東海大学紀要(文学部)第108号(2018年3月)
(※以下のテクストは、紀要発表時のものに若干の加筆・修正を施したものである。2021.8.20)

南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(4)
Les églises romanes dans la Lozère(4):Autour de Banassac-Canilhac et La Canourgue.

                  中川 久嗣


 本稿では、前稿(「南フランス・ロゼール県中部の中世ロマネスク聖堂(3)」)に引き続き、ロゼール県の中部に点在する中世ロマネスク聖堂を取り上げる。具体的には、ロゼール県中部の西寄りの、サン=ジェルマン=デュ=テイル(Saint-Germain-du-Teil)周辺、そしてバナサック=カニヤック(Banassac-Canilhac)とラ・カヌルグ(La Canourgue)といったコミューンにあるロマネスク聖堂を対象とし、可能な限り知りうるものすべてを訪問調査し考察を加える。
 地形的には、ロゼール県中西部にあって、ロット川(le Lot)がCausse de Sauveterre北辺にうがつ渓谷
と、そこから南東側のタルン渓谷にかけて広がる標高800メートル前後のなだらかな高原地帯である。中でもシラクからル・モナスティエ=パン=モリエス、そしてラ・カヌルグにかけての渓谷は、古くからジェヴォーダン(Gévaudan/ほぼ今のロゼール県に相当)とラングドックや地中海とを結ぶ道が通り、まさしく交通の要所であった。この地域は、中世にはジェヴォーダンを支配した8つのバロニー(男爵領※)のうちの1つである「カニヤック男爵領」(baronnie de Canilhac)当たる。カニヤック一族は、現在のバナサック=カニヤック(Banassac-Canilhac)のコミューンにあるカニヤックの城を本拠地として、ジェヴォーダンからルエルグにまで至る一帯を支配していた強力な地方領主であった。またこの地域は、11世紀頃から、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院が分院を建てたり修道院や聖堂の寄進を受けてその勢力を延ばしてきたことでも知られる。例えば、この地域ではル・モナスティエのサン=ソヴール=ドゥ=シラク修道院[48.6.7a]、ラ・カヌルグのサン=マルタン・コレジアル教会[48.6.19b]などがそうである。
 建築的には、この地域の聖堂はロゼール県の他の場所と同じく概して小規模~中規模で、多少とも後の時代の改修・改築の手が加えられているものが多く、単身廊形式、南北に付けられた小さめの祭室、複数個の鐘が横に並ぶ鐘楼(鐘楼壁)、多角形の後陣、身廊や後陣の上部に並ぶモディヨン、アーキヴォルト(ヴシュールの連なり)を伴って南側に開く扉口(ポルタイユ)、などといった特徴が見られる。特に共通するのは、後陣内部および外部に見られるアーケードに施された柱頭彫刻の様式、聖堂内部の凱旋(勝利)アーチやトランセプトの交差部周辺に見られるアーチ・円柱の仕様、そしてそこに施された柱頭彫刻、身廊の側壁に見られる半円形の壁アーチなどである。それらには、オーヴェルニュとプロヴァンスの双方からの影響も見ることができる。
 本稿で取り扱う聖堂は、前稿と同じく「ロマネスク期」といっても厳密な時代の限定はせず、11-12世紀のいわゆる盛期の「ロマネスク」期を中心として、その前後の時代もゆるやかに含めたものである。聖堂全体がロマネスク期のものから、大なり小なり一部分その時代のものが残っているもの、建築様式がロマネスク様式をとどめているもの、そして現在では遺構となっているものなども含まれる。
 聖堂の配列は、便宜的に行政地域区分によって整理することとし、ロゼールの県番号(48)、大まかな地
域、そしてコミューン(commune、日本の市町村にあたる)の順で番号を付した。同一のコミューンに複数の聖堂がある場合は、「a. b. c. d.」というようにアルファベットで区分した。なお、ここで言う「大まかな地域」は、前稿まではおおよそ行政区分の小郡《canton》ごとに整理していたが、カントンはしばしば再編されるため(直近では2015年)、本稿からはカントンに沿ったグループ分けはやめ、文字通り地理的な「大まかな地域」ごとにまとめることとした(コミューンは2016年時点のものである。その後、合併などによって変わっているものもある)。
 聖堂は、本文中で建築物としてのそれを指す場合はそのまま「聖堂」とし、個別的名称としては「教会」あるいは「礼拝堂」を用いた。個々の地名や聖堂の名称については、現地の慣用のものを採用した。
 採りあげる聖堂は、基本的にすべて筆者が直接訪問・調査したものである。ただし私有地であったりアクセス困難な場所にあるなどの理由で訪問出来なかった聖堂には▲を記した。写真画像は筆者の撮影による。誌面の都合ですべての聖堂の写真画像をここに掲載することはできない。それらは筆者開設のウェブページ
(http://nn-provence.com)で閲覧可能である。

※1 « baron »あるいは« barronie »日本語訳は、特に中世のものに関しては決まった訳語がないのでなかなか難しく、そのまま「バロン」「バロニー」とすべきかも知れないが、本稿ではとりあえず「男爵」「男爵領」とした。
 また本文中において « Peyre »の日本語表記は、通常は「ペル」または「ペール」となろうが、ロゼールの現地住民などの多くはオック語の伝統もあって現在でも「ペイル」と発音することが多い。したがって本稿では標準フランス語の発音に合わせるのではなく、さしあたってそのまま「ペイル」としている)


48.6. バナサック=カニヤック(Banassac-Canilhac)
                ならびにラ・カヌルグ(La Canourgue)周辺


48.6.14 レ・サルス/サン=プリヴァ教会(Église Saint-Privat, Les Salces)
 ブール=シュル=コラーニュのパン(Pin)からさらに西に向けてオブラック山地を登ってゆく。ル・モナスティエからだと、県道D809を南へ1.5キロで県道D56に折れ、そこから西へおよそ10キロである。聖堂は村のほぼ中心にあって墓地に囲まれて建っている。もとはロマネスク期に建設されたが、その後の改修によってその面影はわずかである。尖塔を戴く方形の鐘塔には南側の面にのみ2つの尖頭形ベイが開く。聖堂南側に、中に尖頭アーチを収める背の高い三角屋根のポーチがつき、その下に丸窓と半円アーチを戴く扉口(ポルタイユ)が開く。後陣は方形で、左右の角に放射状に扶壁がついている。後陣の中央(最東面)の壁にはロマネスク様式の半円頭形小窓が付いているが、現在は埋められている。その左右両側の面にはわずかに尖頭形となった縦長の窓がそれぞれ開いている。聖堂の平面プランはラテン十字形で、3ベイからなる単身廊に、半ドームの載る半円形平面の後陣が続く。トランセプト様の南北の祭室はあとから付け加えられたものである。身廊部の天井は尖頭形のトンネル・ヴォールトで、横断アーチはピラストルが受ける。
Balmelle(1945)p.74; Buffière(1985)p564; Trémolet de Villers(1998)p.298.




48.6.15 レ・ゼルモー/サント=マリー・マドレーヌ教会
                      (Église Sainte-Marie Madeleine, Les Hermaux)
 レ・ゼルモーは、レ・サルスから県道D56を南西に約5キロ。標高1000メートルの高原の村である。サント=マリー・マドレーヌ教会の建設は11世紀後半ないし12世紀前半で、もとはこの地にあった城の付属礼拝堂であった(城は現存せず)。尖塔を戴く方形の鐘塔(19世紀に改築。4面とも半円頭形のベイが開く)の下の半円頭形ポーチの中に、これもまた半円頭形アーチの載るゴシック様式の扉口がつく。そのアーチは円筒形モールディングに型取られ、左右においてそのままインポストをへて細い円柱となって下まで下りる。この円柱は基壇の上に立つが、中ほどにつけられた円形の玉縁によって上下2段構えとなっている。鐘塔の向かって右隣の壁には、やはり半円頭アーチの中に尖頭形となったモールディングに縁取られた窓が開いている。さらにその右(東)に、三角屋根で半円頭形の窓が付けられた大きな側室をへて、最も東側に高さのある後陣が続く。この後陣は5面からなり(ただし一番北側の面は増築された側室によって隠れている)、それぞれの面は、地面から屋根の高さまで立ち上がる背の高い扶壁とその上に載る半円頭形アーチによって区切られている。5つのアーチと扶壁が連なる一種のアーケードは、あたかも城塞のような非常に強固な印象を与える。このアーケードには中ほどの高さの所に水平のコーニスが巡り、最東面のアーチの下には、左右を細い円柱ではさまれた半円頭形の窓がつけられている。その円柱の柱頭彫刻はシンプルに図形化された植物文様である。
 聖堂内部は、尖頭形トンネル・ヴォールトの架かる3ベイからなる身廊に狭い側廊がつく3廊形式で、凱旋アーチの東に半円形平面の後陣が接続する。主後陣の南にかつての小後陣が一部分残るが、現在は聖具室に変えられて普段は閉鎖されている。身廊の一番東のベイの南北には後の時代に祭室が付けられた。凱旋(勝利)アーチの西側の身廊と側廊部分は1998年の修復工事によって壁がすべて白く上塗りされている。しかし内陣
(後陣)部分においては、古い上塗りが取り除かれ、ロマネスク期の雰囲気が再現されている。特徴的なの
は、後陣内壁の中ほどの高さにビリット帯(cordons de billettes)と合わされたコーニスが巡っていることで、それをはさんで上下2段となった細長い壁付き円柱が8本並び、さらにその上に7つの半円アーチが架かっている。このビリット帯は、オーヴェルニュの影響であるとも言われる。アーケードの円柱は、そのビリット帯の上においてもそれぞれが丸い台座の上に立ち、上部には冠板と柱頭彫刻が付けられている。柱頭彫刻はすべて左右の角にシンプルに図形化されたアカンサスが刻まれている。アーケードのさらに上にはやはりコーニスが巡り、その上には3つのアーチの上に小さな丸い開口部が付けられている。後陣の東面と南面のベイには半円頭形の窓が開いていて採光の役割を果たしている。この後陣アーケードは、近年の修復をへたものではあるけれども、全体としてロマネスク特有の美しい仕様を今に伝えるものとなっている。
Balmelle(1945)p.21; Trémolet de Villers(1998)p.297; GV.
 



48.6.16 サン=ピエール=ドゥ=ノガレ/サン=ピエール教会
                     (Église Saint-Pierre, Saint-Pierre-de-Nogaret)
 サン=ピエール=ドゥ=ノガレの村は、ロゼール県とアヴェイロン県の県境間近に位置する標高約1000メートルの山村である。ラ・カヌルグからは県道D988で西へ約7キロ進み、そこからさらに県道D56に入って北へ約5.5キロ登る。サン=ピエール教会は村のほぼ中央にあって、南側と東側を墓地に囲まれている。建設はロマネスク期にさかのぼり、最初はルエルグにあるコンクのサント=フォア修道院に属したが、後にマンドの聖堂参事会の管轄となった。16世紀の宗教戦争の際に大きく被害を受け、17世紀に入ってすぐに修復工事が行われた。聖堂外部が比較的ロマネスク期の雰囲気を保っているのに対して、内部はその修復工事によって側廊が増築され、身廊のヴォールトも架け替えられた。壁面は上塗りされている。主身廊は3ベイからなり、横断アーチはピラストルに付けられた円柱が受ける。身廊より狭くなっている後陣は五角形で、約2.5メートルの高さの基壇の上に柱頭彫刻の施された小円柱が並び、その上にアーチが連なるアーケードとなり、さらにその上にコーニスをへて半ドームが載る。
 
 聖堂外部では、扉口と後陣にロマネスクの名残りが認められる。壁面やアーチなどには赤い砂岩が多用されている。聖堂の北西角には尖塔を戴く方形の鐘塔(17世紀。各面に2ベイのアーケードが開く)が建ち、南西角には大きな扶壁がつく。扉口は聖堂南側の西から2番目のベイにある。3重の半円形ヴシュールからなるアーキヴォルトは、左右において冠板を介してそれぞれ2本の円柱が支えている。それらの円柱の柱頭彫刻は、右側には編み紐のアストラガルの上に図形化されたアカンサスとギザギザ文様、左側にはパルメットと組紐文様の組み合わせが見られる。扉口のすぐ右(東)側には内部においては、あたかも側廊のような形で増築された17世紀の大きな側室が続くが、その外部に2つ並ぶ一見してロマネスク風の半円頭形の窓とそれを縁取る半円アーチ、そしてそれを左右で受ける円柱(その柱頭彫刻は鳥、ハート形、星、M字、動物、ヘビの頭のようなもの)は、やはり17世紀のものであり、ロマネスク彫刻のいわば模倣である。同様に聖堂北側の側廊(側室)の窓を飾る柱の柱頭彫刻(パルメットやひざまずく人物、ワニのような怪獣と戦う人物など)も17世紀のものである。それに対して、後陣に見られる彫刻群は、その多くがロマネスク期のものである(一部そうでないものもある)。この後陣は五角形で、その5つの面は、基壇の上から後陣上部まで立ち上がる背の高い壁付き円柱によって区切られている。各面につけられた半円形アーチ(その下に半円頭形の窓が開く)を左右で受ける円柱の柱頭彫刻は、摩耗が進んではいるが、ずらりと並べられたパルメット、大きく葉が広がる植物を口から左右に吐き出す人面(あるいは怪物の顔か)、アクロバットのような姿態を取る人物、V字に広がり先端で渦を巻く植物、ゼンマイのような植物の葉の連なりなど。さらに軒持ち送りに並ぶモディヨンの彫刻は、人面、動物、長方形やチェック柄などの幾何学模様、菱形組紐文様などである。なお、聖堂の北西角に建てられている17世紀の方形の鐘塔の、西側壁面上部(2つ並ぶ半円頭ベイのすぐ下の向かって右側のところ)に、十字架の中で両手を広げる人物の彫刻が埋め込まれている。表情はかすかに微笑んでいるようにも見える。おそらくは13世紀頃の墓石であったものを利用しているのであろうか。
 この聖堂の全体的外観は、アヴェイロン県(すなわちルエルグ地方)との県境を越えてすぐのところにあるサン=ローラン=ドルトにあるノートル=ダム・デスタブル教会(Notre-Dame d'Estables, Saint-Laurent-d'Olt)によく似ている。建築的には、かつてこの聖堂が傘下にあったコンク(同じくルエル
グ)からの影響も指摘されるところである。
Balmelle(1945)pp.69-70; Buffière(1985)pp.564-565; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.299-300; Trémolet de Villers(1998)pp.295-296.
 



48.6.17a バナサック=カニヤック/バナサックのサン=メダール教会
                 (Église Saint-Médard de Banassac, Banassac-Canilhac)
 バナサックは、ラ・カヌルグの東にあって、県道D809とD998が交差する場所にある。オートルートA75のno.40のインターの出入口に隣接する。またロット川(Le Lot)と支流のウルニュ川(L'Urugne)が合流する地点にもあたる。2016年からカニヤック(Canilhac)と統合され、新たにバナサック=カニヤックのコミューンとなっている。ガロ=ローマ時代、ガバルの地(後のジェヴォーダン)において、ラヌエジョル(Lanuéjols)やジャヴォル(Javols)とともにバナサックは重要な拠点となっていた(Banaciacum)。とりわけ1~3世紀には、ここは刻銘や装飾が付けられた赤褐色の陶器(poterie sigillée/céramique sigillée)の製作地として知られる。おもにウルニュ川沿いに70ものアトリエがあり、ここで作られた陶器は、広くガリアからゲルマニア、そして遠くはハンガリーやポーランド、シリアにまで及んでいた。6~7世紀のメロヴィング時代になると、今度は硬貨の鋳造で知られるようになる。この時代にフランク王国で流通した硬貨で現在まで残っているもののうちの10分の1は、バナサックで鋳造されたものとも言われる。143ものタイプの硬貨が、大きく6つのグループに分類される。東ローマ皇帝ユスティニアヌスやアウストラシア王キルデベルト2世、シギベルト3世、アキタニア王カリベルト2世などの横顔が刻まれた銀貨や金貨があり、中には、硬貨の鋳造者自身の名前(Elafius, Leudégisèle)や横顔が刻印されたものも見られる(第3・第4グループ)。またこれらの硬貨の多くには、S字状に湾曲した取っ手を左右に持つ聖杯(calice、しばしば十字架を伴っている)が、バナサックを表す《BAN》などの銘とともに刻まれている。現在、村役場(mairie)の中に考古学博物館が併設されており、こうしたバナサックの陶器や硬貨のコレクションはそこで見ることができる。
 サン=メダール教会は、バナサックのコミューンのほぼ中央に建っており、村役場はこの聖堂に隣接している(D998から少し南に入る)。伝説によると、4世紀に聖プリヴァ(プリヴァトゥス)の跡を継いでジェヴォーダンの司教となった聖フィルマン(Saint-Firmin)がバナサックの地に住んでいたが、彼は402年に没してこの地に埋葬された。その墓の上に建てられた聖堂が、現在のサン=メダール教会(建設は11世紀頃に建設、史料の初出は1053年)である。この聖フィルマンは、有名なアミアンの聖フィルマン(Saint-Firmin d'Amiens)と同一人物ではないかとも言われるが、正確なところは分からない。いずれにせよ、この聖堂は長い歴史のなかで破壊と再建が繰り返され、とりわけ16世紀の宗教戦争の際には大きな被害を受けた。もともとは聖ジュリアン教会と呼ばれていたが、1058年に聖メダール(メダルドゥス、Saint-Médard)に捧げられ
た。この聖人は、6世紀にランスの聖レミ(レミギウス、Saint-Rémi)からノワイヨンの司教に任じられた。フランク王国での布教に身を捧げ、とりわけ貧しく不幸な民や病人を憐れみ、広く崇敬を集めたという。560年頃(あるいは545年頃)に没したが、その聖遺物が置かれたソワソンには、国王クロテール1世によってサン=メダール修道院が建てられた。クロテール1世はクローヴィスの第4子であるが、彼の2番目の妻ラデゴンドとの結婚式を祝福したのは聖メダールであり、その妻が残酷な夫クロテールのもとを逃れて修道女となるのを手助けしたのもやはり聖メダールであった。ラデゴンドはポワチエにサント=クロワ修道院を創建している(557年)。サン=メダール教会は、ロマネスク期にはマンド大聖堂参事会の管轄下にあったが、その後、教皇ニコラウス4世(在位1288-1292年)の承認のもと、マンド司教の所有となった。

 現在のサン=メダール教会は、さまざまな改修・増築の手が加えられている。西ファサードには三角屋根で内側が半円形トンネル・ヴォールトとなった大きなポーチ(20世紀に改修)がついている。ポーチの奥の扉口(18世紀)には赤褐色の半円形アーキヴォルトが側柱の上に載っている。西ファサード全体もやはり三角屋根で、ポーチの上に大きな半円頭形の窓が開く。もともとは4ベイからなる単身廊形式であったが、南側に大きなアーケードをへて3つのベイからなる側廊が加えられた。また内陣(西から4番目のベイにあたる)には北側に鐘塔とその下の側室があり、また南側にもそれより大きな側室(ノートル=ダム礼拝堂)があって、あたかもトランセプトのようなプランをなしている。高さのある鐘塔は方形で、上部の鐘のアーケードは横2連式
で、2階建てとなっており、塔頂部は尖頭形である。鐘塔の下の側室と相対するようにある内陣南側の側室
(15世紀)は、そこに接続する側廊よりも南側に大きく張り出していて、尖頭アーチによって内陣と区切られている。そのアーチのすぐ西側の内陣側の壁に、小さなアーチが3つ連なるアルコソリウム(壁龕墓、arcoso-
lium/enfeu)がある。3つの小アーチのうち、中央のものは尖頭形、両側のものは半円形である。尖頭形小アーチの起点部(cul-de-lampe)には天使が彫刻されている(かなり摩耗している)。このアルコソリウムは、先に述べた聖フィルマンのものとされ、1619年にその遺骸とともに発見された。幅の狭い内陣の西には3面
(内陣部を含めると5面)からなる後陣が続く。中央のベイには聖具室が増築されており、窓はなく、上部に半円頭形のニッチがつけられ、聖母子像が置かれている。その左右両側のベイには半円頭形の窓が開く。後陣の天井は半ドームで、ゴシック様式のリブが架かり、それを人物彫刻が施されたキュ・ドゥ・ランプが受け
る。身廊には白塗りされた尖頭ヴォールトが架かる。内陣を含めて4つのベイを分けるのは尖頭形の横断アーチで、それぞれを方形のキュ・ドゥ・ランプが受ける。扉口から聖堂内部に入ってすぐの右側(南側)のアーケードのアーチの起点(コーニス部分)に、丸い目をむいた不思議な人面彫刻が残されている。なお、この聖堂でロマネスク期の雰囲気を最もよく今に伝えるのは、内陣から後陣にかけての部分であるが、後陣外部は、鐘塔下部から後陣部にかけて、扶壁が不規則につけられており、さらに建物自体の劣化などもあり、残念なことにあまり趣のあるものとはなっていない。
Balmelle(1945)p.5; Buffière(1985)pp.211-215; Trémolet de Villers(1998)pp.307-308; RIP.




48.6.17b バナサック=カニヤック/カニヤックのサン=ヴァンサン教会
                 (Église Saint-Vincent de Canilhac, Banassac-Canilhac)
 県道D809とD998が交わる地点(高速道路A75のno.40のインターにあたる)からD809を約2キロ南進し、急なつづれ織りにさしかかるすぐ手前(北)で西に折れ、細い山道(C2)を約3キロ登る。カニヤックは中世期にはジェヴォーダンにあった8つのバロニー(男爵領)のうち、最も歴史が古く、最も強力なバロニーの拠点であった。バロンであるカニヤック一族は、11~12世紀には上級領主である副伯(vicomte)のもとで、ジェヴォーダンからルエルグまで広い範囲を支配下に置いていた。また11世紀半ば以来、ラ・カヌルグのサン=マルタン=ドゥ=バナサック修道院[48.6.19b.]への寄進を通してマルセイユのサン=ヴィクトール修道院との結びつきを持ち、さらに12世紀にはバルセロナ伯に臣従した。レーモン・ベランジェ3世(Raymond Bérenger III)とプロヴァンス女伯ドゥース(Douce)の婚姻の際にはその証人になったとも言われる。この婚姻が、バルセロナ伯家(後のアラゴン王家)の南フランス進出の契機となったのであった。しかし13世紀になると、今度はトゥールーズ伯に臣従している。
←Château de Canilhac

 カニヤックの城はそのバロン一族の居城の1つであり、ロット川の渓谷を見下ろし、マンドとロデズを結ぶ東西の道と、オーヴェルニュからジェヴォーダンをへて地中海に向かう南北の道とが交差する、経済的にも軍事的にも重要な交通の要所を押さえる場所に位置していた。ちなみに、カニヤック一族の家紋は細身の猟犬(グレーハウンド)であるが、これはこの地の領主であったGeoffroy de Montaigutが妻Ermangardeをその財産目当てで殺害しようとした時に、この妻がその2頭の飼い犬によって命を救われたという伝説に由来すると言われる。この猟犬は、カニヤック一族の紋章にもなっている。さらにこの一族は、14世紀には教皇(アヴィニヨンのクレメンス6世)と姻戚関係を持ったり、トゥールーズ大司教やマグローヌ司教を排出するなど、聖界とのつながりを深めた。カニヤック家は、その後18世紀まで存続するが、1720年にフランス王国のラングドック総督代理(lieutenant-général)となったフィリップ(Philippe de Canilhac)が1725年に独身のまま(あるいは跡継ぎを残さずに)没したので、彼が最後の当主となった。その領地は分割されて売却されてしまった。カニヤックの城の遺構は、村の北西端に残っている。そもそも13世紀には、カニヤック一族の居城がラ・カヌルグに移っていたこともあって徐々に荒廃が進み、最終的には1938年の大雪の際に大きく崩壊した。現在は城壁の一部と、半円アーチが架かる一階部分の小さなホールが残るのみである(そのホールは村の施設となっている)。
 サン=ヴァンサン教会は、この城の遺構のすぐ近くに建っている。もともとは城塞付属教会であった。聖堂の西側には墓地が広がっている。かつてこの墓地の壁にはガロ=ローマ時代のものと思われる石像が据え付けられていた。石灰岩でできた高さ66センチメートル、横幅29センチメートルの人物像で、2本の細い足で立
ち、襞の付いたマントを着て右手には方形のハンマー(木槌)らしきものを持っている。顔は摩耗していてよく分からないが、この人像は、ガリアで信仰されていた生と死を司る神スケルス(Silvain-Sucellus。しばしば雷神)とされているが、一方4世紀初めのディオクレティアヌス帝治下にスペインのサラゴサで殉教した聖ヴァンサン(サラゴサのビセンテ)であるとの見方もある(Trémolet de Villers)。もしもこの人像が聖ヴァンサンだとすると、左手に持っているのはスケルスのハンマーではなく、殉教の際に彼を苦しめた鉄具であ
る。この人像は、現在はこのサン=ヴァンサン教会の内部に置かれている。
 
 西ファサードには、バナサック[48.6.17a]と同じように屋根が三角形となった大きなポーチが付いている。ポーチの床面には19世紀の大きな墓石が2つ敷いてある。聖堂本体(身廊)、トランセプト、後陣などすべて三角形の切妻屋根で、南側のトランセプトの上に、方形で高さのある鐘塔が建つ。この鐘塔には上部4つの各面に1つずつ半円頭形のベイが開く。現在はその上に尖塔が載っている。後陣は方形である。この聖堂
は、もともとは2ベイからなる身廊と後陣、そしてその左右に小後陣を伴ったトランセプト(翼廊)という平面プランであったが、時代の経過とともに、側廊や側室、鐘塔などが増築されていった。身廊は、3ベイからなり半円頭形トンネル・ヴォールトが架かる。横断アーチは方形のピラストルが受ける。身廊の両側にはロマネスク期以降に付け加えられた側廊があり、南側の小後陣のみがロマネスク様式のものとして残っている。それは5面からなり、小円柱に支えられた半円形のアーチがアーケードを構成している。主後陣は方形である。半円頭形の開口部の両側には柱頭彫刻を持つ小円柱が立つ。その柱頭彫刻は四つ足の動物である。体をお互いに交差させるポーズを取っている。先に触れた、領主の妻を助けた猟犬ではないかとする見方もあるが、カニヤック家の紋章に現れるそれとは残念ながらあまり似ていない。
 聖堂の北西端(北側廊の西端部)の床下からは、1992~1993年の発掘調査の際に、古代末期5~7世紀頃のものと思われるキリスト教徒の墓が複数見つかっている(そのうち3つはもっと新しい時代のものと推定される)。石灰岩で墓枠を作っており、すべて頭が東を向いている。聖堂自体が最初は単身廊形式であったことを考えると、古代の墓は、もともとは聖堂の外の墓地に埋葬されたものであったのが、側廊が増築された際に聖堂内に位置するようになったと考えられる。
Buffière(1985)pp.389-391; Trémolet de Villers(1992)pp.91-92; Trémolet de Villers(1993)p.125; Trémolet de Villers(1998)pp.302-305;Trintignac(2012)pp.121-122; Revue du Gévaudan(1980/3)pp.83-84.



48.6.18 サン=サテュルナン/タルタロンヌのサン=サテュルナン教会 (2014.08.16)
                (Église Saint-Saturnin-de-Tartaronne, Saint-Saturnin)
 バナサックのサン=ヴァンサン教会[48.6.17b]のすぐ西側から、高速道路A75や県道D267と並行して南に向かう細い道をおよそ3キロ。聖堂の名前は「タルタロンヌの」となっているが、実際にはサン=サテュルナンのコミューンの中程の少し北寄りにある厳めしい城に隣接して建っている。
 この城は、もとは教皇ウルバヌス(ウルバン)5世の母方の一族であるモンフェラン家のもので、13世紀に建設された。4つの塔を持つほぼ正方形の平面プランであり、そのうち南東角の塔が方形(13世紀)で、残り3つの塔は円形(16世紀)である。その方形の塔と南西角の円形の塔の間にはやはり16世紀の居館(logis)が建てられている。北東および北西の円塔は、それだけが孤立して残っているので、いっそうその高さが印象的である。それらの円塔には、大小の方形の窓や細長い銃眼が開けられ、上部に登るための螺旋階段の遺構なども残されている。

 16世紀にこの城を改築したのはセナレ(Cénaret)一族であったが、フランス革命期には放棄され、次第に荒廃が進んだ。城の石材などは持ち去られ、20世紀には完全に廃墟化した。かつてこの城の扉口を飾っていたリンテルとセナレ家の紋章などは、現在はここからおよそ25キロ南東にあるラ・カーズ城(Château de la Caze, Laval du Tarn)の、北面の居館にそびえる方形の塔の下の、扉口上部に埋め込まれて再利用されている。かつてこの城には、城主に頭を下げて挨拶せずに城の前を通ろうとした無礼な領民を、熱く焼いた敷石の上を歩かせて懲らしめたという伝説がある。その言い伝えの真偽のほどは分からないが、19世紀にこの城の所有者であったCasimir de Freissinetは、罪滅ぼしの為なのか、孤独な晩年には館に不気味な碑銘を刻み、ボロ縄を編んだベッドに寝て、石を詰めた袋を引きずって暮らしていたという。1863年に彼が没すると、城はマンド司教の手に渡った後、さらに他に転売された。現在は「歴史的建造物」(Monument historique)に指定され、今の所有者(Feydeau女史。教皇ウルバヌス5世の傍系子孫の家系とも言われる)のもとで修復工事が進められている。
 サン=サテュルナン教会は、この城に付属する城塞教会であった。聖堂は、城から道を隔てて隣接し、背の低い石壁に囲まれて建っている。サテュルナンは3世紀に殉教したトゥールーズの守護聖人、聖セルナン
(Saint-Sernin)である。この地は、中世にはジェヴォーダンからルエルグ地方をへてトゥールーズに向かうルート上にあり、その時代に聖セルナンの聖遺物を持っていたこのサン=サテュルナン教会に巡礼たちが集まった言われる。言うまでもなく、そうした巡礼の多くは、さらにその先に歩みを進め、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへと向かったのであった。この聖堂は、1155年にはマンド司教アルドゥベール3世・ドゥ・トゥルネルによって、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に与えられている。

 西ファサードは、三角屋根の身廊西壁の南側(すなわち南側廊の西端のベイの上)に大きな方形の鐘塔が付く。この塔は16世紀にプロテスタントによる破壊の後に建て替えられたものである。上部には四面すべてに横2連式のベイが開き、その上に尖塔が載る。この塔の下部南側の壁面には、ゴシック様式の尖頭アーチの名残が埋め込まれている。かつてはこのアーチからも聖堂内部に出入りできたのであろう。西ファサードに付けられた扉口は、多少横に長い扁平形の3重のヴシュールから構成されるアーキヴォルトの下に開いている。このヴシュールに装飾彫刻などは見られない。縦長方形の扉口の上辺は、ヴシュールが降りてくる水平のインポストと連続し、無装飾の白いリンテルが載るが、タンパンには横長の四角い窓が開いている。アーキヴォルトの一番外側のヴシュールの外縁は、左右に水平に延びるモールディングに縁取られている。さらにその上には大きな丸窓が開いている。鐘塔から南側に回ると、17世紀頃に増築された側廊部が続くが、その外壁には横長で高さの低い帯状の扶壁が付けられている。側廊に並ぶ3つの方形の窓は、この扶壁を穿つようにして開けられている。身廊部よりも一段低くなっている後陣は方形で、その東面の壁に開けられた開口部は縦に細長く、上部には半円頭形のアーチ状の石が載っている。聖堂北側には住居が接続している。
 聖堂の内部は、身廊の南側にだけ側廊が付く2廊式である。身廊は3ベイからなり、天井は尖頭形のトンネ
ル・ヴォールトである。内陣(後陣)の天井は半円形ヴォールトとなっている。身廊部の横断アーチおよび側壁は石組みが分かるが、それ以外のコーニスから上のヴォールト部分は白く上塗りされている。この横断アーチは、ヴォールトの起点あるいはさらにその下まで降りているものが南北においてランダムな間隔で並んでいる。身廊とその南側に付けられた側廊の間は、半円形アーチが連続する比較的高さの低いアーケードによって隔てられている。幅の狭い側廊は半円筒形のトンネル・ヴォールトである。側廊の南壁には大きな半円形の壁アーチが並び、その内側に開けられた窓は、内部に大きく隅切りされている。側廊の最も東のベイは、現在は壁で仕切られて(埋められて)いて、内陣に隣り合う形の聖具室となっている。身廊の北壁には、西から2番目の横断アーチの真下に半円頭形のニッチのアルコソリウム、そしてそのすぐ東隣には、やはり半円頭形で背の高いニッチが残されている。この後者は、かつては聖堂とそれに隣接する司祭館との間を行き来するための出入口であったと思われるが、現在は埋められていて、古くて大きな墓石が立てかけられている。

 最も注目すべきは、内陣(後陣内部)の仕様で、全体としてプレ・ロマネスクの雰囲気をも感じさせる部分である。身廊のヴォールト頭頂部から下にかなり段差をもって架かる凱旋アーチは、その左右においてこれもまた大きな壁付き柱(ピラストル)が受け止めているが、その柱は内側に突き出た柱頭部から下にカーヴを描いて広がるように床へと続くため、この部分は一見してピレネー・カタルーニャ地方でよく見られる馬蹄形アーチのような印象を受ける。これはジェヴォーダン(ロゼール)では他に見られないものである。内陣の平面は方形で、南北と東に開口部がある。東のそれ(すなわち内陣中央に開く窓)は、半円頭形の細長いもので、左右を柱頭彫刻を持つ小円柱にはさまれている。その柱頭彫刻は、向かって右側が、アカンサスの葉飾りの中央に羽をたたんで立つ鳥(しかしその脚は人間のようでもある)、そして左側は、V字状に広がる葉飾り(葉脈がはっきりしている)である。この葉飾り柱頭の冠板のすぐ下には、丸い円が帯状に並べられている。平面形となっている内陣東壁には、その下部左右両側に背の低い半円頭形の壁付きアーチがある。向かって右側のアーチの頭部の脇に、かつてはそこに立っていたと思われる小円柱の柱頭彫刻の一部が残されている。横長のテーブルの上に小さな十字架と人間の顔、そして長い角(つの)を持つヤギの姿などが見られる(年代は不詳であるが12~13世紀頃のものと思われる)。これはTrémolet de Villers(1998)やVerrot(1994)に掲載されている内陣の写真には写っておらず、最近になってこの場所に復元されたものである。
 内陣は上記の小円柱や復元された柱頭彫刻の一部を除いて、全体が白く上塗りされていて、残念ながらかつての石積みなどの様子はうかがい知れない。聖堂の身廊部もヴォールトは横断アーチを除いて白く上塗りされている。しかし内陣の半ドーム、凱旋アーチとそれを受け止める側柱の柱頭部分などにフレスコ画が描かれている。内陣の半ドームには光(あたかも金属あるいは岩石の結晶のように見える)を四方に放ちながら、雲に囲まれて天上からこの地上に向かって降りてくる白いハトが描かれている。これは17世紀後半あるいは18世紀初め頃のものである。さらに凱旋アーチには、アーチの曲線に沿って大小のブロックが交互に並び、中央には十字架があり、キリストの体を打ち付けていたと思われる釘が描かれている。これも18世紀のものである。凱旋アーチを受け止める側柱(ピラストル)の柱頭には、向かって右側には葬儀の際の黒いベールを表したものの下に、動物の足のようなものが垣間見えている。これはこの聖堂のフレスコ画の中で最も古いものと思われる。
 なお、聖堂の扉口の外には、向かってすぐ右側に、先に触れたサン=サテュルナンの城の最後の城主Casimir de Freissinetの墓がある。厚さのある大きな墓石で、表面は摩耗が進んでいるが、そこにはラテン語で「高名な家柄の生まれ、さらにまたその誠実さ、その信仰、そしてその厳格な徳において高貴なる者」と刻まれている。
Balmelle(1945)p.73; Buffière(1985)pp.296-297, p.534; Morel(2007)pp.106-107;
Nougaret et Saint-Jean(1991)p.300; Trémolet de Villers(1998)pp.305-307; Trintignac(2012)p.479; Verrot(1994)p.9, pp.38-39; RIP.
← Casimir de Freissinetの墓



48.6.19a ラ・カヌルグ/モンジェジューのノートル=ダム教会
                 (Église Notre-Dame de Montjézieu, La Canourgue)
 モンジェジューは、ル・モナスティエとバナサックのちょうど中間に位置する。高速道路A75でもno.39とno.40のインターチェンジの中ほどにあたる。県道D809からレ・サルス[48.6.14.]方面に向かう細い村道C5をおよそ1キロほど登った高台の村である。この地には古代ガロ=ローマ時代からヴィラなどがあり、多少とも人が住んでいた。≪ Montjézieu ≫という地名は≪ Montjuif ≫から来たとも言われ、中世にはこの村にユダヤ人の共同体があった。12世紀にはすでに城(村の西端に建つ)が築かれていて、政治的にはジェヴォーダン副伯に、次いでバルセロナ伯(アラゴン王家)に属した。13世紀にこの地を実効支配していたのは、ユダヤ系のギヨーム(Guillaume Juif)という領主であった。14世紀に入るとユダヤ人は姿を消し、モンジェジューの城はマンド司教の所有するところとなった。その後、フランス王家がこの地を手に入れるが、実際の城主はカニヤックやモンフェランの領主であった。宗教戦争やカミザール戦争などの混乱期をへて、何度も破壊の危機を免れて今日に至っている(現在、城は個人所有である)。モンジェジューは、1972年にラ・カヌルグのコミューンに併合された。
 ノートル=ダム教会は、村のほぼ中心の小さな広場に面して建っている。かつてはモンジェジューの城の付属礼拝堂であった。建設はロマネスク期であるが、その後かなり改修・増築などの手が加えられている。飾り気のない西ファサードには半円頭形の扉口(ロマネスク期のものではない)とその上に丸窓が付くだけであ
る。ファサードに向かって左(北)側には尖塔の載る方形の鐘塔が、また右(南)側には大きめのトランセプト様祭室が広場に向かって突き出るようにして建てられている(両者とも19世紀のもの)。高さのある後陣は半円形平面プランで、モディヨンその他の装飾の類いは見られない。後陣北側の半円頭形開口部は外側に向けて隅切りされている。東端の開口部も半円頭形であるが、外に向けては平面的で隅切りされていない。なおこの後陣は、民家の敷地(私有地)内に入り込んでいるために、外から全体を見渡すことは難しい。
 
 聖堂内部は2ベイからなる身廊に、凱旋アーチを介して祭壇の置かれた内陣が続く。この凱旋アーチは、方形の大きなピラストルが受けるが、北側のそれには木製の美しい説教壇が付けられている。身廊は水平に延びるコーニスの上に半円筒形トンネル・ヴォールトが載り、ベイの間に半円形の横断アーチが1本架かる。横断アーチはピア柱が受ける。そのピア柱は、方形のピラストルに柱頭を持つ円柱が付けられるというものであるが、その円柱(柱頭部)の上にはなにも載っていない。ヴォールト部分は白く上塗りされている。東側のベイの南北それぞれに、大きな半円アーチを介してトランセプトのようにして19世紀の祭室が増築されているが、南側の祭室の方が大きい。内陣部には身廊からコーニスが連続し、その上に半ドームが載る。内陣(後陣)の東端の窓(開口部)は、内部に向けては隅切りされている。またこの窓の開けられている位置は、聖堂の東西の軸線からわずかに向かって右(南)側にずれている。扉口の開く身廊西側のベイには木製の二階席が設けられている。
 なおこの村からおよそ400メートルほど南西に行ったところに、サン=ジャン=デュ=ヴェデル礼拝堂
(chapelle Saint-Jean-du-Védel)がある。14世紀前半には史料にその名が出てくるが、16世紀に破壊された後、1877年に再建されたものである。言い伝えによると、かつてはこの聖堂が捧げられている洗礼者ヨハネ(Saint-Jean-Baptiste)の祝日である6月24日に、この場所で子牛が生け贄として犠牲にされていた。その際子牛は自分の首を切り取ることになるナイフをその首に結びつけて、近くの森から自らすすんで現れたのだという。その森はいまでも子牛(veau)を表すオック語(vedel/bedel)にちなんで「ブデルの森」(Bois du Bedel)と呼ばれている。
Balmelle(1945)p.45; Buffière(1985)pp.292-293, Trémolet de Villers(1998)pp.294-295; GV.



48.6.19b ラ・カヌルグ/サン=マルタン・コレジアル教会
                        (Collégiale Saint-Martin, La Canourgue)
 県道D809が高速道路A75のインターチェンジno.40と交わるところから県道D998に入って約2キロ東進する。コミューンはロット川にグルニュ川が合流する少し手前にあたり、その豊かな水を利用して18世紀には製糸・織物業、19世紀には皮革産業が栄えた。これらは長続きはしなかったが、現在では有機農業、養魚業、そして近代産業の進出によって、コミューンの人口はむしろ増加している。
 古代には、隣接するバナサック[48.6.17a]のように製陶工房があったとも考えられるが、それを証明するような考古学的な発見はなされていない。ラ・カヌルグが歴史の舞台に登場するのは、聖エニミー(サン=テニミー/Sainte-Énimie、628年頃没)によってこの地にサン=マルタン修道院が創建されたことによる。この聖人は、もとはメロヴィング王家の王女で、国王クロタール2世の娘であり、その後を継いだダゴベール(ダゴベルト)1世(603-639)の姉(あるいは妹)であったとされる(詳しくは次稿で取り上げる Sainte-
Énimieを参照のこと)。9~10世紀に、聖堂参事会(chanoines)のコレージュがここに定着し、その
「chanoine」からこの地が「La Canourgue」となったと言われたり、エニミーが創建した修道院の聖堂が
「サンクタ=マリア=カノニカ」(Sancta Maria Canonica)と呼ばれたことに由来すると言われたりする。あるいはこの地が土地の方言で「Canoungié」と呼ばれたところから来たとも言われる。
 いずれにせよ、エニミーによって創建されたこの修道院は、サン=マルタン=ドゥ=バナサック修道院
(Saint-Martin-de-Banassac)と呼ばれるようになり、1060年(または1065年)7月4日、マンド司教アルドゥベール1世・ドゥ・ペイルによって、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に譲られた(歴代の教皇がそれを確認している。1070年、1113年、1135年)。現在残るサン=マルタン教会はこの時期以降に、サン=ヴィクトール修道院の修道士たちによってコレジアルとして建設されたものである。同じくロマネスク期にラ・カヌルグに建てられたとされるノートル=ダム・ドゥ・ブロンド教会(Notre-Dame de la Blonde)は現存しない。コレジアルの方は15世紀に内陣が崩落、16世紀の宗教戦争の際にはカトリック・プロテスタント双方から、ラ・カヌルグの街とともに略奪・破壊の被害を受けた。さらに1670年、聖堂西端に建っていた鐘塔とポーチが、洪水の後の地盤の緩みのために、身廊の西側の2つのベイを巻き込んで崩落した。その部分はその後再建されることはなかったために、もともとあった東西35メートルの身廊は、およそ半分に切り詰められる形のまま今日に至っている。扉口から後陣までの現在の全長はおよそ23メートルである。聖堂南壁に付けられた現在の方形の鐘塔は、17世紀終わりに再建された。ラ・カヌルグのサン=マルタン修道院の宗教施設としての役割は、フランス革命の少し前には終わっていたが、革命の後、付属コレジアル教会は教区教会となった。

 このコレジアル教会は、ジェヴォーダンでも最も大きい聖堂建築の一つであった。所有する聖遺物が多くの巡礼たちを呼び寄せたため、オーヴェルニュにおいてよく見られるタイプの、いわゆる「巡礼教会」としての形式(後陣回廊や放射状に並ぶ祭室の存在など)を備えていた。西ファサードは、先にも述べたように、1670年に鐘塔と西の2つのベイが崩落したことによって、身廊部の東から3つめのベイの西側に壁と扉口を設けたものとなっている(1685年)。したがって、中央に開くゴシック様式の扉口(尖頭アーチで3重のヴシュールからなるアーキヴォルト)の左右両側には、その3つめのベイを構成する南北のピア柱がそのまま外側に露出している。そのうち向かって右側(南側)のそれにはピア柱に付けられた円柱が高い位置まで残されている。左側(北側)のものは、ピア柱の方形の柱身が突出しているが、そこに付けられていた円柱は、中程の高さにごく一部のみが見られるだけである。その2つのピア柱のさらに外側には、南北2つの側廊の天井のヴォールトであった半円アーチが残されている。中央の扉口の尖頭アーチのすぐ上には、12世紀にラ・カヌルグの領主(baron)であったカニヤック家の紋章(後ろ足で立つグレーハウンド)が埋め込まれている。その上に
は、半円頭形の開口部が2つ並び(その位置は微妙に高さが異なる)、さらに最上部にはゴシック・フランボワイヤン様式の装飾(三つ葉形のトレーサリーがいくつも付く)が施された大きな丸窓が開いている。
  
 聖堂の南側から後陣に回ると、12世紀の半円形の小後陣(放射状祭室)と、15世紀の方形の祭室が交互に並んでいる様子を見て取ることができる。上層部はもっぱら赤い砂岩、下層部は薄い黄土から出来ている。この上層部は、下層部の放射状祭室の平面よりもかなり狭く(小さく)感じられるが、聖堂内部の主身廊ならびに内陣部の天井部分に対応しており、ゴシック様式の尖頭形の窓が並んでいる。下層部においては、尖頭形の窓が開く厳めしいゴシック様式の方形の祭室と、ロマネスク時代の半円形の小後陣が、あたかもリズミカルな視覚的効果をもたらすかのように交互に並ぶ。小後陣をめぐる帯状の土台の上に据えられたそれぞれの台座から、繊細な壁付き円柱が立ち上がり、それらの円柱の間に半円頭形アーチの窓が開けられており、これらは後陣全体に調和の取れた安定した外観を与えている。南側の半円形小後陣の壁付き円柱には柱頭彫刻が残されている。アカンサスや頭部の欠けた人物彫刻が見られるが、向かって最も左側の柱頭彫刻は、2人の人間が向かい合い、そのうち1人が矢を構える射手(archer)である。戦いを繰り広げる同じような戦士のモチーフは、オーヴェルニュ地方で時おり見かけるものであるが(サン=ネクテール他)、ロゼールではナスビナル
(Nasbinals[48.2.8.])において見ることができる。ただし、ナスビナルのものは射手は両足でしっかりと立っているが、ここラ・カヌルグでは右足を地面に着けて曲げている。
 聖堂内部は、先にも触れたように主身廊の両側に側廊が付き、その側廊はそのまま内陣を取り囲む後陣回廊に続いてゆく。この形式はジェヴォーダンではここだけである。トランセプトはない。身廊と側廊は、壁付き円柱が付けられたピア柱の間にアーケードとなって並ぶ半円アーチで隔てられている。ピア柱に付く壁付き円柱は、このアーケードのアーチを受けるものには多少とも単純化されたアカンサスの葉飾りの柱頭彫刻が見られる。一方、身廊側に面した壁付き円柱は、南北両側においてさらに高いヴォールトの起点部まで立ち上が
り、方形の冠板を介して横断アーチを受ける。この横断アーチは、最も東側のものは尖頭形であるが、残りは半円形である。高さが約16メートルある身廊の各ベイのヴォールト(15世紀)には、交差リブが架かる。主祭壇のある内陣は、その外側(東側)の後陣回廊とは、ルネサンス期に造られた五角形の壁で隔てられているが、ルネサンス様式の方形の開口部によって、後陣の祭室に並ぶアーケード(窓)が見えるようになってい
る。この五角形の壁の上には、水平のコーニスをへて、ゴシック様式の尖頭形の窓が5つ並ぶ。その窓の間に
は、後陣部のヴォールトを支える7本のリブが放射状に架かる。そのすぐ西側に接続する内陣部の真上は、4分交差リブ・ヴォールトである。なお内陣の主祭壇の南北両側の壁には、ジェヴォーダン初期の司教である聖プリヴァと聖フレザルの彫像(19世紀)が置かれ、その下にはそれぞれ15~16世紀のアルコソリウム(壁龕
墓)が付けられている。
  
 側廊から後陣回廊にかけて目を転ずると、まず身廊の南北両側に付けられた幅の狭い側廊は、厚さのある半円形の横断アーチで区切られた3つのベイからなっており、南北ともに最も西側のベイには4分交差リブ・ヴォールトが架かる。それ以外のベイはロマネスク様式の半円筒形トンネル・ヴォールトである。側廊に架かる横断アーチは、方形のピラストル(壁柱)とそこに付けられた壁付き円柱、そしてさらにその上に載る2本で一組になった小円柱によって支えられている。この二段構えの柱の仕様は、後陣回廊においても連続するが、上部の2本一組の小円柱の柱頭彫刻は、図形化されたアカンサスの葉飾りが多い。後陣北側にあるロマネスク様式の放射状祭室の、向かってすぐ左側のそれには、アカンサスの葉に挟まれてフクロウがいる。円形のアストラガル(柱頭彫刻のすぐ下部の円形の輪)を脚でしっかりとつかみ、物静かにこちらを見つめながらたたずんでいる。フクロウは、例えばブルゴーニュ(ソーリュー)などで時おり見かけるものであるが、ここロゼール(ジェヴォーダン)では珍しい。方形のピラストルに付けられた太い円柱の柱頭には、古代の影響が濃いパルメットの浅浮き彫りも見られる。
  
 後陣回廊には、平面プランが半円形のロマネスク期の3つの祭室(12世紀)と、方形のゴシック期の2つ祭室(15世紀)が交互に放射状に並んでいる。注目すべきはやはり前者のほうで、3つの祭室ともそれぞれ、内部に向けて隅切りされた半円頭形の窓が開き、その窓を縁取るアーチを受けるのは、柱頭彫刻を持つ小円柱である。中央(東側)の祭室において、3つの窓のうち真ん中のものの左右には、やはり2本一組となった双子形の小円柱が立ち、そこには古代風のアカンサスの柱頭彫刻が付けられている。その2本の小円柱は、長方形の冠板を共有している。一方、南側の祭室の窓を縁取る小円柱の柱頭彫刻は、複雑にからまる植物のツルと実であるが、とりわけ向かって右側のそれは、植物の実というよりも、むしろ目や口のついた人面のようにも見える。北側の半円形祭室の柱頭彫刻は、4本ある小円柱のうち、一番左側のものがパルメットと組紐文様であ
る。中央の2本(この祭室の唯一の窓を挟んでいる)の柱頭には、明らかに人間の顔が並んでいる。右端の小円柱に載る柱頭彫刻は、簡略化されたアカンサスであるが、その上部の渦巻きに挟まれているのはやはり人間の顔に見える。後陣に並ぶ3つの祭室(小後陣)は、窓を縁取るアーケードの上にコーニスが水平に付けら
れ、その上にはそれぞれ半ドームが載る。方形の2つの祭室には、トレーサリーで装飾されたゴシック様式の尖頭形の大きな窓が開く。なお、身廊西端の扉口の上には木製のトリビューンが付き、1998年に新しくオルガンが備え付けられた。
 ラ・カヌルグのサン=マルタン・コレジアル教会は、サン=ヴィクトール修道院による建設ということもあって、その建築にはプロヴァンスの影響も認められると言われる。側廊や後陣回廊などの存在によって、オーヴェルニュからルエルグをへてコンク、そしてサンティアゴ・デ・コンポステーラへとつながる巡礼教会の様式を共有しており、ロゼールでは貴重な聖堂建築である。17世紀に西側部分が崩落したことが返す返すも悔やまれるところである。
Balmelle(1945)pp.9-10; Bertran de Marcilia(2001)pp.5-19; Buffière(1985)pp.227-234, pp.287-291, pp.514-516; Chastel(1981)p.11; Morel(2007)pp.92-93; Ribéra-Pervillé(2013)pp.107-109; Trémolet de Villers(1998)pp.308-314; GV; RIP.



48.6.19c ラ・カヌルグ/サン=フレザル礼拝堂(Chapelle Saint-Frèzal, La Canourgue)
 ラ・カヌルグの中心のプレ・コマン広場(place du Pré Commun)からさらに県道D998を東におよそ700メートルほど進んだあたりで左(東)に折れて、まさしくSt-Frézalと名付けられた小径を進む。その小径の突き当たりは、古くはケルトの時代から聖なる泉水が湧く緑豊かな小さな谷間となっており、そこにサン=フレザル教会がひっそりと建っている。
 聖フレザル(サン=フレザル/Saint-Frèzal)は、8世紀終わり頃から9世紀前半にかけてジェヴォーダンの司教であった(この時に司教座があった場所は、ジャヴォルなのか、あるいはすでにマンドに移されていたのかよく分かっていない)。当時まだ異教の風習が濃厚なジェヴォーダンにあって、それと戦いながらキリスト教の布教に生涯を捧げた聖人であった。生年は780年頃で、ジェヴォーダンを支配していた有力なバロンの1つであるカニヤック一族の出身であるとも言われるが、正確なところはよく分からない。伝説によれば、シャルルマーニュの息子(三男)であるルイ敬虔王(Louis le Pieux/ルートヴィヒ1世)の治世下の826年9月4日に、司教の地位を望んだ甥のブキリヌス(Bucilinus/Bucilius)によって殺された。首を切り落とされたのだが、まるでサン=ドゥニがそうであったように、彼もまた切り落とされた自分の頭を持ってラ・カヌルグの東に湧く泉まで歩いたのち、そこに葬られたという。現在のサン=フレザル礼拝堂が建つのはまさしくその場所であり、今でも堂内の祭壇に彼の墓(石棺)が置かれている。この墓は、1894年にマンド聖堂参事会員のBaffieが、内陣の祭壇の下で発見し、さらに同じく聖堂参事会員であったBosseがこれを聖フレザルのものとした。棺の中には、中年で背が約180センチの一人の男性の骨がほぼ完全な形で置かれていた。その後、19
92年と1994年に、放射性同位元素その他による詳細な科学調査が行われた。その結果、この棺の中に置かれていたのは、身長175センチ、年齢は45~50歳の男性で、死因は頭蓋骨の骨折と推定された。死亡したのは7世紀終わり~9世紀終わり頃で、可能性としては790年~850年の間、最も長く見積もっても696~888年とされた。背後からの何らかの外傷による頭蓋骨の骨折の跡は見られたものの、首を切断された様子は認められなかったという。伝説のように斬首ではなかったが、遺骸の年代や(暗殺は826年)、暗殺を示唆する頭への打撃の痕跡などから、確言はできないけれども、この遺骸が実際に聖フレザルのものである可能性は高いと言えよう。
  
 そのようなわけで、この聖堂は古くから聖フレザルを慕う巡礼が数多く訪れるところとなっていた(聖堂のそばに湧く泉水は皮膚病に効くと言われ、これもまた多くの病者を集めた)。ラ・カヌルグのサン=マルタン・コレジアル教会[48.6.19b]がマンド司教によってサン=ヴィクトール修道院に譲られる2年前の1058年に、カニヤック一族に従うHugues Bonnafouによって、やはりマルセイユのサン=ヴィクトール修道院に寄贈された。16世紀に入るとプロテスタントによって破壊されたが、17世紀に入って修復・再建された。革命後、1802年のコンコルダ(政教和約)に際してはラ・カヌルグの教区教会に属した。しかしその後、再び少しずつ荒廃と廃墟化が進んだのであるが、19世紀後半から再建への取り組みが始められ、20世紀後半になって現在の姿になった。
 サン=フレザル礼拝堂は泉水の湧く谷間のゆるやかな斜面に建っている。その最も古い部分は11世紀(あるいは10世紀)にまでさかのぼる。身廊と後陣は13世紀、西ファサードは16世紀終わり頃あるいは17世紀前半頃に再建されたものである。全長は約20メートル、身廊部の幅は5.5メートル、ヴォールトの高さは8.5メートルである。西ファサードは、大きな扶壁が左右両側に付けられているために、一見して非常に安定した形となっている。しかし仕様はきわめてシンプルで、中央に半円頭アーチの簡素な扉口が開き、その上には大きな丸窓、そして頂上部にごく小さな鐘楼(ベイは開いていない)が載るだけである。聖堂の北側の壁には、幅のある大きな扶壁が5つ狭い間隔で並ぶ(その高さはそれぞれ微妙に異なる)。これはこの谷で時折発生する大水に対するものであると言われる。南側の壁には、ファサードに付けられたもの以外は扶壁はまったくない。後陣外部もやはりシンプルで、最東端と南側に小さく縦長の半円頭形の窓が開くのみである。なお聖堂の南壁には、現在は埋められてしまっているが、半円頭アーチの出入口の痕跡が3つ残っている。これはかつてこの聖堂に連続する形で建てられていた小修道院の建物との行き来のためのものであったと考えられる。

 聖堂内部は単身廊形式で側廊やトランセプトはない。身廊は4ベイからなり、東端は半円形平面の内陣となる。内陣には水平のコーニスの上に半ドームが載る。身廊のベイを区切る幅のある尖頭形の横断アーチは、南北の側壁において、ヴォールトの基点に水平に延びるコーニスまで降りてキュ・ドゥ・ランプ様の方形の控え目なブロックが受け止め、さらに方形のピラストルとなって床まで続く。このピラストルの間には半円形の壁アーチが付けられ、アーケードを構成するが、身廊東端にあって内陣に接するベイの壁アーチだけは他のものと異なり、頭頂部が水平のコーニスを超えた高い位置まで達している。南側のアーケードのうち東側3つのアーチには、半円頭形の窓が開いている。窓自体は縦長で小さなものであるけれども、内部に向けて開く隅切りが非常に大きなものとなっている。
 内陣の壁の東側と南側にも同様に内部に向けて隅切りされた小さめな窓が開き、彩色されたステンドグラスがはめられている。内陣中央には聖フレザルのものとされる石棺が置かれ、祭壇の役割を果たしている。石棺のサイズ(外辺)は、縦2.1メートル、横0.7メートル、高さが頭部で0.5メートルで、足の側はそれより少し短い台形となっている。蓋は厚さ14センチの石板である。現在では、石棺全体が2本の石の台脚の上に載せられている。装飾彫刻の類いはまったく見られない。この石棺は過去に何度かマンドの大聖堂に移そうとする試みがなされたが、そのたびにさまざまな理由からうまくいかず、それは聖フレザルがこの地を離れたくなかった証しであったのだとも伝えられる。
  
 礼拝堂の中の壁には、扉口を入ってすぐ左側に1746年の墓石が立てて置かれている。十字架とハート形が線刻されている。さらに堂内にはLucien Lingetの手による5枚のタピスリーが飾られている(近年のもの)。そのうち4枚は聖フレザルの生涯を描いたもので、聖フレザルの布教活動、断頭による死、暗殺者への天罰、牛車のエピソード(聖堂から聖人の遺骸を運びだそうとしたがうまくいかなかったという話)など。残りの1枚は最も大きく、西壁の扉口の上に飾られている。そのテーマは、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼とそれにまつわるさまざまな冒険譚である。
Balmelle(1945)p.10; Durliat et al.(1966)p.28; Evin et Rillot(2005)pp.56-58; Rillot(sans date)pp.1-18; Trémolet de Villers(1998)pp.314-315; Trintignac(2012)p.133; GV; RIP.




48.6.19d ラ・カヌルグ/ラ・カペルのサン=マルタン教会
                  (Église Saint-Martin de La Capelle, La Canourgue)
 ラ・カペルは、ラ・カヌルグから県道D998を東へおよそ10キロにある小集落であり、サン=マルタン教会は県道から北に約300メートル入ったところに建っている。開けた畑に囲まれていて、県道からも尖頭形の鐘塔がすぐに目に入る。「カペル」の名は、4世紀のトゥールの司教で後に聖人となったマルティヌス(サン=マルタン)がいまだローマ軍の兵士であった頃、ガリアのアミアンで、寒さに震える貧者に切って与えた彼の外套(cape)にまつわる伝説に由来する。そもそも礼拝堂を意味する「シャペル」(chapelle)も、聖マルティヌスの聖遺物であるこの外套を納めた建物をそう呼んだことによるとされ、あるいはまたカペー王家
(capet)の名前もやはり同様に聖マルティヌスの外套にちなんだものであると言われる。
 ラ・カペルのサン=マルタン教会は、11世紀終わりから12世紀初め頃に建設されたようで、もとはサン・テニミー(聖エニミー)がラ・カヌルグに創建したサン=マルタン=ドゥ=バナサック修道院[48.6.19b.]の付属聖堂であったが、1155年に、マンド司教アルドゥベール1世・ドゥ・ペイルによって、マルセイユのサン=ヴィクトール修道院に譲られた。現在の建物はロマネスク期の要素をかなり復元してはいるものの、13世紀以前までさかのぼるものではないという意見もある。いずれにせよ、17世紀から18世紀にかけて3つの祭室
(身廊部に1つ、内陣部に2つ)が増築され、さらに19世紀になってから背の高い鐘塔が、凱旋アーチの上に建っていた古い鐘楼壁に取って代わって建てられた。
  
 県道側(つまり南側)から見ると、聖堂の西側に住宅(かつてここにあった小修道院のもの)が接続しているので、一見して横に長い大きな建物のように見えるが、実際の聖堂部分は意外と短い。扉口は南側の壁に付けられた大きなポーチの中の向かって右下部分に開いている。アーチは尖頭形で、モールディングに縁取られたゴシック様式である。その上には、半円頭形の小さな開口部があり、左側には第一次大戦および第二次大戦の際の戦没者祈念碑が付けられている。このポーチの上部には左右それぞれに、やはりゴシック期の人間の上半身の彫刻が、訪れるものを見下ろすようにして埋め込まれている。後陣側に回ると、そこには南北それぞれに大きな祭室が増築されているうえに、中央に大きくてがっしりした扶壁が付け加えられているために、もともとの外観は大きく損なわれてしまっている。それでもロマネスク期の名残である繊細で細長い円柱形の扶壁(軒持ち送りのコーニスまでは達していない)と、その間に並ぶ半円アーチのアーケード、そしてそのアーチの中に開く半円頭形の窓を見ることができる。その外観(特に円柱の扶壁の仕様など)は、ラ・カヌルグのサン=マルタン・コレジアル教会[48.6.19b]のそれとよく似ている。なおラ・カペルの後陣には、モディヨン彫刻などは見られない。
 聖堂内部は3ベイからなる身廊に、わずかに五角形となった内陣が続く。身廊のそれぞれのベイは半円形の横断アーチで区切られ、それらのアーチは柱頭彫刻を持つ壁付き円柱が受ける。天井は半円筒形のトンネル・ヴォールトである。西端のベイには石造りのトリビューンの上に木製の二階席が設けられている。また西壁にはかつてこの聖堂と隣り合っていた小修道院の建物との行き来のための出入口が今でも残されている。一方、東端のベイには、南側に大きな祭室が半円形アーチを介して開いている。2つの縦長の窓とその間に小さな丸窓が開いており、採光の役割を果たしている。身廊から凱旋アーチをへて続く内陣には、南北それぞれにやはり17世紀から18世紀にかけて増築された祭室が半円形アーチを介して開いている。五角形の内陣(後陣)には、中央と向かってその右隣の2つのベイだけに半円頭形の小さめの窓が開いている(内部に向けて隅切りされている)。内陣の天井はコーニスの上に半ドームが載っている。
  
 ラ・カペルの堂内の装飾としては、まず聖堂の壁に描かれた彩色されたフレスコ画が目に入る。場所は、扉口を入ってすぐのトリビューンの大アーチ、西壁、内陣の半ドームおよび内陣北側の側室の天井、そして横断アーチと身廊北側のヴォールトの下部などである。それらの多くは18世紀のものであるが、このうち最も古いものは身廊東端のベイの北側のヴォールト下部に描かれたもので、かなり摩耗して失われており、図柄などは判然としないが、この聖堂の建設当初のものあるとも言われる。西壁にはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼、あるいは巡礼の姿をした聖ヤコブ自身(この部分も18世紀より古い)、トリビューンの大アーチには貧者にマントを与える聖マルティヌス、さらに内陣に架かる半ドームには、雲の上に乗って両手を広げる人物が描かれ、周囲に向けて光を放ち、天使に囲まれている。天使の一人は、この人物に司教杖を掲げている。
 フレスコ画以外にも、身廊部の横断アーチを受ける円柱や、身廊南側の祭室に向けて開く大アーチの下などに彫刻装飾が見られる。横断アーチを受ける円柱の柱頭彫刻は、簡素な葉飾りや渦巻きなどであるが、身廊南側祭室大アーチ下部には非常に興味深い(Zodiaqueによれば「謎めいた」)浅浮彫りパネルが埋め込まれている。3頭身ほどの人物が中央に立っている。髪はおかっぱにしており、目は三角で大きな鼻を持つが口は小さい。折り目の付いた丈が短めのチュニック様の衣服を着て、袋を首から斜めがけにしている。左右に広げた腕のうち、右手には太いバトン(棒)を持ち、左手には何本も横に筋の付いた四角い板のようなものを持っている(それは文字列の書かれた聖書のようにも見えるし、あるいは右手の指が並んでいるようにも見える)。この人物の頭の向かって左側には星が輝いている。またこの人物をはさんで向かって右側には細い胴と長い耳を持つおとなしそうな動物がいる。しかしその反対側の向かって左側(彼が握るバトンのさらに先)には、首の長い恐ろしげな四足獣が、後ろ足で立ち上がり、彼に襲いかかるかのようなポーズを取っている。トゲが鋭く枝分かれしたような長い尻尾を逆立てているのが印象的である。この人物の向かって右側の上には文字が刻まれているが、まったく解読不能であり、製作年代やテーマについては何もヒントを与えてくれない。

 この人物についてはさまざまな解釈が可能である。羊飼い(あるいはいわゆる「善き羊飼い」)であるとすると、彼の向かって右手下にいる動物は羊であるということになる。しかしもし巡礼を表しているのであるならば、彼が握るのは巡礼杖、首から斜めにかけているのは食料袋である。そして右下の動物は巡礼とともに聖地に向かうロバということになろうか。またこの人物を、ロバとともにガリアを巡ってキリスト教の布教に努めた聖マルティヌス(サン=マルタン)であると見ることも可能である。実際、ラ・カペルの聖堂はこの聖人に捧げられている。Trémolet de Villersによれば、いずれにしてもこの浅浮彫りパネルが表現しているのは、悪しきものとの戦いの後に訪れる、救いを告げ知らせる「善き知らせ」なのであるという。
Balmelle(1945)p.11; Buffière(1985)pp.291-292; Chastel(1981)p.11; Morel(2007)pp.93-94; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.285-286; Trémolet de Villers(1998)pp.315-317; Verrot(1994)pp.40-41; RIP.




48.6.20 ラヴァル=デュ=タルヌ/サント=マリー教会(Église Sainte-Marie , Laval-du-Tarn)
 ラヴァル=デュ=タルヌの村は、ラ・カヌルグから県道D998で約17キロ、ラ・カペルからは7キロである。現在はラ・カヌルグのコミューンに属するが、距離的にはむしろサン=テニミーに近い(約9キロ)。ソヴテール石灰岩台地(Causse de Sauveterre)が、タルヌ渓谷にうがたれる手前(すぐ西側)に位置している。サント=マリー教会は、この村のほぼ中央に建っている。建設は12世紀~13世紀とされ、もともとはマンド大聖堂参事会の管轄下にあったが、1308年にサン=テニミー修道院(Monastère de Sainte-Enimie)の付属となり、1770年にはシラクの神学校の管理のもとに移されている。現在は教区教会である。
 聖堂の平面プランは、内陣の南北にそれぞれ半円形の小後陣が付くいわゆる「三つ葉形」で、これはジェヴォーダンでは珍しく、ここ以外ではプレヴァンシェール(Prévenchères[48.4.2a])とアラン(Allenc
[48.4.13])に見られるだけである。ただしラヴァル=デュ=タルヌでは、南側にもともとあったロマネスク期の半円形小後陣は失われ、後の時代になって方形の祭室に置き換えられている(屋根は三角形で半円頭形の窓が付く)。聖堂東端の後陣部は、五角形であるが、北側半分は1884年に建てられた方形の鐘塔(3階建てで尖塔が載る)によって隠されてしまっている。南側半分には、大小2つの開口部がある。そのうち小さい方の窓は、20世紀には埋められていてそれを内部に納める半円頭形のニッチのアーチだけが残されていたが、最近になってあらためて細長い窓が開けられた。内陣北側の半円形小後陣についても、身廊北側の外壁および西ファサードの外壁を含めて、外部に増築された建物の中に完全に覆われてしまっていて、外からその形を見ることは出来ない(聖堂西側に接続する司祭館は19世紀のもの)。聖堂南側には方形の壁付きポーチ(突出部)が付き、その下に扉口が開いている。3重の半円形ヴシュールからなるアーキヴォルトがインポストをへてそのまま3重の側柱となって地面まで下りる。アーキヴォルトと側柱には装飾は見られないが、向かって左側の側柱のすぐ外側に、紋章の刻板がはめ込まれている。それがどの一族のものなのかは不明である。アーキヴォルトのすぐ上には、現在はジャンヌ・ダルクの小像が置かれている。
 近年の修復によって比較的きれいに整えられている聖堂内部は、5ベイからなる単身廊形式で、その東に五角形の後陣が続く。後陣の壁面上部にはコーニスが巡り、その上に半ドームが載る。身廊の最も東のベイの北側には、半円形のアーチを介してかつて「三つ葉」を構成していた半円形の小後陣が残る。南側にはやはり半円形アーチを介して17世紀頃のものと思われる方形の祭室が付き、この部分はトランセプトを形作っていると言える。身廊の天井は、わずかに尖頭形となったトンネル・ヴォールトで、ピラストル(束ね柱)に付く円柱の上に、同じく尖頭形の横断アーチが架かる。その円柱のいくつかの柱頭には、ごく簡略な図形化された葉飾りが見られるが、それ以外には特に見るべき彫刻装飾は付けられていない。身廊の西端のベイにはトリビューンがあり、その上には階上席が設けられている。
Balmelle(1945)p.30; Buffière(1985)pp.295-296 et p.566; Nougaret et Saint-Jean(1991)pp.288-289; Trémolet de Villers(1998)pp.318; La Base Mérimée.




参考文献と略記号
Balmelle, Marius (1945):Répertoire archéologique du Département de La Lozère,
      Périodes Wisigothique, Carolingienne et Romane, Mende, Imprimerie G. Pauc.
Bertran de Marcilia(2001):La vida de Santa Enimia, La vie de Sainte Enimie. présentée et traduite
      par Felix Buffière, Édition la Confrérie.
Buffière, Felix(1985):《ce tant rude》Gévaudan, tome 1, Mende, Société des Lettres, Sciences
      et Arts de la Lozère.
Chastel, Rémy(1981):Églises de Lozère, Paris, Art et Tourisme.
Deveaud, F(sans date):Saint-Martin de La Canourgue, notes sur La collégiale, Guide de Visite.
Durliat, Marcel et al.(1966):Dictionnaire des Églises de France, IIc, Cévennes, Languedoc,
       Roussillon, Paris, Robert Laffont.
Evin, Jacques, et Rillot, Jacques(2005)≪ La datation des reliques par le Carbone 14 ≫, dans
      Les Dossiers d'archéologie, No.306.
Morel, Jacques(2007):Guide des abbayes et prieurés. Languedoc-Roussillon, Lyon, Autre Vue.
Nougaret, Jean et Saint-Jean, Robert(1991):Vivarais Gévaudan Romans. Saint-Léger-Vauban,
      Zodiaque.
Ribéra-Pervillé, Claude(2013):Chemins de l'art roman en Languedoc-Roussillon. Rennes,
      Ouest-France.
Rillot, Jacques et al.(sans date):La Canourgue, Chapelle de St. Frézal, Langogne, Imprimerie du
      Galion.
Trémolet de Villers, Anne(1992):≪ Canilhac, Tombes de l'église Saint-Vincent ≫, dans Bilan
      scientifique régional, Languedoc-Roussillon, Ministère de la Culture et de la
      Communication, Paris, et Direction Régionale des Affaires Culturelles, Languedoc-
      Roussillon, Montpellier.
――――――(1993):≪ La Canourgue, Église Saint-Vincent de Canilhac ≫, dans Bilan scientifique
      régional
, Languedoc-Roussillon.
――――――(1998):Églises Romanes oubliées du Gévaudan, Montpellier, Les Presses du
      Languedoc.
Trintignac, Alain(2012):Carte Archéologique de la Gaule, 48, La Lozère. Académie des
      Inscriptions et Belles-Lettres, Paris.
Verrot, Michel(1994):Églises rurales & décors peints en Lozère, Chanac, La Régordane.
Revue du Gévaudan des Causses et des Cévennes, 1980/3, Société des Lettres, Sciences et Arts
      de la Lozère, Mende.
Web-site
La Base Mérimée.(http://www.culture.gouv.fr/culture/inventai/patrimoine/)2017.11.01アクセス

GV :Guide de Visite.
RIP:Renseignements ou Informations sur Place.