすでにこの山にはオッピドゥム(ガリア人の要塞集落)が築かれていた。古代ローマ時代から中世にかけて、引き続き城塞(castrum)が建設・維持され、避難所としての機能も果たしていた。3世紀後半、クロクス王に率いられたアラマニー人がガバル(ジェヴォーダン)を荒らした際に、近隣住民がこのグレーズの山に避難して立てこもった。住民の降伏と引き渡しを拒否した司教プリヴァ(プリヴァトゥス)が拷問を受け殉教したことで、グレーズの名はその後も長く記憶されることとなる(マンド[48.5.1]を参照のこと)。9世紀には、ジェヴォーダン司教であった聖フレザル(Saint-Frézal)がしばしばグレーズを訪れたようであるが、彼は826年に甥のバシリウスによって暗殺された。11世紀にはこの地はグレーズ副伯領となるが、12世紀になると、ジェヴォーダン伯を兼ねるようになったスペインのアラゴン王(バルセロナ伯)が代官
(baile, bayle)を派遣してこの地を支配し、善政によって秩序と平和が保たれたという。12世紀後半からはマンド司教がジェヴォーダンにおいてその勢力を拡大させるが、マルヴジョルとグレーズはフランス国王の管轄のもとにあった(La Bulle d'or, 1161)。しかし13世紀初め、アルビジョア十字軍の混乱の際にマンド司教(Guillaume IV de Peyre)は、一時的にマルヴジョルの王代官を放逐、グレーズの城塞を獲得したようであるが、ところがそれからほどなくして13世紀中頃のマンド司教オディロン・ドゥ・メルクールは、グレーズ副伯領をフランス国王に譲ることとなった(1266年)。1307年の「協約」(paréage)において、マルヴジョルを含めてグレーズ副伯領がフランス国王のものであることが再度確認されている。16世紀の宗教戦争の際、マチュー・メルル率いるプロテスタントの一団がこの地を占領した。その後17世紀になって、リシュリューの命により12世紀の城塞は完全に破壊されてしまった(1630年)。城塞はその後17世紀中に再建された。今日グレーズに残っているのはその遺構である。平面プランがほぼ正方形の強固でいかめしい建物で、南東角にこれもまた強固な塔が残る。窓は埋められている。18世紀の宗教戦争である「カミザールの乱」の際に被害を受けた。4つあった塔のうち、3つを失ったのはその時である。現在、この城塞は個人所有の屋敷の敷地内にあっ
て、中に入ることはできない。
 
                            Château de Grèzes

 グレーズ山の山頂は標高約1008メートルであるが、集落は山の中腹に東西に広がっており、城塞の遺構はその中ほどに、またサン=フレザル教会は集落の西端に建っている。この聖堂は別名をサント=マリー教会とも呼ばれた。史料での初出は13世紀である。1424年にはマルヴジョルのコレジアルの付属となっている。グレーズの山のなだらかな斜面に建っており、南側は村の墓地となっている。長い歴史の中で改修・増築が行われてきた。後陣は七角形で屋根の載るコーニスにはモディヨンが並ぶ。それは身廊の南北にもついている。その多くは無装飾のシンプルなものであるが、ところどころに球や俵の彫刻が残っている。後陣の南北の面に半円頭部の開口部が開く。最東面にはついていない。身廊北側の2つ並ぶ祭室のうち西側の祭室の上に方形の鐘楼が立つ。4面すべてに半円頭部のベイが開く。鐘楼の上は尖頭である。その塔の下部(すなわち塔の下の祭室)とその隣の祭室にはやはり半円頭部の大きな窓が開いている。身廊南側に増築された祭室(3つ並ぶ)にも半円頭部の大きさの異なる開口部がついているが、東から2つめの小さなものは埋められている。身廊は4ベイからなるが、南北に扶壁がつく。身廊南側の一番西のベイには半円頭部の窓、その隣の2番目のベイには方形の出入口がつけられている。西ファサードは上部が三角形の大きなもので、壁の左右をこれもまた太くて強固な扶壁にはさまれている。ポルタイユは円筒形モールディングの施された3重の半円形アーチのアーキヴォルトの中に開いている。その上には大きな丸窓(oculus)がつけられている。
 聖堂内部は、文献によると4ベイの身廊に半ドームの載る後陣(半円形であるがわずかに7面となっている)が続く。身廊はコーニスの上に、多少扁平となった半円筒形のトンネル・ヴォールトが載り、横断アーチは植物模様の柱頭彫刻を持つ壁付き円柱が受ける。尖頭アーチを介して身廊の南北に増築された17世紀の祭室はゴシック様式で、北側のそれは交差ヴォールト、南側のものは半円筒ヴォールトが架かる。内陣には金色に彩色された17世紀の豪華で美しい祭壇が置かれている。また聖堂内部の壁面の一部には、唐草などの植物文様のフレスコ画が残っている。
Balmelle(1945)p.21; Chabrol(2002)pp.98-102; Grimaud et Balmelle(1925)pp.130-132; Nougaret et Saint-Jean(1991)p.287; Trémolet de Villers(1998)pp.113-114;
Trintignac, et al.(2012)pp.196-201; Verrot(1994)pp.63-65.
  



48.6.6a パレール教会(Église de Palhers)
 マルヴジョルから県道D808あるいはD31で南へ4.5キロ。行政単位としてのパレールのコミューンは、D808とジョルダーヌ川をはさんむ形で南北に広がっており、南のパレール地区と北のブリュジェ地区にそれぞれ1つずつ中世の聖堂が存在する。南のパレール地区の集落には、D31から東へ150メートルほど入ったところに、かつて聖ヨハネ騎士団のコマンドリー(commanderie)であった建物の一部が残っている。13世紀にグレーズの領主リシャールがこの地を聖ヨハネ騎士団に寄進した。しかし14世紀初めにここに拠点を築いていたテンプル騎士団がフランス国王フィリップ4世によって解体された際に聖ヨハネ騎士団に与えられたとも言われる。いずれにせよこのコマンドリーは、ル・ポン=ドゥ=モンヴェールにあった同じ聖ヨハネ騎士団のギャップ=フランセ(Gap-Francès)のコマンドリーの管轄下に置かれた。フランス革命ののちは売却に付されてしまい、現在では当時の大規模な建物は、その壁の一部と塔を残すのみである。この建物の南側に、小聖堂であるパレール教会が接続する。聖堂のさらに南側はパレールの集落の墓地となっている。
 パレール教会の建設は、騎士団のコマンドリーと同じく13世紀以降で、ゴシック期のものである。平面プランは、2ベイの身廊と内陣、そして身廊の南北にそれぞれ1つずつ祭室がつき、およそギリシア十字の形となっている。特徴的なのは、内陣が通常とは逆の西を向いていることである。身廊南側の祭室の上に、大きくてがっしりとした方形の鐘楼が立つ。上部には各面に大きな半円アーチのベイが開く。その上には尖塔が載る。身廊の南北につけられた祭室の天井は交差ヴォールト、身廊の東のベイの天井は半円筒形トンネル・ヴォールトである。この身廊東側のベイの壁面には、ヴォールトの起点となるコーニスの下に、13世紀あるいは14世紀のフレスコ画が部分的に残されている。ダイヤ柄や縞模様などの単純な幾何学的モチーフとともに、大きくて美しい羽と尾を持つ2羽の孔雀(paon)が目を引く。恐らく聖杯(calice)をはさんで反対側にも同様に2羽の孔雀が描かれていたと思われる。この構図は、古代末期あるいは初期キリスト教時代以来、時おり聖堂のフレスコ画やモザイクなどに見られるものであるが(描かれる鳥は孔雀の場合もあれば鳩などの場合もある)、ジェヴォーダン(ロゼール)で見られるのは、知られる限りここパレールにおいてだけである。ちなみにこれ以外の壁面のフレスコ画は比較的新しい時代のもので、16世紀から18世紀までのものが混在している。
Bouniol(2008)pp.42-57; Trémolet de Villers(1998)pp.116-117; Verrot(1994)pp.70-71.




48.6.6b パレール/ブリュジェのサン=ジェルヴェ教会
                     (Église Saint-Gervais de Brugers, Palhers)

 ブリュジェは行政的にはパレールのコミューン内に属する。マルヴジョルから県道D808を南へ約2キロで東へ向けて左折し、細い間道をおよそ3キロ。「トリュック・デュ・ミディ」(Truc du Midi)と呼ばれる小山の麓に位置する閑村である。ここは古くからグレーズとジャヴォルを結ぶ街道沿いに位置していた。サン=ジェルヴェ教会は、ブリュジェの集落のほぼ中ほどに建っている。聖堂の南側は墓地であるが、墓石が割れたり朽ちたりしていてかなり荒れているという印象を受ける。その墓地からは「Lucius Severius Severus」の事績が刻まれた古代の墓碑(cippe gallo-romain)が見つかっている。この人物は、3世紀頃のガバルの有力なローマ系市民で、この地に壮大なヴィラを建設したと言われる。そのヴィラは、続く民族移動期に破壊されて消滅した。サン=ジェルヴェ教会では、19世紀に行われた聖堂内陣部の床面修復工事の際にも、やはり墓碑銘の刻まれた古代の円柱の断片が発見されており、こうしたことからもこの場所の歴史の古さをあらためて感じることができる。なおこの聖堂の名が史料に現れるのは1290年のことである。
 ブリュジェのサン=ジェルヴェ教会は、普段あまり使用されていないようで、内部外部ともに多少とも荒廃した印象を受ける。身廊の東側に、身廊より高さも幅も小さい後陣と、さらに小さい聖具室が、段々に狭まってゆく形で連続する。後陣も聖具室も平面プランは四角形で、最も東端の聖具室の東壁には三角形の切妻の頭頂部にほんの小さな開口部があるだけで、それ以外には窓はない。聖具室の南壁には方形の窓が開き、そこから幅のある扶壁を隔てて西側の後陣の南壁には外に向けて大きく隅切りされた半円頭部の窓が開く(上部には摩耗したモディヨンが並ぶ)。身廊南側には小さな三角屋根をつけられた扶壁が4つ並ぶ。そのうち中央の2つの扶壁の間が、外に向けて張り出したポーチとなっていて、扁平アーチの中に、さらに扁平アーチの頭部を持つポルタイユが開く。ポーチの上部にはコーニスとそれを支えるモディヨン(無装飾)が11個並んでいる。聖堂全体の外壁が漆喰で塗り固められているが、このポーチの部分は(身廊南側の最も西の扶壁の一部ととも
に)もとの石積みが露出している。聖堂の西面には、頭頂部に小さな十字架が載る三角形頭部でベイが1つだけの鐘楼(近代のもの)に登るための石段がつけられている。さらにこれもまた近代の丸窓が中央上部に開けられている。聖堂内部はわずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトの載る単身廊で、内陣の平面プランは方形である。ヴォールト部分や側壁には17世紀あるいは18世紀なってからのものと思われる彩色画が描かれているが、保存状態が悪く摩耗したり剥落したりしている。ヴォールトには薄青い空に星がまたたく。聖ヨハネ騎士団のシンボルであるマルタ十字の並べられた帯も描かれている。同じようにマルタ十字の彫刻された小さな墓石が墓地の片隅にも残されている。
Balmelle(1945)p.47; Bouniol(2007)pp.1-23; Bouniol(2008)pp.27-35;
Trémolet de Villers(1998)pp.117-118; Trintignac, et al.(2012)p.383.




参考文献と略記号
(各聖堂のビブリオグラフィーでは、文献などは和書、欧文文献、Web-siteの順に、またGVとRIPは最後に記した)
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GV :Guides de Visite.
SAFLa Sauvegarde de l'Art Français, Cahier, no.5, Paris, 1991.
RIP:Renseignements ou Informations sur Place.