東海大学紀要(文学部)第107号(2017年9月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである。2021.8.20)

南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(3)
Les églises romanes dans la Lozère(3):autour de Chanac, Chirac et Le Monastier.


                  中川 久嗣


 本稿では、前稿(「南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(2)」)に引き続き、ロゼール県の中部に点在する中世ロマネスク聖堂を取り上げる。具体的には、ロゼール県中部の西寄りに位置するシャナック(Chanac)からル・モナスティエ(Le Monastier、現在はブール=シュル=コラーニュ)、シラク(Chi-
rac)などのコミューンとその周辺地域を対象とし、そこにあるロマネスク聖堂について、可能な限り知りうるものすべてを訪問調査し考察を加える。
 地形的には、ロゼール県中西部にあって、ロット川(Le Lot)がコース・ドゥ・ソヴテール(Causse de Sauveterre)と呼ばれる石灰岩台地の北辺にうがつ渓谷と、そこから南東側のタルン渓谷にかけて広がる標高800メートル前後のなだらかな高原地帯である。中でもシラクからル・モナスティエ、そしてラ・カヌルグにかけての渓谷は、古くからジェヴォーダン(Gévaudan)とラングドックや地中海とを結ぶ道が通り、まさしく交通の要所であった。またこの地域は、中世においてはジェヴォーダンを支配した8つのバロニー(男爵
領※1)のうち、セナレやペイル(ペル※2)の領主の支配領域におおよそ相当する。とりわけペイル(ペル)一族は、現在のサン=ソヴール=ドゥ=ペイル(Saint-Sauveur-de-Peyre)のコミューンの南に位置するロック・ドゥ・ペイル(Roc de Peyre)の城を本拠地としてジェヴォーダン中西部一帯を支配していた強力な地方領主であった。ジェヴォーダンやミヨーの副伯家と姻戚関係を持つとともに、11世紀にはアルドゥベール1世・2世といったマンド司教をも輩出している。
 この地域は、11世紀中頃から、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院が分院を建てたり、あるいは小修道院や聖堂の寄進を受けてその勢力を延ばしてきたことでも知られる。例えばル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院[48.6.7a]がその好例である。サン=ヴィクトール修道院は、ジェヴォーダンでは北西部から南西部にかけての地域を中心に、数多くの修道院や聖堂を傘下に収め、サン=シャフル・デュ・モナスティエ(Saint-Chaffre du Monastier)やラ・シェーズ=デュー(La Chaise-Dieu)といったオーヴェルニュの修道院と勢力を競い合った。
 建築的には、この地域の聖堂はロゼール県の他の場所と同じく概して小規模~中規模で、多少とも後の時代の改修・改築の手が加えられているものが多く、単身廊形式、南北に付けられた小さめの祭室、複数個の鐘が横に並ぶ鐘楼(鐘楼壁)、多角形の後陣、身廊や後陣の上部に並ぶモディヨン、アーキヴォルト(ヴシュールの連なり)を伴って南側に開く扉口(ポルタイユ)、などといった特徴が見られる。特に共通するのは、後陣内部および外部に見られるアーケードに施された柱頭彫刻の様式、聖堂内部の凱旋(勝利)アーチやトランセプトの交差部周辺に見られるアーチ・円柱の仕様、そしてそこに施された柱頭彫刻、身廊の側壁に見られる半円形の壁アーチなどである。それらには、オーヴェルニュとプロヴァンスの双方からの影響も見ることができる。
 本稿で取り扱う聖堂は、前稿と同じく「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11-12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク」期を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれる。
 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、大まかな地
域、そしてコミューン(commune、日本の市町村にあたる)の順で番号を付した。同一のコミューンに複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した。なお、ここで言う「大まかな地域」は、前稿まではおおよそ行政区分の小郡《canton》ごとに整理していたが、カントンはしばしば再編されるため(直近では2015年)、本稿からはカントンに沿ったグループ分けはやめ、文字通り地理的な「大まかな地域」ごとにまとめることとした(コミューンは2016年時点のものである。その後、合併などによって変わっているものもある)。
 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」あるいは「礼拝堂」を用いた。個々の地名や聖堂の名称については、現地の慣用のものを採用した。
 採りあげる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし私有地であったりアクセス困難な場所にあるなどの理由で訪問出来なかった聖堂には▲を記した。写真画像は筆者の撮影による。誌面の都合ですべての聖堂の写真画像をここに掲載することはできない。それらは筆者開設のウェブページ
(http://nn-provence.com)で閲覧可能である。

※1 « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。
※2 « Peyre »の日本語表記は、通常は「ペル」または「ペール」となろうが、ロゼールの現地住民などの多くはオック語の伝統もあって現在でも「ペイル」と発音することが多い。したがって本稿では標準フランス語の発音に合わせるのではなく、さしあたってそのまま「ペイル」としている)

48.6 シャナック(Chanac)からル・モナスティエ(Le Monastier)、
                         シラク(Chirac)周辺まで


48.6.7 バルジャック/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Barjac)
 バルジャックはマンドから国道N88で西へおよそ14キロであるが、中世期にはジェヴォーダンに存在した8つの男爵領(バロニー)のうちの1つであるセナレ男爵領がこの地域を支配していた。セナレの城は、バルジャックのすぐ北に位置する。バルジャックのすぐ南のロット川の左岸には、古くからサン=ヴェランの泉がわき、その水によって子供の皮膚病が治癒すると言われ、子供連れの多くの巡礼が訪れたという。またその場所には小さな礼拝堂も建てられていたという。泉も礼拝堂も今はなくなっている。バルジャックに建つ現在のサン=プリヴァ教会は、13世紀中に建設が始められ、マンド司教ギヨーム6世・デュラン(またはギヨーム・デュラン2世、在位1296-1330年)が1324年に聖別・献堂している。建築的にはゴシック様式で、3ベイからなる単身廊に1ベイの内陣と、半ドームの載る半円形の後陣が続く。身廊と内陣の天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトで、横断アーチは人面彫刻の施されたキュ・ドゥ・ランプ(cul-de-lampe)が受ける。身廊の南北両側には尖頭ヴォールトとなった祭室が2つずつ並ぶ。これらの祭室のうち、西から2番目のベイの南北につけられた祭室(側室)には、それぞれれ尖頭形のアーチ型壁龕墓すなわち「アルコソリウム」(arcosolium/enfeu)が作られている。北側の祭室にはギザギザ模様の彫刻されたかなり古い聖水盤が、また南側の祭室には壁龕墓の祭壇の下に、「円盤形墓石」(stèle discoïdale)が1つ置かれている。円盤の中央にはギリシア十字が彫刻されているが、年代については不詳である(こうした円盤形墓石については、ブール=シュル=コラーニュ/パンのサン=マルタン教会[48.6.12d]を参照のこと)。
 後陣は外部にあっては五角形で、彫刻装飾の類は見られない。西ファサードには、一番上に丸窓、その下のファサード中ほどの高さの所に尖頭形で縦長の窓が2つ、そして一番下に、モールディングに縁取られた2重の尖頭アーチが載る扉口(ポルタイユ)が開く。聖堂南壁の、西ファサードから右手に回ったすぐの中ほどの高さの所に、男の頭部の彫刻が1つだけ飛び出すような形で埋め込まれている。方形の鐘楼は19世紀に建設されたものである。
Balmelle(1945)pp.5-6; Trémolet de Villers(1998)pp.111-112; RIP.
 



48.6.8 キュルチュール/サン=ピエール=エ=サン=ポール教会
                      (Église Saint-Pierre-et-Saint-Paul, Cultures )
 マンドから国道N88で西へおよそ10キロ。バルジャックからは県道D808に入って約3キロほどである。サン=ピエール=エ=サン=ポール教会の名前が史料に現れるのは13世紀中頃からである。キュルチュールの小修道院は、最初はサン=テニミー修道院(Monastère de Sainte-Enimie)に属したが、14世紀になってマンド司教に譲られた。さらに15世紀(1424年)になると、教皇マルティヌス5世によって、マルヴジョルのコレジアル(Collégiale de Marvejols)のもとに移管された。16世紀の宗教戦争の際には大きな被害を受け(特に1562年)、その後17世紀から18世紀にかけて、そして20世紀前半に修復が行われた。尖塔の載る鐘楼が建てられたのは19世紀になってからのことである。
 サン=ピエール=エ=サン=ポール教会の平面プランは、建設当時のもとの姿をとどめている。2ベイからなる単身廊の東に、内陣のベイが続く。このベイは奥行きの狭い側室が南北それぞれ付くいわばトランセプトを形作り、さらにその東は半円形の後陣となる。身廊とトランセプト(内陣)の間の天井には半円形の「凱旋
(勝利)アーチ」が架かるが、それを受ける壁付き円柱は、大きなアカンサス風の植物文様の施された柱頭彫刻のみを残して柱身自体は失われている。このトランセプト周辺が、創建当時のロマネスク期の様子を今によく伝える部分となっている。身廊ならびに後陣内壁は、近年の修復によって白く上塗りされてしまっている
が、トランセプトの南北の側室においては、ヴォールト部分や凱旋アーチ、そしてヴォールトや壁面などに、部分的に彩色された16世紀の美しい壁画が描かれている。その主要なテーマは、パルメットや花びら、植物のツル、積み石風図柄、菱形組紐文様、ギザギザ柄などである(なお一部の人物像などは15世紀とも言われる。Verrot,1994)。これらは時代をへて何度も上から重ねて描かれてきたために、一見して無秩序に露出・残存しているかのようである。
Trémolet de Villers(1998)pp.112-113; Verrot(1994)pp.58-62; RIP.




48.6.9 エスクラネード/サン=ティポリット教会(Église Saint-Hippolyte, Esclanèdes)
 マンドから国道N88で西へ約18キロ、シャナック(Chanac)からは東へ約1.5キロに位置する。サン=ティポリット教会は、ロット川(Le Lot)をはさんで、同じコミューン内のル・ブリュエル(Le Bruel)地区の対岸の集落の中に建っている。この地は古くはセナレ男爵領に属していたが、聖堂は13世紀にはここにあった小修道院のもので、14世紀にはマンド司教がその小修道院を所有していた。1562年(一部文献では1582年)にプロテスタント勢力によって破壊されたのち、1630年に再建された。聖具室は1721年に、また聖堂北側の司祭館と西ファサードの上に載る鐘楼は19世紀に建てられた。21世紀になってからも西ファサード、屋根、ステンドグラスなどの修復工事が進められている。
 聖堂南側には5重のヴシュールからなる美しいアーキヴォルトの載る扉口が開く。その扉口の左右両側には背の高い半円頭形の壁アーチがつけられ、その内側に半円頭形の窓が開いている。南側の側室(半円頭形の大きな窓が開く)をへて、外側が七角形の後陣となる。それぞれの面の間には扶壁がつく。東南面と北東面に開口部が見られる。聖堂の西ファサードは壁面の上部(方形の鐘楼のすぐ下)まで大きな半円形の壁アーチが立ち上がり、その内側にはアーチの頭頂部に方形の窓、下部には半円頭アーチを戴く扉口がつけられている。聖堂内部は、尖頭形トンネル・ヴォールトの載る4ベイからなる身廊に、半ドームの載る五角形の後陣が続く。身廊の南北の壁面は尖頭アーチが並ぶアーケードとなっており、身廊の最も東のベイの南北にはそれぞれ祭室がつけられている。凱旋アーチは尖頭形で、キュ・ドゥ・ランプが受ける。
Balmelle(1945)p.15; Trémolet de Villers(1998)p.369; RIP.




48.6.10a シャナック/サン=ジャン=バティスト教会(Église Saint-Jean-Baptiste, Chanac)
 シャナックは、マンドから国道N88で西へ約18キロ、ロット川の左岸(南側)に広がる小都市である。サン=ジャン=バティスト教会は、シャナックからサン=テニミー(Sainte-Enimie)方面へと向かう県道D31沿いにある(D31とD32の分岐点からD31を南におよそ400メートル)。古くからマンドとラ・カヌルグを結ぶ交通路の要所にあたる。12世紀にはこの地にバルセロナ伯(アラゴン王)が城を築いていた。この城は13世紀にマンド司教の所有となり、規模も拡張されたが、16世紀の宗教戦争の際には、カトリックとプロテスタント双方の争奪戦の的ともなった。17世紀になると再び修復拡張され「小ヴェルサイユ」と呼ばれるまでに整備されたが、その後はフランス革命による混乱もあって、火災により大きな被害に遭い、ロマネスク時代のドンジョン(方形の塔)だけが今日にまで残されることとなった。城には城塞礼拝堂もあったが、現存しない。
 サン=ジャン=バティスト教会は、12世紀後半から13世紀前半頃、マンド司教ギヨーム4世・ドゥ・ペイル(ペル/Guillaume IV de Peyre、在位1187-1223年)の時代に、シャナックの街の南東の外縁部に建設された。ロマネスク様式とゴシック様式が合わさっており、後陣部分は12世紀とも言われる。西ファサードには方形の大きな鐘楼が立ち、その鐘楼の一番上には3つのベイが開く。その下に尖頭アーチ(その中には丸窓がつく)が続き、そして一番下には、やはり尖頭形の大きなポーチがつき、その中にモールディングに縁取られた尖頭形のアーキヴォルトの載るゴシック様式の扉口が開いている。2重のヴシュールは、扉口の左右において葉飾り彫刻の柱頭を持つ円柱が受ける(円柱の基壇は多角形で、石積みの上に載っている)。後陣は、南北に側室が加えられているので3つの面からなる台形部分しか見えない。しかもさらにその東側に、屋根が斜面となって地上付近の低い位置まで降りる建物がつけられているので、後陣全体を外から見渡すことはできない。聖堂内部は3ベイからなる主身廊の南北に側廊がつく3廊式で、身廊と側廊の間は、半円形と尖頭形のアーチによるアーケードが連なっている。身廊の天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトで尖頭形の横断アーチが架か
る。半ドームの載る後陣の内壁は五角形で、半円アーチとそれを受ける柱頭彫刻つきの円柱がつらなるアーケードとなっている。この後陣アーケードの柱頭彫刻や身廊部のピア柱につく円柱の柱頭彫刻は、植物文様、人間の頭、鳥など、ロマネスク様式を模したものとなっている。内陣には17世紀~18世紀の見事な木製祭壇が置かれている。かつてシャナックの城塞礼拝堂に置かれていたものであるとも言われている。
Balmelle(1945)pp.11-12; Chastel(1981)p.7; Trémolet de Villers(1998)pp.367-369; GV; RIP.




48.6.10b シャナック/ル・ヴィラールのサン=プリヴァ教会
                       (Église Saint-Privat, Le Villard, Chanac)
 ル・ヴィラールは、シャナックから国道88をさらに西へ約5キロでロット川を渡る。サン=プリヴァ教会は川を渡って300メートル進んだ左側の小山の上にある。13世紀初め頃、マンド司教がこの地に強固な城塞を築いていた。もともとそこにあった小修道院付属の聖堂はノートル=ダム教会と呼ばれ、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院[48.6.12a]に属していたが(すなわちそれはマルセイユのサン=ヴィクトール修道院の管轄下にあった。これについては後述)、1300年にサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院からマンド司教ギヨーム6世・デュランのもとに委譲され、さらに1303年には教皇ベネディクトゥス11世(在位1303-1304年)が、ル・ヴィラールの城と教会を直接の保護下に置いている。マンド司教ギヨーム6世は、その後、ル・ヴィラールのこの聖堂を教区教会とし、傷みが進んでいたため修理を行なうと同時に、拡張工事も施した。この時にこの聖堂はサン=プリヴァ教会と呼ばれるようになった。16世紀には城がプロテスタント勢力に奪われ、聖堂も被害を受けた。その後は修復も行われたが、革命期になって再び荒らされた。
 ル・ヴィラールの城塞の城門は集落の西端に墓地に隣接して建っていて、半円頭形の出入口が2つの小円塔にはさまれて開いている。サン=プリヴァ教会はその城域の中にある。西ファサードの仕様はシャナックのサン=ジャン=バティスト教会[48.6.10a]と似ている。尖塔を戴く方形の鐘楼がそのまま背の高い半円頭アーチを収めるポーチとなり、尖頭形の窓と扉口がその下に開いている。扉口は外側のアーキヴォルトは半円形であるが、その内側のアーチは尖頭形となっている。この鐘楼、ポーチ、その脇の鐘楼に登るための階段などは19世紀のものである。もともとの鐘楼は、身廊と後陣の間の凱旋アーチの上にあった(今は消滅)。後陣部分は、城壁や近代になって増築された側室(聖具室)に部分的に隠されていてその形が分かりにくいが、12世紀のロマネスク期のものである。後陣内部も同様に古いもので、5つの半円アーチとそれを受ける柱頭彫刻付きの円柱が並ぶアーケードである。その柱頭彫刻は、人間の顔や植物文様など。聖堂内部は近年の修復によっ
て、白く上塗りされている。後陣ならびに凱旋アーチ部分などに、主に17世紀から18世紀にかけて描かれたフレスコ画装飾が残されている。注目すべきは後陣の半ドームのもので、聖三位一体(父と子と聖霊の鳩がそれぞれ円環飾りの中に描かれている)、受難具、聖ペトロのニワトリなど。南北の側室には聖母子や聖プリヴァなどが描かれている。
Morel(2007)pp.94-95; Trémolet de Villers(1998)pp.364-367; Verrot(1994)pp.78-82; GV.




48.6.11 レ・サレール/ノートル=ダム=ドゥ=ボン=スクール教会
                   (Église Notre-Dame-de-Bon-Secours, Les Salelles)
 ル・ヴィラールから国道N88を約2キロ西へ進み、ロット川を渡ってすぐのところ。聖堂は村の中心にあって、東側と南側を墓地に囲まれて建っている。史料における初出は1155年である。この聖堂とともにあった小修道院はすでに消滅している。半円形プランの後陣はロマネスク期のものであるが、それ以外の部分は1586年にマチュー・メルル(Matthieu Merle)率いるプロテスタント勢力によって被害を受けた後に再建されたものである。後陣の北側に建つ方形の鐘楼は19世紀のものである。西ファサードも同様で、扉口は1835年に付け替えられている。聖堂内部は尖頭形のトンネル・ヴォールトが架かる単身廊(2ベイ)で、南北に2つずつ祭室があり、それぞれに木製の祭壇がしつらえられている。身廊よりも幅が狭い内陣(後陣)に
は、金色の刺繍衣を着せられた17世紀あるいは18世紀の聖母子像が置かれている。身廊の西端には木造の二階席が設けられている。聖堂内部は20世紀になってからの修復によって上塗りされ、アーチや壁面には、唐草模様、パルメット帯、石積み模様、キリスト、天使など、さまざまな装飾画が描かれている。
Trémolet de Villers(1998)p.363; RIP.




48.6.12a ブール=シュル=コラーニュ/
      ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院付属教会
       (Église prieurale du Monastère Saint-Sauveur-de-Chirac,
                          Le Monastier, Bourg-sur-Colagne)

 マルヴジョル(Marvejols)から県道D809を南へ約5キロでシラク(Chirac)の街に至り、そこからル・モナスティエ(Le Monastier)まではさらに1.2キロの距離である。以前はル・モナスティエ=パン=モリエス(Le Monastier-Pin-Moriès)というコミューンであったが、2016年からシラクと統合して新しくブール=シュル=コラーニュ(Bourg-sur-Colagne)というコミューンになった。コラーニュ川(La Colagne)の流域にあたるこの地域は、ジェヴォーダン西部を南北に貫く街道(現在はオートルートA75がそれをなぞる)からロット川本流沿いにマンド方面に向かう街道(現在は国道N88)が分岐する交通の要所にあたる。そのため古くからこの地には城塞が築かれるなどしていた。11世紀頃に築かれていたキリアクムと呼ばれる城塞(Cast-
rum KyriacumまたはCastrum Cyriacum)は、後にシラクの名前の由来となる。
 1062年3月16日、時のマンド司教アルドゥベール1世・ドゥ・ペイル(Aldebert Ier de Peyre、在位1054
年頃-1095年)は、その実の兄弟であるペイル領主(ペルのバロン)のアストルグ1世(baron Astorg Ier de Peyre)とともに、ベネディクト派のサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院(monastère Saint-Sauveur-de-
Chirac)を創建するための協約に署名した。アルドゥベール1世は、この地域を支配したペイル一族の出身であるが、ペイル一族は支配する領地の中に修道院や教会をいくつも建設したことでも知られ、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院はその中の代表的なもののひとつである。名称に「シラク」とあるが、今日「ル・モナスティエ」(Le Monastier)と呼ばれるサン=ソヴール修道院教会のある場所は、現在のシラク(Chirac)のコミューンではない。しかしこの修道院が最初に創建されたのは今ある場所(ル・モナスティエ)とは異なり、よりシラクの近くの《la Tourette》と呼ばれる場所、すなわちキリアクムの城塞の傍
(今の場所からシラク方面に約1200メートルのあたり)であったが、コラーニュ川の洪水によって破壊さ
れ、1090年頃に今の場所に移されたのではないかとする見方もある。しかしその真偽については今もってあまりよく分かっていない。
 いずれにせよ、このサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院は、創建と同時に、あるいはほどなくして創建者によってベネディクト派であるマルセイユのサン=ヴィクトール修道院(
abbaye Saint-Victor de Marseille)に寄贈され、マルセイユから12人のベネディクト会修道士がやって来た。そもそも創建者の一人アストルグ1世は、ミヨー(およびジェヴォーダン)の副伯ベランジェ(Béranger)と義理の兄弟の関係にあったのであるが、これはこの二人が、ともにカルラ副伯のジルベール2世(Gilbert II, vicomte de Carlat)の二人の娘(姉妹)をそれぞれ妻としていたためである(カルラは今のカンタル県オーリヤック地方)。さらにミヨー副伯ベランジェには、ベルナール(Bernard de Millau)とリシャール(Richard de Millau)という二人の弟たちがい
た。この二人の弟たちは、相次いでマルセイユのサン=ヴィクトール修道院長となっている(ベルナールは1064/1065-1079年、リシャールは1079-1106年)。恐らくこうした姻戚関係も大きく作用して、サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院のサン=ヴィクトール修道院への寄贈が行われたものと考えられる。ちなみに、この二人のサン=ヴィクトール修道院長は、ともに教皇グレゴリウス7世(在位1073-1085年)が推し進めた教会改革-いわゆる「グレゴリウス改革」-を、南フランスにおいて強力に推進した人物たちとして知られ
る。

 1090年頃から建設が開始されたル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院付属聖堂は1095
年頃にはほぼ完成し、同年の8月24日(日付については異説あり)、時の教皇ウルバヌス(ウルバン)2世の臨席のもと、聖別(献堂)式が執り行われた。教皇は、同年11月に南フランス諸侯に十字軍を呼びかけることとなる有名なクレルモン教会会議に出席する途上、オーヴェルニュのラ・シェーズ=デュー(
la Chaise-Dieu)やル・モナスティエに立ち寄り、修道院付属聖堂の聖別を行ったのである。ル・モナスティエの式にはマンド司教アルドゥベール1世・ドゥ・ペイル(ペル)、サン=ヴィクトール修道院長で枢機卿のリシャールの姿が見られた。この二人は先に触れたように、それぞれの兄弟の婚姻を介して姻戚関係にあった。司教アルドゥベール1世はこの年、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院において、一修道士として亡くなったと伝えられる。一方、枢機卿を兼ねていたサン=ヴィクトール修道院長リシャールは、教皇ウルバヌス2世に十字軍発議を強く勧めた一人でもあったが、1106年からはナルボンヌ大司教となって、その地で没している(1121年)。
 12世紀を通じて、サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院はジェヴォーダンの聖俗領主たちから次々と寄進を受け、その繁栄ぶりは、ここを所有するマルセイユのサン=ヴィクトール修道院の勢力とともにいや増すばかりであり、マンド司教アルドゥベール3世・デュ・トゥルネル(在位1153-1187)などはしばしばそれに異議を差し挟むほどであった。しかしその時々のローマ教皇が仲裁に入り、そのたびにサン=ヴィクトールの諸権利が確認され、1160年にはついに教皇がサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院を直接の保護下に置くに至っている。また12世紀後半頃には、すでに修道院の周囲にル・モナスティエの村が形成されていたことが認められる。13世紀にあっても引き続き土地の寄進などが相次ぎ、サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院の(と言うことは、ジェヴォーダン西部地域におけるサン=ヴィクトール修道院の)勢力は衰えることがなかった。
 百年戦争期(1337-1453年)は、ジェヴォーダンの他の多くの修道院と同じく、この修道院の受難の時代の始まりでもあった。1360年のブレティニー条約・カレー条約により、ルエルグ地方までイギリスが支配するところとなり、イギリス軍はしばしばジェヴォーダンに侵入して略奪を行った。1361年には、イギリス軍がシラクとル・モナスティエを荒らし、サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院も被害に遭っている。そうしたこともあって、1366年頃から教皇ウルバヌス5世(在位1362-1370年)の主導によって、サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院および付属聖堂の修復と要塞化工事が進められ、同時に後陣に隣接する形で高さ10メートルにも及ぶ大きな方形の塔が建設された(現存せず)。聖堂に施されて今日まで残る防御的な仕様の数々は、この時の工事によるものである。教皇ウルバヌス5世は、他ならぬジェヴォーダンのグリモアール一族の出身
で、1319年にグリザック(Grizac)城で生まれ、もとはギヨーム・ドゥ・グリモアール(Guillaume de Grimoard)と名乗った。叔父のアングリック・ドゥ・グリモアール(Anglic de Grimoard)が修道院長をしていたここル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院において修練期間を過ごし、司祭に叙階された。彼はその後、オーセールのサン=ジェルマン修道院長、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院長などをへて、1362年に教皇に選ばれたのであった。そのようなわけで、教皇ウルバヌス5世にとって、ル・モナスティエの修道院は若き日を過ごした思い出深い場所であったと言ってもよく、百年戦争で被害を受けたこの修道院の復興には並々ならぬ意気込みを見せたのであった。彼は聖堂の改築工事を行ったのみならず、数々の聖遺物(キリストの聖十字架の一部、聖母の乳、聖母の帯、聖セピュルクルの石、聖バルテルミーの指、聖イノサンと聖ローランの骨など)とそれを収めるための聖遺物箱をこの修道院に与えている。

 聖堂が本格的な被害を受けたのは、16世紀の宗教戦争の際のことで、ここでもマチュー・メルル(
Matthieu Merle, 1548-1587)率いるプロテスタントの一団がその主役であった。とりわけ1562年および1583年に受けた被害が大きく、ファサードの一部や身廊のヴォールト、そして後陣が破壊された。修道士たちは一時的に修道院から避難していたが、ほどなく戻り、14世紀に教皇ウルバヌス5世が建てた方形の大きな塔に居住したとい
う。しかしこの混乱の時代、ロデズにあったイエズス会のコレージュがすでにサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院の獲得に動いていた。マルセイユのサン=ヴィクトール修道院の異議申し立てにもかかわらず、1576
年、教皇グレゴリウス13世はル・モナスティエ修道院をイエズス会のロデズのコレージュに与え、1578年、フランス国王アンリ3世がそれを承認している。1589年、ロデズのイエズス会のコレージュがサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院を合併・接収した後、これに対してサン=ヴィクトール修道院によって出された異議
も、最終的には1602年にトゥールーズの高等法院によって却下された。ここに戻ってきていた修道士たち
は、結局は散り散りになっていったという。彼らが居住していた教皇ウルバヌス5世の塔は、イエズス会によって取り壊しが決められた。しかしそれと同時にイエズス会は、被害を受けた聖堂の修復を進めた。すなわ
ち、破壊されたヴォールトを新しく架け直し、聖堂の東西の長さを切り詰める形で後陣を作り直した。また聖堂内部に立派な説教壇を据え付けるなどした。ところがイエズス会は1760年代になると国王ルイ15世による圧力を受けてフランスから追放、さらに1773年には教皇クレメンス14世が正式にその解散を決めるにおよんで、再びル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院の荒廃が進むこととなった。決定的な打撃は、フランスの他の多くの修道院と同じく大革命によってもたらされることとなった。サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院も国有財産として売却に付され、農家が買い取った。その後は一時期、地元の学校が置かれるなどしたが、19世紀に入って教区教会となって今日に至っている。
 
 サン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院付属教会(通称ル・モナスティエのサン=ソヴール教会)は、ル・モナスティエのコミューンをマルヴジョルからラ・カヌルグ方面へと貫く県道D809にほぼ面して建っている。真西ではなくわずかに南西方向に向いている西ファサードは、14世紀に教皇ウルバヌス5世によって改築(要塞化)された名残を大幅にとどめたものとなっている。一見したところ横幅が広く(約23メートル)、非常に安定しているように見えるが、それは厚さ約1.5メートルという大きな扶壁が、向かって左側(北側)に4メートルあまり突出する形でついているためである。この扶壁は、西側つまりファサード前面にも突出している。ファサード中央部分には、2つの縦長の扶壁(付け柱)にはさまれる形で、一番下から扉口、その上に水平方向に長く延びるモールディングをはさんでゴシック期の尖頭アーチを持つ大きな窓(フランボワイヤン様式。縦長のランプラージュによって3つのランセットに分かれ、その上に三葉形の輪が載る)、さらにその上に厚さのない方形の鐘楼(内側に1つだけ開けられたベイ自体は半円頭アーチ)が立つ。この立体プランの左右は、著しく非対称的な構成となっている。向かって一番左側は、今も述べたように分厚い扶壁が突出するが、反対側の向かって右側にはこのような巨大な扶壁はない。ファサードの中ほどの高さに付けられた左右の窓は、向かって左側がゴシック様式のきわめてシンプルな縦長のものであるけれども、向かって右側の窓はロマネスク様式で、二重のヴシュールの内側に開き、そのヴシュールの半円頭アーチは、左右においてインポストをへてシンプルな植物文様の柱頭彫刻を持つ小円柱が受ける(ただし窓自体は現在は埋められている)。扉口の右側の扶壁の最上部には銃眼が複数施された円筒形の監視楼風の張り出し(échauguette)が残されている。またファサード右端上部にも防御施設の一部が見られる。これらは14世紀の要塞化の名残りである。ファサード中央下部の扉口にもやはりその名残が認められる。モールディングで縁取られた大きな半円形アーチ(かつては左右で小円柱がそれを受け止めていたが、いまはない)の中にそれよりも小さな半円頭アーチの扉口が開くのであるが、その大きなアーチ(アーキヴォルト)の方の頭頂部に、かつて、落とし格子を格納していたスペースの開口部が残されている。そこから鉄製の格子を落とすことによって扉口を塞ぎ、外敵が聖堂内部に侵入するのを防いだのであろう。ちょうどその落とし格子のための開口部のすぐ下の壁面には、この聖堂の要塞化を進めた教皇ウルバヌス5世の紋章が埋め込まれている。また、扉口を縁取る半円形のモールディングには、左右の耳から植物を生え出させ、目を剥いたり舌を出したりする不思議な人面彫刻がいくつか残されている。さらにはそのモールディングの向かって左側の水平部分のすぐ下に、ラテン語の碑銘の断片が彫られた横長の石が埋め込まれている。Bousquet(1974)によれば《+I NOM VI K L》と読め、聖別(献堂)式が行われた1095年8月23日の日付ではないかとされるが、かなり摩耗が進んでいて現在ではその碑銘の後半部分は判読が難しい。このファサード全体は、例えばプリュニエールのサン=カプレ教会(Prunières[48.1.11a])のそれとの類似性も指摘されたりするが(Trémolet de Villers, 1998)、ファサード中央の扉口とその上に開く開口部(プリュニエールのものはロマネスク様式)、そして一番上の鐘楼という基本構成以外には、さほど共通点があるようにも思えない。

 聖堂外部の北側はファサードの扶壁以外に、聖堂内部の側廊の各ベイに対応する形で三角形頭頂部を持つ4つの厳めしい扶壁(厚さ約1メートル、高さ約6メートル)が、北側におよそ3メートルほど突出する形で並ぶ。西から3番目のベイには低い位置に細長い窓が、また4番目のベイには高い位置に小さな窓が開く。同様に聖堂南側の壁にも4つの扶壁が並ぶ。北側のそれよりも地表面が低いために扶壁自体は高さが約10メートルあるが、南側への突出は1.5メートルである(厚さは北側の扶壁と同じ)。聖堂の東側に回ると、中央に、16世紀にプロテスタントに破壊された後、17世紀にイエズス会によって再建された3面からなる平べったい台形状の後陣が立ち上がる。破壊される前には、主身廊の最も東のベイのさらに東側に、半円形平面プランのロマネスク様式の後陣(内陣)があったが、それを切り詰めて再建したために、非常に窮屈で(寸詰まって)味気のない外観になってしまっている。この後陣の中央の面には何もないが、左右の面には尖頭形の細長い窓がついている。主後陣の左右両側には側廊の上部から主身廊に向けて架けられている4分の1アーチの断面が見て取れる。
 聖堂全体の平面プランは聖堂内部において南北が約17メートル、東西の長さは扉口から内陣東端までおよそ23メートルで、わずかに東西に長い長方形である。主身廊は内陣(後陣)を含めて4ベイで、その南北につく側廊も同様にそれぞれ4ベイからなる。主身廊の横幅はおよそ7メートル強で、高さはヴォールト最頂部まで約15メートルある。側廊は南北ともに幅約3メートル、高さは主身廊よりも低くておよそ7メートルである。
 主身廊は、各ベイに半円形の大アーチが開くアーケードをへて側廊とつながる。その大アーチの上には、壁面をへてわずかに尖頭形となった半円形トンネル・ヴォールトが架かる。大アーチとヴォールトの間のその壁面には、南北それぞれ西から2番目と3番目のベイの上部(すなわちヴォールトのすぐ下)に、細長い銃眼が開けられている。これも14世紀の要塞化の際の名残で、外敵が聖堂内部にまで侵入した際に、側廊の上に設けられた通路からその敵を攻撃するために使用されるものであった。各ベイを仕切るピア柱から立ち上がる高さのある付け柱は、途中まで方形のピラストル、その上は繊細な壁付き円柱となり、さらにその上には、これもまたわずかに尖頭形となった横断アーチが架かる。
 
 16世紀にロマネスク期の内陣(後陣)が破壊された後、最も西のベイに切り詰めた形で再建された現在の内陣は、17メートルの高さを持つ主身廊からそのまま延長されていて(つまり「凱旋(勝利)アーチ」などによる段差がなく)、シンプルでありながら、外から見た時よりも、大きな空間スケールを感じさせるものとなっている。後陣外部と同様に、内部も3面からなる平たい意匠で、中央の面にはなにもないが、その左右の面にはコーニスをへて架かるヴォールトのすぐ下に、内部に向けて隅切りされた半円頭形の縦長の窓が開く(ただしその半円頭部に施された装飾はゴシック様式である)。その2つの窓の下の方には、床から約1メートルのところに小さな縦長の開口部が見られる。後陣に載る半ドームには6本のリブが架かり、半ドーム自体を5分割している。
 主身廊と側廊の間のアーケードは、各ベイに二重の半円形アーチがピアの間に開き、それらのアーチはそれぞれ両端を柱頭彫刻を持つ円柱が受けている。最も東、すなわち内陣部の、北の側廊との間にあるアーチのみが、尖頭形となっていて、他のものよりも頭頂部が高い。この北の側廊は、各ベイの北面に半円頭形の壁アーチが施され、西から3番目と4番目のベイ(つまり東側の2つのベイ)には内部に向けて隅切りされた窓が開
く。この2つのベイの間には仕切り壁があって、尖頭形アーチをくぐって行き来するようになっている。北の側廊の天井は半円筒形のトンネル・ヴォールトで、横断アーチが各ベイの間に架かっている。東端のベイ(祭
室)のみ、高さの低いゴシック様式の4分交差リブ・ヴォールトである。西から2番目のベイの壁には、モールディングと背の低い小円柱で縁取られた尖頭形のアーチ型壁龕墓すなわち「アルコソリウム」(arcosolium)がある。
 
 ロマネスク期の雰囲気が色濃く残る南の側廊においても、南面には各ベイに半円形の大きな壁アーチがあ
り、さらにその内側に、半円アーチとそれを左右で受ける小円柱に縁取られる形で、内部に向けて隅切りされた半円頭形の窓が開く(この隅切りは、ロマネスク期のあとに改修されたものである。また一番東のベイの窓を縁取る小円柱は、向かって右側のものが失われている)。この側廊の東端部は、北の側廊のそれと同じように、16世紀に破壊される前は主後陣を左右ではさむようにロマネスク期の半円形小後陣が接続していたものと思われるが、現在は1.7メートルの基壇の上に、二重の半円形横断アーチとそれを受ける方形と円形の側柱だけが残り、その東側は壁面によって埋められている。なお南の側廊の、この東端のベイ(祭室)のみ、黄色と黒の彩色が、アーチや側柱、そして柱頭彫刻(後述)などに部分的に残っている(アーチと柱では黄色と黒が交互に塗られている)。しかしこれらの彩色は、ロマネスク期よりも後の時代のものと考えられる。南の側廊には、西から2番目のベイから西端のベイの上部へと壁沿いに登ってゆく石段が設けられていて、それは聖堂内部の西壁の上部、すなわちステンドグラスがはめられたゴシック様式の大きな窓のすぐ下を横断する形でつけられた小通路(小トリビューン)に通じている。これらの階段および小通路は、ファサードの向かって右側の扶壁上部に作られた円筒形の監視楼風張り出し(前述)にも通じており、やはりロマネスク期以降、14世紀の要塞化の際に作られたものである。小通路の両端上部には、かつてはヴォールトを縁取るリブが架かっていたのであろう。リブ自体は消滅しているが、それを受けていたトロンプと、それをユニークな姿態で支える短身の人物彫刻が残されている(特に向かって右側のもの。左側のものは破損している)。
 身廊のほぼ中央の南側、西から2番目と3番目のベイの間のピア柱に、ベージュ色の石造りの美しい説教壇が見られる。1726年にイエズス会によって作られたもので、向かって左側の石盤には、4隅に花弁装飾が配されその内側に大きな円で囲まれる形で、十字架と組み合わせて表されたイエズス会のモノグラム《I.H.S》が彫刻されている。同様のモノグラムは、扉口から聖堂内部に入ってすぐの所に置かれている石の大きな聖水盤の側面にも見ることができる。なお、北の側廊の西から2番目のベイの床には、長方形(縦2メートル、横1メートル弱)の墓石が埋め込まれている。1667年という年号が彫られている。
 ここル・モナスティエのサン=ソヴール教会には、聖堂内部にロマネスク期の柱頭彫刻が数多く残されている。それらは身廊や側廊のピア柱、横断アーチを受ける側柱、南北両壁面に開く開口部の小円柱などに見られるのであるが、そのモチーフの多くは、古代風のアカンサスやパルメット、そうした植物の間から顔を出す人面、あるいは目を見開きながら口から植物の葉やツルをはき出す人面などである。
 
 古代風のアカンサス装飾(人面や人物像を伴わないもの)は、主身廊と側廊の間の大アーケードにあって
は、南側では最も東端のピア柱のもの(西側)、東から2番目のピア柱のもの(西側)、同じく東から3番目のもの(西側)、さらに北側大アーケードでは西から2番目のピア柱のもの(東側)がある。また主身廊の上部に架かる横断アーチを受ける円柱の柱頭については、東から2番目および3番目の南側柱頭などがある。これらのうち、南側大アーケードの東端のものと東から3番目のものが保存状態もよく、今日に至るまで見事な形で残っている。前者(東端のもの)は、円形のアストラガル(柱身と柱頭の間の玉縁・刳形)の上に小さめのパルメットが並び、さらにその上に大きな葉飾りが上に向けて広がる。一番上には冠板のすぐ下に水平方向に湾曲して彫られた小モールディングの中央に、目に見える3面とも中核を持つ丸い花弁が置かれている。後者(東から3番目のもの)にあっても同様の仕様であるが、こちらは下段のパルメットの上にアカンサスの葉がV字状に広がり、その中央にあるのは、小さな穴(核)を中心に持つ大小3重の丸いマーガレット(ヒナギク)の花弁である。このマーガレットのモチーフはプロヴァンスからの影響を感じさせるものであるし、花弁中央に穿孔を開けるやり方はオーヴェルニュにおいてしばしば見られるものであるという(Bousquet, 1974)。なおこのV字状のアカンサスの葉の拡がりと下段のパルメットの列との間には、明らかに目につくほどの広さで何も装飾が彫られていない空白部分が存在する。そうした何もない空間の存在を嫌い、何らかの装飾でそれを埋めてゆこうとする傾向の強いロマネスク芸術においては、こうした仕様は珍しいものであると言えよう。
 
 アカンサス装飾のみならず、目を見開きながら口から左右に植物をはき出す不思議な人面のモチーフも、ル・モナスティエの柱頭彫刻の主要テーマを構成する。そのうち南側大アーケードの東から2番目のピア柱(東側)には、3面にわたって、アストラガルの上にパルメットとアカンサスの帯が巡り、その上に草を吐く人面がある。北面のものは摩耗しているが、東面と南面のものは、目をむいて口から左右および真下に草を吐いている。特に南面の人面は、カールした髪の毛玉が頭部に並び、頬を膨らませている。かつての彩色が残っていることもあって、聖堂内の他の人面とは多少趣を異にするものとなっている。またこの柱頭においても、人面が左右に吐く植物の葉の下に無彫刻の空白部分が見られる。南の側廊の同じこのベイ(祭室)の最東端の壁
面、向かって左角の柱頭彫刻では、うねるような植物のツルやそれをはき出す人面とともに、2つの面の角やその下に、さらに2つの人面が加えられている(角の人物はヒゲを生やして目をむいている)。主身廊をはさんで反対側の北の側廊の東から2番目のピア柱(西側)には、パルメットの列の上で鳥に左右をはさまれる形で植物のツルを吐き出す人面もある。その他、アカンサスやパルメットの間あるいは上から顔を出す不思議な人面がいくつも堂内の柱頭彫刻に現れるのであるが、これらはやはり古代芸術の伝統を強く感じさせるものである。それは同時にそうした古代の伝統が色濃く存続したプロヴァンスの影響であるとも言える。このこと
は、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院自体が、そもそもマルセイユのサン=ヴィクトール修道院に所属するものであったことを考えるならば、むしろ自然なことであるように思われる。

 主身廊の両側の壁では、方形の基壇部分の上に背の高い壁付き円柱が載り、さらにその上にヴォールトに架かる横断アーチが載るのであるが、その壁付き円柱の柱頭彫刻で注目すべきは、主身廊北側の西から2番目と3番目のベイの間にあるそれである。テーマは「アダムとイヴ」で、柱頭前面中央に広がる大きなアカンサスをはさんで、向かって右側手前の角に男が、左側手前の角には女(顔は破損している)が裸のまま両手を(ひじを体にくっつけて)左右に広げて立っている。この二人の人物がアダムとイヴであるとすると、中央の大きな植物はいわゆる「善悪の知識の木」で、この場所は「エデンの園」ということになる(Trémolet de Villers, 1998)。しかし、男は右手に、女は左手にそれぞれたわわに実るブドウの房をしっかりと握っており、柱頭の左右両奥にも同じような姿勢で樹木の枝や葉を握る人物(性別は不明)がそれぞれ配されているので、この場面を「ブドウを収穫するカップル」とする見方もある(Bousquet, 1974)。「ブドウの収穫」を表す柱頭彫刻のテーマは、ジェヴォーダンに隣接するオーヴェルニュにおいてしばしば見られるもので、その代表的なものは、クレルモン=フェランの北およそ20キロにあるモザック(モザ)修道院付属サン=ピエール教会
(abbatiale Saint-Pierre de Mozac/Mozat)に残されている。「アトラス神の柱頭」(chapiteau des Atlantes)と呼ばれる柱頭彫刻で、そこでは柱頭のそれぞれの角に、ル・モナスティエの場合と同じように両腕を左右に広げてブドウの房(あるいは松ぼっくりか?)を持つ4人の裸の人物が配されている(ただし下半身は膝を折ってひざまずいている)。その表現は、ル・モナスティエのものよりも、よりいっそう大きく、かつ洗練されたものである。モザックにはこの他にも、ル・モナスティエと同じような、左右に広がるアカンサスと人面というモチーフの柱頭彫刻も多く残されている。これらはジェヴォーダンとオーヴェルニュの文化的影響関係の強さを物語るものであろう。
 主身廊の西から2番目の横断アーチ南側の柱頭彫刻の中央には、ブドウの房(あるいは松ぼっくり)を伴ったアカンサスの大きな葉に左右をはさまれる形で、角笛を吹く人物がいる。やはり両手を左右に広げ、右手には角笛、左手にはウサギを持ち上げている。ウサギを手にしているところは、古代においてポピュラーであった狩人のモチーフからの影響を感じるし、一方で角笛を吹くその姿は、北イタリアのロマネスクに見られる月暦図「十二ヶ月の擬人像」のうちの「笛吹き三月」(Marcius cornator)との類似性が指摘できるとも考えられる(Bousquet, 1974、「笛吹き三月」については、児嶋, 2006年)。
 ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院は、創建から絶頂期を経てその凋落まで、その時々のジェヴォーダンのさまざまな宗教的・政治的諸状況の中でその長い歴史を刻んできた。また修道院付属サン=ソヴール教会は、地理的にも北のオーヴェルニュと南のプロヴァンス・ラングドックとを結ぶルートの中間に位置することもあって、とりわけ柱頭彫刻の装飾などに、その双方からの文化的影響が如実に見て取れ
る。ジェヴォーダン(ロゼール)のロマネスク芸術の中ではきわめて貴重な文化遺産のひとつであると言うことができよう。
Balmelle(1945)pp.44-45; Bayrou(2000)pp.258-259; Bousquet(1974)pp.81-101;
Buffière(1985)pp.237-238, pp.511-514; Chabrol(2002)pp.114-116; Chastel(1981)pp.18-19; Costecalde(2011)pp.16-17; Crozet(1937)p.44; Daudé(1885)pp.52-60, pp.62-71, pp.184-207; Hénault(2017)p.151; Laurent et Fages(2008)p.46; Morel(2007)p.96; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.290-291; Ribéra-Pervillé(2013)pp.104-105; Trémolet de Villers(1998)pp.120-125; 樺山紘一(1990)pp. 242-244; 児嶋由枝(2006)pp.167-171; RIP.



48.6.12b ブール=シュル=コラーニュ/シラクのサン=ローマン教会
                  (Église Saint-Romain de Chirac, Bourg-sur-Colagne)
 シラクは、マルヴジョル(Marvejols)から県道D809を南へ約5キロに位置し、2016年の合併によって、現在ではル・モナスティエ=パン=モリエスとともに、ブール=シュル=コラーニュというコミューンを形成する小さな街である。前項のル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院[48.6.7a]でも触れたが、古くから交通の要所であったこの地には、11世紀頃「キリアクム」と呼ばれる城塞(Castrum KyriacumまたはCastrum Cyriacum)が築かれていた。そもそも「キリアクム」とは、ディオクレティアヌス帝治世下の4世紀初めに小アジア・キリキアのタルソス(またはアンティオキア)で母親とともに殉教した4歳の男の子、聖シール(Saint-Cyr)に由来すると言われる。この聖人に対する信仰はガリアでは広く行き渡っていたと言われ、その名を持つ街や村は現在でもフランス各地に数多くある。後に「シラク」の名前の由来となる「キリアクム」の城塞も、この聖人信仰からその名がつけられた。ところで、ル・モナスティエにサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院が創建された11世紀後半頃、シラクの地には、それ以外にサン=ローマン、サン=ジャン、サン=ヴァンサン、サン=ソヴール=ドゥ=ラ=トゥレットの4つの教会があったようである(Trémolet de Villersによれば前の3つだけ)。後の2つは現存しない。この時代、教区教会はサン=ジャンであったと言われるが(Daudéはサン=ヴァンサンだとしている)、それとサン=ローマンとの関わりや、サン=ローマン自体の建設年代についてなど、分からないことが多い。いずれにしても、1155年にはマンド司教アルドゥベール3世・デュ・トゥルネルが、サン=ローマン教会をマルセイユのサン=ヴィクトール修道院に寄贈し、すでにサン=ヴィクトールが所有していたル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院の管轄下に入った。
 14世紀の百年戦争期には、ジェヴォーダンの他の多くの修道院・教会と同じくイギリス軍による被害を受け(とりわけ1361年)、さらに16世紀の宗教戦争が起こると、1562年に、プロテスタント側についたアンドゥーズとペイル(ペル)の領主の部隊によってシラクの街が襲撃され、その時にはサン=ローマン教会も略奪の対象となり、火を放たれ鐘も溶け落ちたという。この時シラクを襲ったペイル男爵(baron de Peyre)は、1572年8月24日の有名な「聖バルテルミーの虐殺」に巻き込まれてパリで殺された。その未亡人マリー・ドゥ・クリュソル(Marie de Crussol)は、復讐のため悪名高いマチュー・メルルをジェヴォーダンに送り込んだと言われる。マチュー・メルルは、配下の兵士たちとともに1577年にマルヴジョルとシラクを奪取・占拠
し、これらの街に被害を与えている(Mazot, 2009)。サン=ローマン教会はその後、1612年から1620年にかけて修復工事が行われた。フランス革命の際には、聖具・宝物の類が売却されたものの、建物自体は破壊や売却などの難を逃れた。1922年、歴史的建造物(Monument Historique)に指定された。

 サン=ローマン教会は、シラクのコミューンのほぼ中央、アントレイグ広場(place d'Entraygues)に面して建っている。この広場には、16世紀に街の防御施設の1つとして建設された方形のアントレイグの塔(Tour d'Entraygues)もあり、聖堂はこの塔のすぐ隣にあって、向かって左から方形の鐘楼とその下に開いた扉口、半円形の後陣、そして一番右側に方形の大きな側室が並んでいる。これらはすべて聖堂の東側にあたる(後
述)。鐘楼は、宗教戦争の際にプロテスタント勢力によって被害を受けたが、その後さらに高さを加えて修築された。上部が2段構えで、それぞれの段に1面につき2つの尖頭形のベイが開く(それが東西南北に4面あ
る)。頭頂部には尖塔が載る。また中ほどの高さに細長い矢狭間(archère)が見られる(東と南の壁面)。鐘楼の南側の面では、左右の端においてその矢狭間の高さまで強固な扶壁が立ち上る。矢狭間の少し下の右寄りの位置に、半円頭アーチに縁取られ、外に向けて隅切りされた小さなロマネスク様式の窓がつけられてい
る。
 鐘楼の下にはロマネスク様式の美しい扉口が開く。モールディングを伴った3重の半円形ヴシュールが架かるが、幅が狭くてモールディングを伴わないものと、ポーチ自体を縁取る一番外側の大きなアーチを含める
と、都合5重のアーキヴォルトとなる。その下では、内側の3つのヴシュールを受ける左右それぞれ3本の円柱の連なりが中央(内側)から外側へと広がっている。ヴシュール自体には装飾は見られない。左右の円柱は、それぞれ一番内側のものの基壇の高さが、その外側のものよりも低くなっている(円柱自体はその分長い)。この扉口の円柱の柱頭彫刻は、摩耗がかなり進んでいて形が判然としない。かろうじて向かって右側(北側)の中央のもののみ、何人かの人物が並んで立っており、何かしら両手を広げて楽しげに踊っているようにも見える。

 鐘楼のすぐ隣(北側)には、これもまたロマネスク様式の美しい後陣が建つ。平面プランは半円形である
が、そのおよそ3分の1は、さらに隣に増築されたゴシック様式の大きな側室によって隠されてしまっている。石積みはきれいに整えられている。何よりも目を引くのは、3メートルあまりも高さのある基壇で、その上に端正な壁付き円柱が並び、屋根の軒持ち送りを支えている。それらの円柱のうちの1本に線刻風のアカンサスの柱頭彫刻が見られる。その柱頭とともに軒持ち送りに並んでいるモディヨンには、鳥や簡単な図形風の彫刻が施されている。後陣につけられた円柱の間には、左と右のベイにおいて両側を小円柱ではさまれた半円頭アーチの2つのロマネスク様式の開口部(窓)が開けられている。中央のベイのアーチはニッチとなっており、後陣において開口部とニッチが交互に配置されるこのような仕様は、例えばラヌエジョルのサン=ピエール教会[48.5.3a]の後陣などとの類似性が指摘されている(Trémolet de Villers,1998. ただしラヌエジョルの場合は後陣は多角形である)。シラクの後陣の開口部を縁取る小円柱の柱頭彫刻は、植物のツルに囲まれたブドウの房(あるいは松ぼっくり)、装飾化されたアカンサスとV字形に広がる渦巻き、複雑に絡み合った組紐文様(entrelacs)、そして足を伸ばして体を横長にかがめながら、悪を表象するヘビ(あるいはドラゴン)らしきものと対決する人物などである。
 先にも触れたように、この後陣のさらに右隣(北側)には、15世紀に側室(祭室)が増築されており、その無装飾の大きな壁面と北東角に突出した扶壁が目につくのであるが、その側室東側の壁面の中央部には、ゴシック様式で尖頭形の大きな窓が開けられていて、ステンドグラスがはめ込まれている。そこから聖堂の北側に回ると、14世紀に付け加えられた側室が続き、それらの側室には大きな丸窓、尖頭形や半円頭形の窓がランダムに並んでいる。北壁の西側には、モールディングと背の低い小円柱によって左右を縁取られた尖頭形アーチの大きなアルコソリウム(壁龕墓。ニッチ)があり、さらにその向かって右(西側)には、扁平アーチのポーチの奥に半円頭アーチを持つ扉口が開いている。西ファサードは、上部が三角形の切妻形で、中ほどに切妻の上辺まで2つの扶壁が立ち上がり、扶壁の間には半円頭アーチの窓がつけられている。こうした仕様はル・モナスティエのサン=ソヴール教会[48.6.7a]の西ファサードと似ていると言える。しかしシラクではそこに14世紀の大きな祭室が2つ増築されているために、西ファサード全体の元の姿を見ることはできない。増築された祭室には、上に大きな尖頭窓、下に小さな方形の出入口がつけられている(なおこの西ファサード側は、現在は幼稚園の敷地となっていて部外者は立ち入り禁止)。

 シラクのサン=ローマン教会のもともとの基本的な平面プランは、2ベイからなる主身廊の東側に半円形の内陣(後陣)が続き、身廊の両側(南北)に、やはり2ベイの側廊がつくというシンプルな3廊式バジリカ形式であった。注目すべきは、後陣の南、すなわち南の側廊の東端に扉口がつき、その上に方形の鐘楼が立つという配置である。最初は主後陣の北側(すなわち北の側廊の延長上)に小後陣が作られていたが、それは後に取り壊され、15世紀に大きな祭室が増築された(前述)。通常は主後陣(abside)をはさんでその左右両側に小後陣(absidiole)が並ぶという形がポピュラーなものであるが、シラクの場合は、主後陣の南側にはそもそも小後陣は作られず、最初から鐘楼と扉口がこの場所に設けられたのだとも言われる(Nougaret et Saint-
Jean, 1991)。いずれにせよ、このように小後陣ではなく扉口が聖堂の東側に開くというケースは大変に珍しい。
 主身廊と南北の側廊を隔てるのは、半円形の大アーチが並ぶアーケードで、それらのアーチを支えるピア柱には背の高い壁付き円柱が、主身廊の上に架かる半円筒形トンネル・ヴォールトの起点まで立ち上がり、横断アーチを受ける。主身廊において内陣に隣接するベイに架かる大アーチの形と起点の高さは南北で異なる。南側のアーチの方が起点が高く(と言うことはアーチの頭頂部も高く)、形は南が尖頭形、北が半円形である。側廊は南北ともに、東側のベイは半円筒形トンネル・ヴォールトが架かり、西側のベイでは交差リブ・ヴォールトとなる。聖堂西側には14世紀に増築された祭室が南北方向に2つ接続している。その増築部分と12世紀の西端(すなわ東から2番目)のベイの間には、大きなトリビューンが作られていて、トリビューンよりも西側が2階建て構造のようになっている。このトリビューン(階段で上ることができる)は、南の側廊から北の側廊およびさらにその北側に設けられた増築部分の上の側室(聖堂北壁に開けられた前述のポーチの真上にあたり、天井は交差リブ・ヴォールト)まで延びている。南北方向に延びるトリビューンの下は、背の低い大きなアーチ(半円形と尖頭形の2つが並ぶ)をくぐると14世紀に増築されたゴシック様式の2つの祭室であるが、アーチおよび天井が低いために空間的には大変に狭く感じる。
 「凱旋(勝利)アーチ」の東側に2メートル近い段差をへて続く内陣は、ジェヴォーダンにおいて最も美しいものの1つで、ロマネスク期の雰囲気を今によく伝えるものである。後陣外部の仕様に対応する形で、内部においても高い基壇が立ち、水平に延びるコーニスをへてその上は小円柱に支えられた5つの半円形アーチが並ぶアーケードとなっている。そのうち中央のアーチが最も頭頂部が高く、内部に隅切りされたロマネスク様式の窓が開く。内陣のこのような仕様は、例えばラヌエジョルのサン=ピエール教会[48.5.3a]のものとよく似ている。シラクでは窓は最も南側のアーチの中にも開いており(北側のアーチの窓はふさがれている)、それらの窓の隅切りは、下辺部が外側から内部に向けて階段状に作られている。このアーケードを構成する小円柱はそれぞれ柱頭彫刻を持つのであるが、全体的にかなり摩耗している。中央の窓の左右両側の小円柱のそれには動物が彫刻されている。向かって右側のものは傷みが進んでいるが、左側のものは、ライオンらしき獣が、こちらに顔を向けて牙をむいている。アーケードのさらに上には、水平方向に延びる五角形のコーニスの上に半ドーム(cul-de-four)が載り、13世紀のものと思われるリブによって5つの区画に分けられている。内陣アーケードのうち、向かって左端の部分は、15世紀の側室に通じるための大アーチが開けられたために、残念ながら破壊されてしまっている。

 主身廊や側廊の横断アーチに付けられた壁付き円柱(colonne engagée)、そして主身廊両側のピア柱
(pile)などに見られる柱頭彫刻は、多くはアカンサスをシンプルに図形化したような線刻状の植物文様の類である(一部に、かなり摩耗したロマネスク期の人面らしきものや、ゴシック期以降につけられた比較的新しい人面彫刻も見られる)。そのような中で、南の側廊部中央の横断アーチを受ける柱頭彫刻は、北側ではなめらかなアカンサスの葉が円形のアストラガルの上に横一列に並ぶその上に、不思議な柄の長くてしなやかな茎がV字状に広がる。そしてV字の中央部分には四角い花あるいは星が置かれている。南側では、さらに単純に図形化された大きなアカンサス(先端には丸い渦または実がつく)が柱頭の両角に配され、その間に置かれた小さなアカンサスの上に、ギザギザ形模様のついたV字状の茎が左右に広がる。そのV字の中央(上)にも、やはり四角い花あるいは星形の図形が置かれている。これらはきわめて抽象化された図柄であって、ロマネスクではしばしば見られる何とも不思議な柱頭である。なお聖堂内部の北西の隅に、13~14世紀頃のものと思われる8面体の石の聖水盤が置かれている。その各面には下部に三つ葉形模様、上部には雲あるいは太い植物の茎のようなものがうねる彫刻が施されている。これもまた不思議な図柄である言えよう。
Chastel(1981)p.10; Costecalde(2011)pp.19-20., pp.64-65; Daudé(1885)pp.51-59;
Mazot(2009)pp.29-40; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.286-287; Trémolet de Villers(1998)pp.125-128; RIP.



48.6.12c ブール=シュル=コラーニュ/シラクのサン=ジャン礼拝堂
                 (Chapelle Saint-Jean de Chirac, Bourg-sur-Colagne)
 シラクのアントレイグ広場の一角(南端)に、この広場と同名の塔(16世紀)やサン=ローマン教会(前
項)などとともに小さなサン=ジャン礼拝堂が建っている。かつては、アントレイグ男爵(baron d'Entray-
gues)であったロネイ家(famille de Launay)の旧居城(現存せず)の付属礼拝堂の役割も果たしていた。ロネイ家は、16世紀から17世紀にかけてジェヴォーダンにおいてバイイ(国王代官)を務め、シラクの他にもマルヴジョルやグレーズを支配した。1640年には国王ルイ13世からシラクの街の領有権を買い取るが、その後、過酷な重税に対する街の住民の反抗を引き起こし、1644年には街を去っている。しかしアントレイグ男爵の紋章は、その後シラクのコミューンの紋章となった(現在シラクはル・モナスティエと合併してブール=シュル=コラーニュというコミューンを作っている)。
 サン=ジャン(サン=ジャン=バティスト)礼拝堂は、サン=ローマン教会や、ル・モナスティエのサン=ソヴール教会と同じく、11世紀後半頃にはすでにシラクの集落に存在していた。その後、サン=ローマン教会とともに、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に(ということは、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に)所属した。サン=ローマンに教区教会が移るまでは、このサン=ジャンが教区教会であった。宗教戦争期に大きな被害を受けたが、1616年、1700年、そして1867年と、ゴシック様式による度重なる改修が加えられてきた。
 礼拝堂の平面プランは東西がわずかに長い小さなラテン十字形で、2ベイからなる身廊の南北に方形の祭室(側室)がつく。アントレイグ広場に面しているのは北側の祭室で、その祭室の北壁には、外側に向けて隅切りされた尖頭形の窓と、東壁に同じく外側に向けて隅切りされた大きな円い窓が開いている。聖堂の入口はこの祭室の向かって右側にあって、隣接する建物との間の狭い通路のような空間の奥にある。その仕様はゴシック様式で、扉口の左右には角柱状の基壇の上に細長い円柱の束が立ち、さらに無装飾の柱頭の上に、尖頭形の2重のヴシュールと、一番外側には多少尖頭形になったモールディングがつけられている。そのモールディングの頭頂部にはおよそ30センチ四方の正方形の石盤がはめ込まれていて、かなり摩耗しているが、最上部に3つのバラの花弁が並び、その下に角を生やした牛の頭部、その左側にはラテン語らしき銘文(判読不能)が刻まれている。聖堂内部は壁が上塗りされ、きれいに修復されている。身廊と側室の天井にはゴシック様式の交差リブ・ヴォールトが架かり、北の祭室の内壁には尖頭形や円頭形の「アルコソリウム」(壁龕墓、enfeu)が複数作られている。
 シラクのサン=ジャン礼拝堂は、19世紀まで繰り返し修復が重ねられてきたが、20世紀に入ると使用されることもなく放置状態が続いた。現在では、時おり地元の芸術家の展覧会や街の各種イベントなどに利用されるようになっている。
Mazot(2009)pp.55-56; Trémolet de Villers(1998)p.129; Web-site:Chirac en Lozère.
 



48.6.12d ブール=シュル=コラーニュ/パンのサン=マルタン教会
                    (Église Saint-Martin de Pin, Bourg-sur-Colagne)
 パンは、オブラック山地の支脈東端にあってロット川(Le Lot)とコラーニュ川(La Colagne)によって穿たれた渓谷を見下ろす高台にある小集落である。最近までル・モナスティエ=パン=モリエスと呼ばれるコミューンを構成していたが、2016年にさらにシラクと合併して新たにブール=シュル=コラーニュの一員となった。ル・モナスティエのサン=ソヴール教会から県道D809を南へ1.5キロで県道D56に折れ、西へ3キロほど登り、さらに細い間道を南へ800メートル進むとパンの小集落に至る。サン=マルタン教会はその集落の東端に建っている。
 12世紀初め頃に建設され、ほどなくマンド司教アルドゥベール2世・ドゥ・ペイル(ペル/Aldebert II de Peyre)によって、ル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院に付属させられた(すなわちマルセイユのサン=ヴィクトール修道院の管轄下に入った)。14世紀にはモリエス(Moriès、パンから南東へ直線距離にして約2キロ)の教会に付属した。その時代以降、何度も大幅に改修が施されて今日に至っている。大きな方形の鐘楼は近代になってからのもので、石瓦の並ぶ尖塔が載る。鐘楼の上層階にはかつては東西南北すべての面に鐘を吊すための半円頭形開口部がついていたが、現在、東西2面のそれは埋められている。西ファサードには多少楕円形となった半円アーチを内側に収める三角屋根のポーチの中に、トーラス(大玉縁)で縁取られたゴシック様式の半円頭形扉口が開く。三角形の切妻形となった聖堂西壁には、ポーチの上部にあたる場所に大きな丸窓が開けられている(ただし中心から少し北側にずれている)。聖堂の後陣は3面からなる(南北の壁面を加えると五角形となる)台形状で、その3面の各面には、その各壁面とほぼ同じ横幅の巨大な扶壁が放射状に広がっている。聖堂はゆるやかな斜面に建っているので、聖堂後陣の崩落抑止のためにこのような分厚い扶壁が作られたのかも知れないが、こうした後陣の光景は南フランスでも他に例を見ず、非常に印象的である。
 
 聖堂内部は、わずかに尖頭形となったヴォールトの載る東西に長く延びる身廊と、その東にトランセプトのように南北につけられた祭室と交差部、さらに五角形の内陣(後陣)が続く。身廊のヴォールトの起点には、かつてのコーニスの帯がわずかながら残されている。身廊の北側には18世紀の側室がつき、その天井は半円筒ヴォールトで、ゴシック様式の窓が開く。トランセプト様祭室は、交差部との間に尖頭アーチが架かり(そのアーチの起点にはゴシック様式と思われる横長の摩耗した彫刻が見られる)、南北ともに天井は交差リブ・ヴォールトとなっている。もともとはこの交差部がロマネスク期の内陣であったが、14世紀に半円形の内陣(後陣)壁を取り壊して、さらに東側に延長して現在の内陣が作られた(そこに架かる半ドームもロマネスク期のものより高さがある)。したがって、交差部西側の太い方形断面のアーチが「凱旋アーチ」(arc triomphal)であって、これがかつての身廊部と内陣部の境界にあたる。このアーチはピラストルにつけられた太い円柱の上に架かり、特に南側の円柱にはユニークな柱頭彫刻が見られる。すなわち、円形のアストラガルの上に簡略に図形化されたアカンサスの葉が並び、狭くて何もない空間(その両角には長くて丸い木の実らしきものがつく)をへて、一番上部には左右に渦巻きの線刻文様、そして中央には長い鼻と小さな目を持ち、クマのような耳をした愛嬌のある動物の丸い顔が彫られている。いっぽう、北側の円柱の柱頭彫刻は、図形化された単純なアカンサスである。これらの柱頭彫刻が見られる円柱や「凱旋アーチ」周辺が、古いロマネスク期の部分である。
 14世紀に作られた現在の内陣は五角形で、その各ベイにはゴシック様式の尖頭アーチが架かり、さらにその上は6本のリブが星形に広がる交差リブ・ヴォールトとなっている。南側のベイ(壁)にのみ、わずかに尖頭形の大きな窓が開く。その下には聖具室への出入口の扉がついている。最東面下部には小さな方形のニッチ、そして北東面には中ほどの高さに聖杯の彫刻の施された石盤がはめ込まれている。
 聖堂の西側には墓地が広がっている。現在でも使用されているものであるが、その一角(南西の端)に、古い墓石が地面に並べられている。その多くはいわゆる「円盤形墓石」(stèle discoïdale)あるいは「円形墓
石」と言われるもので、このタイプの墓石はフランスではラングドックやバスク地方において見い出すことができる。ラングドックでは、エロー県のユスクラ=デュ=ボスク(Usclas-du-Bosc)、オード県のモンフェラン(Montferrand)やバラーニュ(Baragne)、そして数は少ないがアヴェイロン県のラ・クーヴェルトワラード(La Couvertoirade)などにある(ユスクラ=デュ=ボスクにあったものの一部は、ロデヴのフルリー博物館Musée de Fleury, Lodèveに展示されている。またバルジャックのサン=プリヴァ教会[48.6.7]にも、年代不詳のものが1つ見られる)。ここパンの墓地には全部で13の円盤形墓石が残されている。もともとここにはもっと多くの墓石があったが、残りのものは、マンドのイニョン=ファーブル博物館に移された(Musée Ignon-Fabre de Mende、ただし現在は閉鎖中)。円盤形墓石はしばしば台座の上に載せられ(その台座を地中に埋めた)、円盤の内側に十字架が彫刻されている。パンでは3つの円盤形墓石に、摩耗が進んではいるがそうした十字架を認めることができる。これらはメロヴィング朝時代(7世紀)にまでさかのぼるもので、ここまで古い例はラングドックでは他には見られないという。
Aussibal(1986)pp.193-195; Balmelle(1945)pp.48-49; Trémolet de Villers(1998)pp.292-293; Ucla(1983)pp.137-138; Verrot(1994)p.76; アリエス(1990)pp.334-344; Trintignac(2012)pp.366-367.
 



48.6.13 サン=ボネ=ドゥ=シラク/旧サント=テクル教会
           (Ancienne église Sainte-Thècle, Saint-Bonnet-de-Chirac) privée
 シラクのコミューンからは直線距離であれば南東におよそ2キロであるが、シラクから直接には行けないので、マルヴジョルから県道D808(あるいはジョルダーヌ川の南側の間道)をパレールまで約4キロ進み、そこからシャナックへ抜ける道を1キロほど南下する。そこからさらに西に折れて細い間道を約1キロ進むとサン=ボネ=ドゥ=シラクの小集落に至る(あるいはシラクからレ・ボリーをへて約7キロ続く狭くて細い山がちの間道を進む)。小集落といっても、現在ここは100ヘクタールもの広さの農場を持つ農業学校の敷地となっており、納屋や倉庫や畜舎など、その関連施設や建物が集まっている。聖堂はその敷地の一角(東南端)に位置し、東からここに至る小道の上の斜面に建ってるが、長い期間放置されていることもあって、全体的に荒れ果てている印象が否めない。
 聖堂入口は建物の南側の、側室と大きめの扶壁の間にあるが、これは近代以降になってからそれまでの扉口を取り壊して新しく開けられたものである(農機具の出し入れもできる)。南側に増築された側室は塗り壁になっていて何も特徴がないが、その西側の壁に、かつて聖堂南壁に設けられていたポーチを形作っていたと思われるアーチの断片が残されている。後陣の平面プランは半円形で、石積みが漆喰で塗り固められている(北側には建設当時の石積みが露出している)。聖堂はもともとは12世紀に建設されたが、その後ゴシック様式で改築された。ゴシック様式の農村礼拝堂としては、ロゼール県(ジェヴォーダン)では珍しいものであると言われている。西から順に1ベイの身廊、南北に側室(北側の側室の方が大きい)がつくトランセプトの交差
部、そしてロマネスク様式の名残をとどめる「凱旋アーチ」をへて東西の長さが少し長い(しかし南北の幅は狭い)後陣が続く。身廊と交差部、そしてトランセプトの南北側室の天井は4分交差リブ・ヴォールトで、後陣には半ドーム(cul-de-four)が載る。身廊と交差部のリブは、人間の顔が彫刻されたキュ=ドゥ=ランプが受け止める。その他にも、彩色画が壁面に残されている。白い漆喰の上に植物が描かれたりしているが、保存状態は決して良いとは言えない。今後、一刻も早い聖堂全体の修復と保存が待たれるところである。
Verrot(1994)p.72; Fondation du Patrimoine en Languedoc-Roussillon(2011).
 


参考文献と略記号
(各聖堂のビブリオグラフィーでは、文献などは和書、欧文文献、Web-siteの順に、またGVとRIPは最後に記した)

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福井憲彦訳、日本エディタースクール出版部。
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児嶋由枝(2006):「笛吹き三月-北イタリア・ロマネスク聖堂に見る十二ヶ月の擬人像」、
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Web-site
Chirac en Lozère.(http://chirac.lozere.pagesperso-orange.fr/)2017.05.01アクセス

RIP:Renseignements ou Informations sur Place.
GV :Guides de Visite.